小品いろいろ
[2024/5/16]
【52】「アメリカの大学生が学んでいる本物の教養」を読んで
このサイトの「本の前書き・後書きを読む」という部屋に、「アメリカの大学生が学んでいる本物の教養」という本の前書きについて書きました。
斉藤淳 アメリカの大学生が学んでいる本物の教養 SB新書 SBクリエイティブ株式会社 2023年1月 初版第1刷
その中で、前書きの内容が非常に魅力的だったことから、「この本はしっかり読んでいこうと思う」と書きました。
ようやく時間がとれて、読んでみて、「久しぶりに、自分にとって読む価値のある本に巡り会った」と感じました。
それで、自分なりの感想や意見を書いてみたいと思ったのですが、どこに書くか、について悩みました。
読むきっかけになったのが「前書き」ですから、「本の前書き・後書きを読む」というところの当該記事に続けて書こうと思いましたが、考えてみると、書く対象は「前書き」の部分ではありません。
そこに文章を付け加えるのは違和感があると言わざるを得ません。
そこで、このサイトでは、いわゆる「その他」とでも言うべき「小品いろいろ」という部屋、つまりここです、があるので、そこに追加することにしました。
以下では、章ごとに私が特に感じたことを書いていこうと思います。その中で、●というマークは、基本的に本書で小見出しに使用した所に対応しています。また、原本の文章の一部をそのまま引用しているところは原則として太字で、かつページ数を表記するようにしました。
●「単に知っていること」の価格破壊
いまや、「知っていること」自体には価値がないわけです。(p.37)
「知識があること」よりもはるかに重要なのは、「その知識を使って何を考えるか(そして他者と議論し、行動するか)」なのです。(p.39)
(p.37)のように言われると、反論したくなります。
私は、知識、知っていること、には十分な価値があると考えています。
正しい知識を持っていれば、考えるスピードが増すからです。
ごくごく卑近な例を挙げてみます。
かけ算のの九九を小学生は暗記するように教えられます。しかし、憶えていなくても、かけ算の九九を表にして持っていれば、憶えていなくても簡単に答えが分かります。
でも、2桁や3桁などのかけ算をするとき、紙に書いて答えを出そうとして、ひとつひとつ九九の表を見ながらやっていたのでは時間がかかりすぎます。
ある時花火が始まったが、はたしてどこでやっているのだろう、と疑問に思ったとき、空中の音の伝播速度が毎秒約340mと記憶していれば、花火が光ってから音が聞こえるまで3秒程度だったとすると、花火の場所までは約1Kmとわかり、ああ、あのあたりか、と見当をつけることができます。このとき、音の速度は、と考えてスマホを取り出すのでは、趣が薄れがちです。
日本語の文章を読むとき、漢字や言葉の意味が分からなければ、辞書を引いて知ることができます。しかし、これでは時間がかかりすぎます。
記憶していることは瞬時に引き出すことができます。それは考えをよりスムーズに展開するのに大いに役立ちます。
考える時や議論するときのテンポ感というものは私は非常に重要だと考えています。
たとえばこういうものです。
AとBの事実を合わせるとCになり、これをXという既知の事実と照らし合わせると、Dという可能性が有力になる。しかしそれはYという既知の事実と矛盾する。だが、以前に考えて得られたNという事柄を考慮すると、Zという考え方が浮かび、それによればDとYが矛盾すると考えたことを解消できる。
こういうことを一瞬に考えつくことは、一つ一つ事実を確認しながら考えていく場合には得られないことが時にはあると感じるのです。
会議とか他人との議論の時に、既知の事実であるX, Y, Nの内容を記憶していないと、議論が滞ります。
考えるときや議論するときのスピード感という事が意味を持つことがあると思うのです。
そうはいっても、前記の(p.39)のことは全く同意します。
そして、重要なのは、「その知識を使って何を考えるか(そして他者と議論し、行動するか)」という部分の、「他者と議論し、行動するか」という事に気づかされた、と言うことです。
「その知識を使ってなにをするのか」が重要なのだ、ということはぼんやりとは、分かっているのです。知っているだけでは大した意味はない、という事は分かっているのです。
それが、「他者と議論し、行動する」と明快に語られると、「ああ、そういうことなのだな」と合点がいきます。
このことは言葉を換えて何度もでできます。もっとも明快に語られているのは、次の文章と思われます。
4章の終わり頃の[p.177]です。
教養とは自分の意見を形成するだけでなく、社会(所属するコミュニティや組織)の一員として自分の意見を人と共有し、議論し、最終的には合意形成していくために培うものです。
そこには、続けて「本書の主眼もそこにあります」と書かれています。
私なりに要約すると、次の様になります。
教養とは、知識、つまり現状認識に基づいて自分の意見を形成し、それをもとに(異なる意見を持つ)他人と議論し、できるだけ多くの合意が得られるように努め、その合意内容を実現するために行動する、ということである
教養というものが「合意された理想を実現するために行動する」ということまで含むものである、という事は私にとって目を開かされたと感じます。
●「わかる」という事について
ここで、最初に、「apple」と「リンゴ」は違うということが説明されています。これは私も理解していることで、私のサイトでは「dog」と「犬」はかなり違う、という事を、「世界での日本のランキング―World Giving Index世界人助け指数(2)の備考*1」のところに書いたとおりです。
ここで書かれたことで重要なことは、「知識、あるいは理解にはレベルがある」というところです。
まず、「すべてを分かることはできない」、「不可能であるし、必要もない」と書かれています。
これもぼんやりとは分かっていたことですが、このようにはっきり断言してもらうと安心します。
ただし、「この理解のレベルを目指すという裁量を働かせられるようになろう、という話なのです」と釘を刺されてしまいます。
自分はどのようなレベルまで理解している、それから先はまだ理解していない、という自覚が必要だ、というのです。
また、自分は○○までは知っているが、それより先は理解していない、という知的謙虚さが大事だ、とも書かれています。
一章では、「すべてをわかることはできない」ということが語られました。
それに続いて、「世の中は不確実なことばかりであり、事実を100パーセント見抜くのは難しい」と語られます。
でも、わかることはできないのだから、あきらめるしかないのか、というと、そうではないのです。
「より確からしいものを見つけることが重要である」と展開します。
p.89にかなり的確な記述があります。
確実なものだけを追い求めていたら、結局は何も決められない、選べない人生になってしまうでしょう。私たちは神ではないのですから、何事も不確実ななかで「確からしさ」を探求し、より筋が通っていて、想定する時間軸で最善の結果をもたらすであろう判断や選択をしながら生きていくしかありません。
新型コロナのワクチンが例にとりあげられます。
新型コロナのワクチンは反対派の主張も一定数ありました。
確かに有効性と服用について、検証が足りないという指摘は当たっています。
その中で、著者が経営する会社では一番乗りで接種を申し込んだそうです。
その理由は、推進派と反対派の顔ぶれを見れば明らかだったと言います。
反対派の多くは「素人の思いつきや妄想」の域を出ないのに対し、推進派では、その道の専門家が臨床試験の結果からリスクと利益をはかりにかけ判断する議論が中心だったと。
つまり、100%正しいという検証はなされていないが、より深く、また慎重な分析がなされていた方を採用する、というのですね。
これは非常にに重要な、自分が生きていく上で有効な考え方と思いました。
二つの相反する意見があるとき、結局どちらを採るのか、という場面はいろいろとあります。
どちらがより徹底して検討・分析されたのか、と言うことを考えるのですね。
ただし、これも単純ではないと私は感じます。
二つの相反する意見というのではなく、どの程度か、という評価の場合、特に複雑になります。
程度ですから、必ずといっていいほど、誤差が生じます。誤差がどこまで許されるか、それが重要です。
二つの相反する意見の場合でも、同様に、結果的に間違った選択をしたときの損害、被害の大きさが問題です。
東日本大震災で原発事故が発生しました。津波の高さの評価の問題です。
津波について「徹底して検討・分析」した土木学会から出されたのは最大で約6m程度、という結論でした。
わずかの人(東北電力の一部の技術者など)が15m程度を想定邸べきと考えていましたが、少数派で、確かな根拠もありませんでした。
しかし、結果的には、15m程度を考えて対策した東北電力女川原発は津波被害を免れ、5m程度を考えて対策した東京電力福島第一原発は甚大な事故につながりました。
評価、あるいは予測が外れたときに発生する損害、被害の大きさも考慮する必要があります。
東京電力福島第二原発事故に関する分析資料をいろいろと調べたことがありますが、予測値の評価方法とその結果についてはいろいろと書かれていますが、予測値が外れた場合について検討ていた様子は見つかりませんでした
予測値が外れた場合などというものは検討のしようがないではないか、と言う意見もあるでしょうが、そうではないと思います。
安全率という考え方があります。よく分からないことがあるので、"念のために"設計値をかさ増しするのです。
昔、私か聞いたことですが、エレベータのカゴをつるすワイヤーの強度はカゴを上下に動かすのに必要な強度の6倍にする、というものです。
カゴの中の人が暴れるとか、地震が起こるとか、ワイヤーの経年劣化とか、明確に予測できない事象が起こりえます。それに備えて強度を割り増しするのです。
私は、津波の高さの予測値が5mの時に、5mの津波に対して対策する、という考え方は全く理解出来ません。50%増しとするか、2倍にするか、など議論はあるでしょうが、予測できた事象以外は想定外だ、という言い分は全く納得がいきません。
東京電力福島第二原発の事故においては、安全率は3倍にする必要があったと考えています。
もう一つ、私は最近、"あきたこまち"を考える機会がありました。
"あきたこまち"は令和7年度から"あきたこまちR"に切り替えられる、と発表されています。
秋田県地方は重金属カドミウムが多く、その対策のために今までは余計な工程が必要になっていたのに対し、カドミウムの吸収がきわめて少ない"あきたこまちR"という新しい品種を開発してこれに切り替えるという話です。
"あきたこまちR"の安全性はきわめて厳格な評価をしていて、一度だけ放射線照射して突然変異を誘発させて、その後6世代以上交配を繰り返してつくられている、放射線照射による品種改良は50年の歴史がある、などと、秋田県の運営するサイトで説明されています。
これって、なかなか微妙なところがあります。
そこに書かれた内容を読むと、確かに、厳格に、また慎重に評価されていることが分かります。
実は私は、今まで、遺伝子組み換え食品はできるだけ避けようと考えてきました。
納豆や豆腐の原料の大豆は多くはカナダ産またはアメリカ産です。そして昔は、「この製品は遺伝子組み換えの原料は使っていません」というような断り書きが表示されていました。しかし、アメリカからクレームが来て「遺伝子組み換え」という表現はしなくなった、という経過を経たと記憶しています。
アメリカの立場では、遺伝子組み換えによる大豆は安全性が厳密に確認されているのだから、「遺伝子組み換え」という言葉で扱い方を変えるのは、差別主義であり、非科学的であるという論調のようです。
おそらく、現在栽培されている植物の一部は、地球外から飛び込んできた放射線により遺伝子が変わり、天候の変化や病気に強い、とか収穫量が増えた、とかの特徴がある品種がでて、それが主流になったというものがあると思います。
天然の放射線による遺伝子の変化は良くて、人間が意図的に引き起こした放射線照射に起因する遺伝子の変化は問題だ、というのは確かに非科学的でしょう。
ですが、"あきたこまちR"の例で言うと、秋田県では重金属の問題があるのなら、"無理して"米作りをしなくてもいいのではないか、とも感じます。
ここでも、放射線照射が"無理して"なのかどうか、それも問題です。
ここで長々と書いてきました。何が言いたかったのかというと、この本のこの部分を読んで、上記のような事をいろいろと考えたのです。
「触発された」という言い方がありますが、まさにそうですね。
この本を読んで、このようないろいろなことを"考えた"、"考えさせられた"のです。
●選択バイアスに注意
隣国同士で軍事費が大きく異なると軍事侵攻が起きやすい」という仮説を例に、注意しないと評価を誤る、と書かれています
隣国同士で軍事侵攻が起きた例を取り上げて評価するとそうなるかもしれないが、同じ条件で軍事侵攻がおきなかった例も含めて検討しなければならない。
この話は、もっと単純な例を聞いたことがあります。
競馬場の入り口で「あなたは競馬が好きですか」というアンケートを採ったら、おそらく90%以上の人が「好きです」ということになるでしょう。
銀座高島屋の前で「デパートは高島屋と三越のどちらが好きですか」と聞いたら、高島屋と多くの人が答えるでしょう。
日曜日の昼頃であれば、人出は多く、年齢、性別などかなりのバリエーションになるでしょう。特に限定せず一人一人に声をかければ無作為抽出に近そうに見えます。でも高島屋の前では結果は明らかです。
これを逆手にとって、ある限定をしたアンケートであるのに無作為抽出したアンケートであるかのように見せかけることもできます。
●「見えないもの」に目を向ける
ここで紹介されたエビソードは、私には初耳で、大変興味深いものでした。
第二次世界大戦の時に、連合国側の空軍で、出撃して帰還した戦闘機の被弾した個所のデータを集めたというものです。
被弾個所は機体全体に平均していたわけではなく、両主翼の端とエンジン後方部分、胴体の中央部、水平尾翼に集中していました。胴体の先端の操縦席付近、両主翼の中央付近、胴体後方の水平尾翼が取り付けてあるあたりは被弾していないのです。
では、今後戦闘機を改良して強化するなら、どこを対象にすべきか。被弾した所を重点的に強化する、というのではないのですね。
それとは逆に、被弾していない所を強化する、というのが正しい判断だというのです。
どうしてかというと、被弾しなかった個所は実際に被弾しなかったのではなく、そこに被弾した戦闘機は撃墜された可能性が高いということです。そのために帰還することができず、従って調査の対象から外れた、ということです。
帰還した戦闘機を全て調査した、ということは正しく、しかも、撃墜された戦闘機は調査することは不可能です。つまり、調査できる戦闘機を全て調査したのです。
被弾した結果がない個所は、そこに被弾して撃墜されたという、データに現われない現象に目を向けることが重要である、ということになるのです。
ある意味では、データがないのではなく、被弾していない個所はそこに被弾すると墜落に直結するというデータを示しているのですね。
注意深く観察すると、データとして現われてきているのです。直接的な現れ方をしていないだけです
最初に「図書館に行こう」ということばが出てきます。
興味があるところから始めるのですが、その最初の糸口は本が最適で、図書館の効用が大きいとあります。図書館の効用の一つは一覧性とされています。いろいろな分野の本をまとめて眺めることができると言うことです。
また、今の売れ筋ではなく、過去に出版された、一定の評価を受けた本が並んでいる、という特徴も挙げられています。
しかし、私はこれと真逆の印象を持っているのです。
以前は確かに、図書館に行くと、いろいろと興味を引く本があって、読んでみると確かにおもしろいと感じるものがありました。
ところが、最近では、興味を惹かれる本がめっきりと少なくなりました。
その原因の一つは、図書館の本はある程度ボリュームがある本が多く、そのような本を読み進めるだけのパワー、あるいは興味を持続する力が私の場合は弱まってきた、と感じることがあります。読書力とでも読んでおきましょう。
若いときは、長編小説とか、哲学・思想関係の本とか、気に入ったものは読めたのです。読書力があったのです。ですが、最近では集中力が途切れる感があります。読書力が落ちたのですね。
それとは別に、どうやら私の場合、ある分野のスタンダードな本よりも、ホットな話題の本の方が興味が長続きするような気がしています。
ですから、図書館で見つかる本より、書店で眺めて見つけた本の方が興味がわき、持続して読み続けられるような気がしています。
なにより、この本自体が書店の店頭で見つけたものなのです。試しに、私が住んでいる市の図書館でこの本を検索しましたが、ありませんでした。発行が2023年1月と比較的新しいので、まだ図書館に入っていないのか、あるいは何かの基準を満たしていないからないのか、そのあたりは分かりません。
赤線を引きながら読み進めるという、精読とでも言うような読み方をしたのは、本当に久しぶりです。そのような本は数年に1冊見つかるとどうか、というほどです。
ですから、書店で見つけたとしても、そのこと自体が奇跡に近いものです。
●読むべき本、捨て置く本の見極め方
この部分も私はちょっと違う考を持っています。
まず、「売れているから」「話題になっているから」という理由で本を選ばないでください。(p.107)
確かに一時的に大きな話題になり、よく売れた本が、しばらくするとまるで注目されない、というケースはあるでしょう。
「そこに書かれている情報なり知識なりに正当性がなかった、つまり歴史的検証に耐えられなかったから消え去ってしまったということのです」という指摘が当たっていることはあるでしょう。
しかし、歴史的検証に耐えた10年前、15年前に出版された本だけでいいのでしょうか。
変化の激しい現代では、そのように古い本は現在では意義を失っていることもあります。
現在注目を浴びている本が、これから、5年、10年と輝き続けるかもしれません。あるいは、これから2, 3年だけでその後は意味を失うかもしれません。
災害に関する本では、災害の危険性は数年で様相が変ることがあります。その場合、古い本は妥当性を失うこともあるでしょう。
現代史では、10年前の世界の様子は現代ではかなり変ってしまっています。
ですから、歴史的検証に耐えた本も、現在の生きた状態を対象に書いた本も、どちらも有用だと感じます。
さて、その後に、「おもしろそうに思えた本」について、チェックしておくべきポイントが4項目上げられています。以下です。
参考文献(引用元)が示されているかどうか
著者略歴
「あとがき」などに入っている謝辞
その著者の論文掲載実績
「参考文献」については、この項目が4項目の先頭に配置されていることも含めて、全く同感です。
アマゾンで購入した商品に対して自分なりの評価点と評価内容を投稿できます。その内容は他の人々がその商品を選択するときの参考になります。
私の場合、それほど多くの評価を投稿しているわけではありませんが、その中の一つとして、古典文学のある解説本に対して、「参考文献と索引がないのは大きな欠点である」と書いたことがあります。今読み返してみると、ちょっと厳しすぎる表現かもしれないとも思いますが、本を読んだときの実感ですから、それで良いとも思えます。
私の考えでは、ほとんどの場合、参考文献と索引は必須だと思っているのです。
昔買ったフライト・シミュレーター・ソフトのマニュアルには、巻末に詳細な参考文献が並んでいて感激したことがあります。
それで、この本ですが、参考文献は充実していますが、索引はありません。
索引については、私はあるべきだと思っています。
実際の所、読んでいて、前の方で"好奇心"について書いてあったと思い、ぱらぱらとページをめくってみましたが見つかりません。しばらくして目次を見ると探せるかもしれないと思いつき、索引を読むと、小タイトルに"好奇心"を含むものがあり、探し出せました。
この本では目次が詳細で、索引がないのをカバーしているとも言えます。しかし、やはりあった方がいいです。 [追記1 2024/5/23]
ただし索引を準備するのが大きな負担で、本の価格、発行タイミングに影響するという事であれば、仕方がない、ということにはなります。
「著者略歴」については、私はそれほど重要ではないと思っていましたが、本書に「著者略歴から、著者に働いたバイアスが垣間見えることがある」と書かれていて、なるほど、そういうことか、と合点がいきました。
同じことは、3番目の「謝辞」についても同様です。謝辞では、言ってみれば、著者が関係者に対し"義理"を果たす、という意味合いでとらえてきたのですが、もっと積極的なとらえ方があるのですね。
「論文掲載実績」については、ときどき、掲載してはあるものの、"紀要"などの査読のないものばかりが並んでいて驚くことがありました。
こんな大きなテーマについて論じているのに、こんなに自信たっぷりに記述しているのに、著者が執筆した論文として、"紀要"に掲載したもののタイトルか並んでいると、「あれ、ここに書かれたことを信じて大丈夫かな」と不安になったりします。
●なるべくオリジナルの議論に触れる(pp.123)
これに関しては、私は切実な経験をしています。
この私のサイトで始めた「世界での日本のランキング」の記事は3回だけ書いて中断という扱いにしました。
その理由は、世界ランキング記事中断の記に書いたのですが、理由の一つはそこに書くのを取りやめました。
中断のきっかけになった記事は2回目のものです。
「世界での日本のランキング」は、世界での日本の評価を紹介するものですから、元の記事は日本語ではなく、事実上英語です。
記事中に、元の記事へのリンクを張ってあり、その記事を見た人は、文字通り"ワンクリック"で元の記事を目にすることができるようにしてあるのです。
ある時、いわゆる"エゴサーチ"というもので、私が書いた記事がどこかで参照されているかを調べました。そうしたところ、「世界での日本のランキング」の第2回目の記事がある投稿サイトに取り上げられていて、いろいろに意見が述べられていました。
曰く、「日本のランクはこんなに低いのか」、「本当にこのように低いのか」、「(私の)調べ方がおかしいのではないか」、「どこどこにはこれと違うことが書いてあった」、などと意見が寄せられていました。
私がショックだったのは、その意見の中で、誰一人として元の記事を読んでみた、という人がいなかったのです。
私が書いた記事では、「"ワンクリック"で元の記事を目にすることができる」ようにしてあるのです。それなのに、誰も元記事に当たろうとしないで騒いでいるだけなのです。
元の記事が英文であっても、構文は単純でわかりやすく、単語は分かりにくいものはあってもネット環境なら簡単に調べられます。翻訳サイトを使えば、無料でしかも瞬時に日本語に翻訳してもらえます。
私は非常に悲しく、また腹立たしくなり、記事を書き続ける気持ちがすっかりしぼんでしまいました。冷や水を浴びせられた、という印象でした。このことが記事の中断の最大の理由だということを「中断の記」に書く気持ちさえなくなりました。
●英語を学ぶと、アクセスできる知識が一気に広がる(pp.127)
「原書といえば、アメリカの大学生は、教材として原書を読みます(p.130)」
この部分では、日本の仏教に想いをはせ、悲しくなります。
平安時代には、最澄、空海、そのほか何人もの人たちが仏教を学ぶために中国に行きました。
その後、鎌倉時代になると、いわゆる鎌倉仏教が始まります。
法然、親鸞、日蓮という新しい宗派を始めた、日本仏教の巨人と呼んでいいような人々は中国に行くことがありませんでした。天台宗が教育機関として整備されたこともその理由の一つでしょう。
ここにあげた日本仏教をリードしてきた人たちが、中国語訳の経典しか学んでいないのです。中国に行っているなら、インドから大量の仏典を中国に持ち帰っているから、それを学んだ可能性があるのでしょうか。
私はその可能性はほとんどないと思います。というのは、中国では、インドから持ち帰ったサンスクリット語やパーリ語の仏典を中国語に翻訳すると、原典は焼き捨てる、という方針を採っていたからです。
なぜ原典を焼き捨てたかというと、中国語訳の作成は厳格な体制で行われていて、間違いがないから、サンスクリット語やパーリ語の仏典は必要がない、という考えだったのではないかと思っています。
さらに付け加えるなら、このような仏教界の巨人は、仏典の日本語訳も書きませんでした。中国語訳で自分たちは十分だったのでしょう。しかし、日本語訳を書いて多くの日本人に仏教の教えを広めよう、とはしませんでした。このことも私が過去の日本の仏教に失望する所です。
「日本人は一般的に意見をもつことも、意見を表明することも苦手とされています。」
書き出しはこのようなものです。
原因の一つとして、教育上の問題があると著者は言います。生徒の一人一人が意見を持つと、教師として管理しづらくなるから、と。
教師の意向により、生徒が意見を持ったり、意見を表明することが抑制され、その結果、生徒はそのような訓練を受ける機会が少なくなる。
もう一つの点は、水田耕作を基本とする日本人は周囲の人たちと共同で作業を行うことが増え、その中で、協調性が重んじられ、「人に迷惑をかけてはいけない」と教えられる。
しかし、現代では、ビジネス、あるいは政治・経済の分野では、意見を出し合い、議論することでしか、交渉をまとめ上げることはできない、と指摘されます。
私が会社生活で感じた点として、もう一つの要素があるように思われます。
改革・進歩することに対する不熱心さ、ということです。
改革・進歩ということに対する推進力が圧倒的に不足しているのです。
言葉を換えると、「現状維持で十分」、「現状で満足」という考え方です。
「慌てず、騒がず、淡々と」ということが日本人の考えかたのベースにあるように思われます。
農耕民族ですから、慌てても何にもならない、時期が来たらやれば良い、という意識なのでしょう。
企業の多くで、社内の改善活動というようなことを行っています。それがどうも形だけになっていると感じます。
毎日毎日、商品の品質・性能とか業務の仕方を必死に改革・進歩していかないと、競争に負けてしまう、という切迫感がないのです。
競争に負けることは、勤めている会社が倒産し、自分は失職する、ということなのです。
企業の状態が明日も、来月も、来年も、何も変らずに存在するはず、という変な安心感に浸っているような気がします。
私の場合、会社勤めの最後の15年くらいは、海外顧客から仕事を受けていました。
その中で、相手の米国人は、とにかく前進する、という力がみなぎっているような印象でした。反対に日本人は、「そんなに急いでどこに行く」とばかりに、ぬるま湯につかってのんびりしているようだ、と思いました。
そういえば、このような事がありました。
多くの業務を言い渡されてこなしているときに、新しくこれこれをやってもらいたい、と要求されたのです。現在、やることが山積していて、新しい要求に対応することは難しい、と言うと、それでは"prioritize"が必要なのだな、と言って、山積みになっている仕事をリストアップロードしてくれ、と言ってきたのです。
"プライオリタイズ"という単語はほとんど初耳でしたが、"priority"という簡単な言葉があるので、意味は分かりました。
それで、仕事の中身をリストアップロードしていくと、それは後でいい、これとこれが最優先、などと指示してくるのです。そのときは、そんなところまで口出しされるのは腹立たしい、とも思いましたが、他方、業務の推進に"なみなみならない"強い思いを感じたのでした。
日本人の仕事の仕方には、切実さが不足している、と感じたものでした。
●日本人の最重要課題は「自己肯定感」日本人は「自己肯定感」が低い、ということはよく指摘されますが、私はそうかもしれないが、それが重大な問題だとはとらえていません。
むしろ、ここで書かれている
「周囲との和合を重んじるあまり、他者との意見の粗相委を過度に恐れ、「批判」を「否定」と受け取る嫌いがもある(p.147)
という部分です
批判・批評を受けたとき、自分が非難・攻撃をされたと感じてしまう、という傾向です。
極端な場合には、ある成果が出たとき、「まだ到達していない○○のことが重要である」、あるいは「次の課題として○○のようなことが考えられる」 というと、「自分の成果が否定された」、「自分は非難されている」というような受け取り方をされてしまうことがあります。
これらは、もう少し後(pp.152)で、詳しく論じられています。
この議論は重要だと思いますので、少し詳細に引用しておきます。
ひょっとしたら日本人は、意見を形成するトレーニング機会に乏しいぶん、意見を持つこと自体をなにか大きなことだと構えている人が多いのではないでしょうか。(p.152)
「意見に対する批判」を「人格(存在)否定」と捉えがちな精神的土壌があるために、自分が意見を言うことで自分が傷ついたり、、誰かを傷つけたりすることを、過度に恐れているようにも思えます。(p.152)
自分は自分です。そして他人は他人です。もちろん誹謗中傷は論外ですが、自分の意見が誰かを傷つけるかもしれないなどと気にする必要もないでしょう。(p.153)
私の会社生活で、まずいことが起こった、ということの代表的な体験の一つを書いておこうと思います。
同僚がある成果を発表したとき、私は不満を口にしました。まだまだである、というニュアンスです。しかし、そのほかの参加者は賛辞ばかりでした。
その違いはというと、発表された成果はその分野では大きく進歩した内容なのですが、その分野を離れて一般論として考えると、まだまだのレベルなのです。
業務上の守秘義務があるので詳しいことは書けないのてすが、要は、「(その分野に限っては)大きな進歩だ」と言うか、「(一般論としては)このようなところがまだまだだ」、と言うかの違いです。
そのときの私の言い方が、あまりに"あからさま過ぎた"のかもしれませんが、それ以来、周りの私を見る目が急によそよそしくなって、避けられるようになった、という印象を受けました。
そのときの経験があったので、その後しばらくして、ある学会発表を聞きに行くことがあり、同じように、その分野では大きな進歩で、一般論としてはいろいろと課題がある、と感じたときに、少し表現を和らげようと考えました。
「今回の発表内容はきわめて大きな進歩であると感じました。ここまでレベルが高くなると、○○という事が次の課題の一つになるのではないでしょうか」という言い方にしたところ、発表者も喜んでいたようだし、別の参加者からも、「私も今の意見に同感です。○○ということに今後注力していただけることを期待します」というような言い方をしていました。
そのとき、「なるほど、こういう言い方をしないとだめなんだ」と痛感したのです。
何かを批評するとき、「ちょっと褒めてちょっとけなすというのが常道」だ、と聞いたことがあります。良い点と足りない点を両方言わないといけないのでしょう。
むかし目にした子育てに関する秘訣をまとめたものがあり、その一つに「三分諭して七分褒め」というものがありました。
どうして三分と七分の割合になるのか合点がいきませんでしたが、物事の両面について言うべき、ということは、いろいろなところで言及されているのは確かです。
●「So what?」まで考える
「だから何?」これって強力な言葉ですね。
私がこう言われたら、多くの場合、口ごもってしまうでしょう。
人を黙らせるのには良い言葉です。
それに対して、「そこまで考なさい」と言っているわけです。
そう考えると、「だから何?」といわれて返答に困る、ということは、確かに"考えが足りない"でしょう。
それにしてもキツいなあ、と思ってしまいます。
そこまで考えなくてはいけないのかと落胆したかもしれませんが、これは重要なポイントです(p.177)
と明確に釘を刺されてしまっています。
自分の考えをまとめるところから、「だから何?」という事を考えてまとめるまでには大きな段差があります。
私のこのサイトの記事で、「だから何?」まで書いてあるものはほとんどないですね。
このサイトは、自分の考えを、とりとめのないものであっても書き残そう、という趣旨なので、書きっぱなしでもかまわないと考えていますが、それにしても、「だから何?」まで言及したことがほとんどない、というのはちょっと寂しいな、と考えざるを得ません。
「私はこう考えました」では「ああ、そうですか」で終わってしまう、いう文章を目にすると、「うーむ、なるほど」と反省しきりです。
この「だから何?」までのステップは段差が大きい、のですが、そこまで進まないと何の意味もない、ということなのでしょうね。
議論の「撤退線」を引いておく
合意形成まで進めるのが本来の形ですが、どうしてもそう行かないときがあります。
無理して合意形成する必要はない。どうしても相手の意見に同意できなければ交渉決裂してもいい。(p.191)
どこまで譲歩するかという「撤退線」を引くことも必要、と書かれていますが、わたしはそれと同時に、「いつ撤退するか、を判断する」ということと「自分なりの撤退の仕方を考えておく」ことが重要なことだと思われます。
つまり、「いつ撤退するか」、「どこまで撤退するか」、「どのように撤退するか」という三つのことです、
これらのうち、最初の二つは議論の途中で、ダイナミックに判断する必要がありますが、最後の「どのように撤退するか」については、自分なりのやり方を常々用意しておくのが良いのではないか、と思っています。
そのように考えたきっかけは、会社勤めをして間もないとき、今から50年くらい昔の体験です。
どのようなものかというと、たぶん同じ年に入社した全員が何かの集りに呼ばれたときのことです。
ある二人、AとBとします、が熱のこもった議論を始めました。
議論はBの意見が優勢になってきたときに、Aが次のようなことを言ったのです。
「私は君の主張の方が優勢であると思う。しかし、私の主張を取り下げて君の主張を採用する、というほどに優勢ではないので、今の段階で私の主張は変えない。」
君の主張は優勢だが、私の主張を圧倒するところまでにはなっていない、という、ある意味では冷静な、ある意味ではうまい切り抜け方だなあ、と感心したのです。
議論が膠着状態になると互いに消耗するばかりで、あげくには無理して、うそ、はったりに走りかねません。
ある程度まで進んで、それ以上は進展が望めない、と思ったら、停戦することを考えた方がいいでしょうね。
停戦とするか、少し撤退するか、そのあたりは議論の流れによって変るでしょう。
つまり、引き分けか、判定勝ちか、いろいろと手はありそうです。主戦論だけで、最終的に決着するまで戦う、というようにこだわることは否定されなければなりません。
追記1 [2024/5/23]
索引ですが、このたび、この本をスキャン入力してテキスト認識させ、上で取り上げた"好奇心"を検索して見ました。その結果、上記に書いた「目次に出てくるところ」の他に、同じ1章の別の小見出しの所に一か所、3章と5章にもそれぞれ一か所、またエピローグにも一か所見つかりました。本書では"好奇心"について重要視していることが分かります。最初に「"好奇心"について前のほうに書いてあったはず」ということをどこで思ったかは忘れましたが、このようにあちこちで言及されていることは、索引がないとなかなか分かりません。