前書き・後書きの部屋 [6]


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51. 9条どうでしょう (2017/10/2)
52*. さりげなく思いやりが伝わる大和言葉 常識として知っておきたい美しい日本語 (2018/1/6)
53. 中日大辞典 増訂第二版 (2019/11/28)
54. 新訂 官職要解 (2019/12/1)
55. 肝大小心録 上田秋成 (2019/12/23)
56. 古事記 (2020/1/14)
57. ザ・テクニカルライティング (2020/1/27)
58. チャレンジ小学国語辞典 (2020/2/20)
59. アメリカの大学生が学んでいる本物の教養 (2024/3/16)

ページ先頭のタイトル・リストで、番号に"*"を付けた項目は、対象となる本は手持ちではなく、図書館等で読んだものであることを示す。


51. 筑摩書房 9条どうでしょう

ちくま文庫
筑摩書房
内田樹、小田嶋隆、平川克美、町山智浩

前書きにかえて―「虎の尾アフォーダンス」と「脱臼性の言葉」

(ほぼ中ほどまで略)

 人間はそこにドアノブがあると回したくなり、ボールが転がっていると蹴りたくなる。この趣向性のことをジェームズ・ギブソンは「アフォーダンス」と呼んだ。「水平な固い地面」は「歩くこと」をアフォードし、「腰の高さの水平面」は「座ること」をアフォードする。

 その語法で言えば、「虎の尾」が「踏むこと」をアフォードする種族がこの世には少数だが存在する。

(以下略)

この本は、久しぶりに入った書店でなにか面白そうな本はないかと歩き回っていて(フロアが広い書店だった)、立ち読みしていた時にある個所が気に入り、購入して帰宅してから読み始めて前書きの上記の部分を見つけた。

だから、前書きの話の前に、そもそも気に入った個所の話から書き出すのが良いと思う。

「私が今改憲を呼号する人々に共感できないのは、彼らが戦後六十年の疾病利得を過小評価していることを不安に思うからである。」

このたった1行の文章である。

私(このサイトの管理人)は憲法を"書き換える"べきところがある、と考えている。

"憲法の改正"と書くのは控えたい。改正は「正しくないところを正しくあらためる」ということになるだろう。何が正しいか、正しくないか、というのは人によって考え方が違う。従って"改正"といった時にその意味するところは人によって違ってくる。そうなると議論がかみ合わない

たとえば私は、自衛隊は軍隊として認めるべきだと思う。

今自衛隊をなくすと東アジアの軍事的なバランスが崩れて国際的な緊張が高まり、戦争が起こりがちになる、という消極的な理由からではない。

どうも、人間というのは目の前のもの、隣のものと共存するには、絶えず圧力を加え続けて、そのダイナミック・バランスを常に保つ、という形が一番安定しているのではないか、と思うようになってきたからである。

では改憲派であると宣言するかというと、それは誤解を招く恐れが高いのでできないと思うのである。

改憲に賛成する人々の意見はほとんどが、現憲法はアメリカ合衆国に押しつけられたから自分の手で憲法を決め直すのだと言う。

現憲法は戦前の憲法と比べて良くなかったのか、悪くなったのか、ということを議論しない。あえて避けているように私には思える。

私は、「現憲法は戦前の憲法に比べてとても良くなった、さらに良くしよう」、という考えである。

だから、たとえば、憲法の初めには現在の第十一条~第十三条を第一条~第三条にし、さらにこの三つの条文は憲法改正ができないように規定すべきと私は考える。

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

引用元は"電子政府の総合窓口 日本国憲法"である。

ところで、著者は「現憲法は戦前の憲法に比べて良くなった」という書き方はしていない。だから私と意見が一致しているとはいえない。

ただ、原憲法の評価はどうなの、と問題提起しているところに共感を得るのである。


前書きからずいぶん外れてしまったが、この本を読むきっかけになったことなので、あえて書いた。


さて、前書きである。

「人間はそこにドアノブがあると回したくなり、ボールが転がっていると蹴りたくなる。」

人間はそういうものだ、ということを読んですこし安心した。(少なくとも、そういう人が少数だがいる、ということだ。)

ずいぶん前のことだ。20年くらい前のことだろう。勤め先の会社で、ある時、会議を今まで行ったことのない会議室でやる、というので、場所を知っている人に案内してもらった。

教室風の建物で、それ以前は社内教育で使っていたところが使わなくなり、会議室にした、という印象だった。廊下を進んでいくと、廊下の所々に水道の蛇口がある。手を洗うのにちょうどいい高さだが水を受けるボウルの部分がない。使わなくなったので取り外したのだろう。水道の蛇口は簡単に取り外すことができなかったのでそのままになっている、という感じがした。

ちょうどいい位置に蛇口のハンドルがある。

回るのかなぁ。

少し回したら水が出てきたので慌てて閉めた。廊下が少し濡れてしまった。

同行の人が行った。「それ、回すかなぁ」

そうか。普通の人は回そうとはしないのか。

自分の反応に苦笑するほかはなかった。

昔からそうだった。ネジがあれば回す。バネを見れば押す、あるいは引っ張る。戸があれば空ける。スイッチがあれば入れてみる。

子供の頃、電球が切れたので交換するように親に言われた。白熱電球である。電球を回して取り外すと、ソケットの内部が見えた。周囲に丸ネジが切ってあり、その奥には板バネがある。電球に流れる電気は、一つの電極がその板バネ、もう一つの電極は丸ネジであることは分かっていた。

板バネは人差し指で押すとちょうどいい具合に輝いていた。(何がどのように"いい具合"なのかはよく分からない)。

実際の所、この板バネは押されることで本来の役割を果たすのである。板バネは「押してちょうだい」と言っているように感じられた。

人差し指を伸ばして板バネを押そうとした。そこには100Vの電圧がかかっているので、指が触れた瞬間にいきなり「ビリビリビリ」ということになった。

アフォード力が異常なのだろうか。

「"虎の尾"を見つけたら、踏んでみたいと思って抑えが効かなくて踏んでしまう」、という人がいるという。

私は度胸がそれほどないので、そこまでは行かない。妻や子、孫に迷惑をかけるわけにはいかない。

でも自分がもし結婚せず、従って子供がなく、当然ながら孫もいない、という状況なら、と考えてみる。

おそらく、自分一人ならもっと大胆なことをしていたに違いない。もちろん、法を犯さない、という範囲だが。

"虎の尾"。確かに魅力がある。気のせいかもしれないが「踏んでください」と言わんばかりの姿をしている。

踏んだらどうなるのだろうか。

虎がいきなり頭を上げて飛びかかってくるのだろうか。それなら逃げる準備をしておけばいい。

隠れる建物がないならどうする。いや、虎だっていきなり飛びかかってくるのではないだろう。まず相手を見極めてそれから飛びかかってくるのに違いない。それならこちらは踏んだらすぐに逃げることに決めていれば、虎が一瞬判断に迷っている間に逃げればいい。

あるいは、尾を踏んだらすぐに身をかがめて息を潜めたら気がつかないかも。幸いにもこちらは風上にいる。


どうしてこんなに"虎の尾"を踏みたいのだろうか。"虎の尾"を見つけた時を想像したときのその高揚感はいったい何なのだろうか。


ああ、踏んで見たい。

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52*. さりげなく思いやりが伝わる大和言葉
常識として知っておきたい美しい日本語

上野誠
幻冬舎
2015年6月 第2刷発行

はじめに

大和言葉を大切にする

(途中略)

私たちの祖先は外国の言葉を取り入れてきました。だから、日本語を「大和言葉」と「外来語」の二つに分けることもできます。

▲大和言葉…もともとあつた日本語
△外来語…中国から来た言葉
    …ポルトガルから来た言葉

(中略)

私はよく学生に言います。「紙切れをポルトガル語では『カルタ』、ドイツ語では『カルテ』、英語では『カード』という。しかし、ポルトガルから来たカード遊びで遊んだ人々は、その紙切れを『カルタ』と呼び、ドイツで医学を学んだ人々は診療記録紙を『カルテ』と呼んだわけだよね。私たちはみごとにこれらの言葉を使い分けているではありませんか?」。

(中略)

だから、何がなんでも、日本人なら大和言葉を使わなくてはいけないというのは、言葉というものの性質をよく知らない人の言い分です。

それは、大和言葉のセンスをみがくことが、現代においては、たいそう難しいからです。そこで、なるべく大和言葉のもっている微妙な言い回し(ニュアンス)をうまく使いこなせるように、センスをみがくことができたらよいなぁ、と思いつつ、本書を企画しました。

 だからといって、外来語を排除するようなことはしません。大和言葉と外来語を区別することは大切かもしれませんが、区別したからといって、言葉の使い方がうまくなるなどとは思わないからです。

(以下略)

この本では、上記で参照した前書き("はじめに"で始まる文)に続いて目次があり、その後に、272の言葉を11の章に分けて解説している。

"さくいん"に収録された言葉の数は272である。一つの項目に複数の言葉が説明されているところもあり、項目の数は215である。

"ねぎらう"、"いたみいる"、"思いのたけ"、"たたずまい"、"奥ゆかしい"などの言葉がちりばめられている。

それで、最初の項目は何かというと、"ちょうだいする"である。

あれっ、"頂戴する"なの?たしか、この本の題名は「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉」のはず。最初から中国由来の言葉が出てきている。

二番目の項目は"もったいない"。あれっ、"勿体ない"、これも中国由来の言葉だ。

その後は"お招き"、"おいでいただく"、"一入ひとしお"などと大和言葉が並ぶ。

巻末に"さくいん"のページがあるので眺めると、"宴たけなわではございますが"、"往生際"、"黒文字"、"極楽とんぼ"、"古式ゆかしく"、"事と次第によっては"、"言葉を飾る"などの中国由来の言葉が含まれる項目がある。

ここで整理しておこう。

本の題名は、「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉」で、「常識として知っておきたい美しい日本語」という副題が付いている。

前書きでは、「外来語を排除しない」という方針が述べられている。

本文では、大和言葉の項目が大部分だが、中国語由来の言葉を含む項目も少なからずある。

要は、副題と前書きと本文は一致していて、題名がずれているのである。だって、「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉」だったら、「大和言葉」だけを対象にするはずだから。

すこし考えてみた。

そういえば、このシリーズでも、これと似た状況を書いていることを思い出した。

過去の記事をチェックすると二つ見つかった。

一つは、「29. 角川古語辞典」、もう一つは「47. 人生に必要な知恵は幼稚園の砂場で学んだ」である。

前者では、外箱の帯のキャッチフレーズ的な文章と前書きが一致せず、後者では、邦訳の題名と内容、あるいは邦訳の題名と原著の題名が一致しないというものである。

具体的には次のようなことである。

角川古語辞典

外箱の帯には、"本書の特長"として第一に収録語数が多い、ということを挙げているのに対し、前書き("この辞典のねらい"という見出し)では、「無駄な言葉を省き、必要なことは懇切に説明するということを常に念頭において編纂されました」、「いたずらに語数の多い辞典を使って神経を擦り減らすよりも、必要なことばかりを要点を絞って親切に解説した辞典で勉強するほうが効率よく勉強できるでしょう」などと書いていて、収録語数が多いことを否定している。

人生に必要な知恵は幼稚園の砂場で学んだ

原著の題名では"幼稚園の砂場"ではなく単に"幼稚園(Kindergarden)"である。また本文は、原著でも邦訳でも"砂場"という言葉はほとんど出てこない。

この二つの例では、著者(訳者、編者)と出版社の意見の違いではないかと想像している。

売れ行きを伸ばすために、なるべく人目を引く言葉を押し出しているのだろうと。

そもそも、題名と副題の関係がちょっと変わっている。

多くの場合、副題は題名がわかりにくいときにそれを補足するような言葉にするものである。

たとえば、このシリーズで取り上げた例でいうと、「フリー <無料>からお金を生み出す新戦略」がある。題名が単に「フリー」であったなら、何の本なのか見当がつかない。そこで「<無料>からお金を生み出す新戦略」という副題が付けられているのだと思う。

題名が「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉」、副題が「常識として知っておきたい美しい日本語」では同じような言葉が並んでいるだけである。


出版社の意向が働いた結果このようになったのではないか、と想像する。次のようなことである(もちろん、勝手な想像である)。

著者は「常識として知っておきたい美しい日本語」という題名を考えた。

出版社側は、"日本語"よりもインパクトが強い"大和言葉"を使うべきと考えた。さらに"さりげなく"、"思いやり"という二つの言葉をいれた。確かにこの二つは大和言葉の代表としてふさわしい。「常識として知っておきたい」は"月並み"という印象を受ける。

ちなみに、この二つの言葉は本書には収録されていない。

その結果、題名は「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉」とし、著者の案である「常識として知っておきたい美しい日本語」は副題という扱いにした。

残念なことに、「大和言葉に限らない」という本書の方針と内容に矛盾した題名になってしまった。


題名と内容が不一致になることを出版社側は気づかなかったのか、知っていて無視したのか、それは分からない。


さて、このように書いたところで、ふと思った。

私はお金を出してこの本を買ったのではない(図書館で借りたのである)。そういう立場で、本の題名と内容が一致しないと文句をいえる立場にあるのだろうか。

こう、思い直した。

私は題名が"大和言葉"ということからこの本を選んだのである。ところがいざ本を読み出すと、大和言葉ではない言葉が取り上げられている。

だまされた、とまでは言えないが、がっかりしたのは間違いない。

題名が"大和言葉"ではなく"美しい日本語"だったら借りなかった可能性がある。ちょうどいま、漢字が入ってくる前の言葉、つまり大和言葉について調べているので。

ということは、"大和言葉"という言葉に惹かれて借りたのであり、これは出版社がまさに期待した(と私が勝手に想像している)ことが起きたということになる(買ったのではないが)。出版社のもくろみは当たったのである。なるほどね、と思った。


ここで実感したのは、前書きを読むと、著者の考え方、著作の方針といったことがじつによくわかる、ということである。

著者が伝えたかったのは"美しい日本語"であり、その中核は"大和言葉"だろうが、決して外来語、外国に由来する言葉を排除する考えではない。

想像をたくましくすれば、題名が「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉」になると出版社から知らされた著者は、やむなく、「外来語を排除するようなことはしません」、という文言を挿入して強調した、という可能性もある。

真実は定かではないが、"よい前書き"はこの例のように、「大事なことを語っている」、ということを再確認した。

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53. 中日大辞典 増訂第二版

愛知大学中日大辞典編纂処編
大修館書店
1999年11月 増訂第二版第7刷発行

編者のことば (愛知大学中日大辞典編纂処 編纂委員長 鈴木拓郎)

発端:昭和初期以前に中国語を学んだ人にとって最大の悩みは教科書・参考書・辞書がすこぶる不備だったことである。

(中略)

外国語の辞書をつくることは.もとより容易なことではない。明治中葉以来,すでにわが国における西洋諸国語,特に英・独・仏語の辞典がほぼ完備していたのは,わが国におけるそれらの外国語の研究が進んでいたからであるが,実はそれらの諸国ではそれぞれの国語の研究が進んでおリ,りっぱな辞典ができていたからだからともいいうる。

しかし.中国においては従来学者は古文を重んじ,口語を軽んずる風があったので,中国語に対する中国の学者の研究はじゅうぶんではなかった。

(中略)

従来,東亜同文書院は常時十数名の日中両国人の中国語教師を擁していたので,中国語辞典をわれわれの手で編むことは可能であり,またその責任もあると感じていた。そこでわたくしはわれわれの手で中国語辞典を編纂することを発起し推進した.

(中略)

編纂業務は教学の余暇全員によって進められた。後に中日事変・太平洋戦争のために業務は停頓したが,敗戦後,財産として中華民国へ接収されたときは,粗資料カード約14万枚あり,語数としては7-8万語であったろうか.

(中略)

原稿カードの返還:戦後ややおちついた1953年7月愛知大学長(元東亜同文書院大学長)本間喜一氏から,辞典原稿をかえしてもらうよう願出ようと熱心に説かれた。

(中略)

原稿カードは中国人民保衛世界和平委貝会劉貫一氏から「日中文化交流のため改めて日本人民に贈る」という主旨で,1954年9月引揚船興安丸に託して送りとどけられた。

(以下略)

途切れ途切れに引用したので、文章がだいぶ読みにくくなってしまった。勝手に要約するのを避けたためである。


この辞典についてはずっと前からその存在は知ってはいた。判型が小さく、分厚い所がちょっと変わっているという印象だった。

ページ数で言えば、今回私が入手した増訂第二版は、本文が2500ページ余、そのほか、最初にある索引、最後にある付録がそれぞれ100ページ以上あり、合計で2700ページを超える。判型はA5サイズより一回り小さい。もっともハンディな辞書の多くと判型はほぼ同じである。

中国語辞典なので、漢和辞典の様に、漢字の一つ一つに対してその成り立ち、発音、意味などを説明した後に、その漢字で始まる熟語を日本語の読みの順に並べる、というものではなく、見出し漢字の発音とその意味が簡単に述べられ、その漢字で始まる熟語が並べられる、という体裁である。また。文例は現代文からとったものが多い。この点では、漢和辞典が文例を中国古典から取っているのと大きく異なる。また、漢和辞典では解字、つまり漢字の成り立ちに関する記述が丁寧に成されるが、本辞典ではそれがないことも異なる点である。

いや、従来型の漢和辞典との最大の違いは見出し漢字の配列が発音順であること、と言うのが正しい。

漢和辞典では、音読み、訓読みでひける索引があり、通常はこの索引で漢字が出ているページを求め、そのページを開く、という手順になる。本文の漢字は、部首ごとに分類され、同じ部首の漢字は総画数の順に配列されている。この辞典ではその音読み、訓読みで引ける索引がないのである。

見出し漢字はその読みのアルファベット順に並べられている。「親字も見出し語も漢語拼音音字母による字音アルファベット順に配列してある」と書いてある。拼音はピンインである。

従って、多くの日本人にとっては、部首ごとに分類され、その中は総画数の順に並べられた索引で探すことになる。

漢和辞典を引くときでも、音訓の読みが全く見当がつかないときには部首と画数から索引を引くことがあるが、かなり面倒である。この辞典ではこの引き方に頼ることになる。

ただし、現代中国語を学ぶ人にとっては、たとえば"常"は"chang"だから、アルファベット順で"chang"の場所に"常"の文字があるべきである。この辞書はまさにそうなっている。


前書きの内容に触れるまでだいぶ遠回りしてしまった。

辞書の編集では、用例を集めることから始まる。

そこに第二次世界大戦が深く関わってきた。

用例収集が進み、14万枚の資料が蓄積されていたところで終戦になった。戦争に勝ったのなら問題はなかったが、敗れてしまった。

軍備に関する物は破壊され、貴重品は渡さねばならない。しかし、辞書編集のための用例データのような純粋に文化的な財産まで渡さなければならなかった、ということは私はまったく想像できなかった。

「編纂業務は教学の余暇」に精力を傾けてきた成果である。それが取り上げられたのである。

更に驚くことに、渡した相手国は中華民国で、返還してもらった相手は"人民"という言葉からも、また1954年という年次からも共産党政権下の中国である。(一般に、中華人民共和国の建国は1949年とされる。)

中国国民党が中国共産党との戦いに敗れて台湾に逃れたとき、このような接収品は、きちんと引き継がれたのだろうか。

この接収品はどういう物なのか、がはっきりしていないと、権力を掌握した中国共産党政権に変換を求めたにしても、どれがそれなのかが分らない。

前記の"編者の言葉"の文章から考えると、返還を願い出ることが言われ始めたのが1953年7月で、1954年9月には返還となり送り届けられているから、1年くらいの期間で返還の作業が終わっている。

中国側からすると、返還の願い出が届き、さてそれはどのような内容の物か、どこに保管されているのか、それを返還するのが妥当なのか、など一つ一つクリアにしていくのはかなり大変な作業であっただろう。その結果、返還と決まり、次の引き揚げ船で送る、という手順を踏まえてことが運んだのであり、きちんて返還されたのは誠に僥倖と言うべきことだったと感じられる。

「原稿カードは中国人民保衛世界和平委貝会劉貫一氏から」送り届けられた。この組織について調べると、次のような記事が見つかった。


 中国側における日本との交流の窓口は、まず中国国際貿易促進委員会(経済分野担当)と外交学会(政治分野等一般的交流担当)のような組織があった(1963年以後は中日友好協会が主役になった)。これ以外に、残留日本人の送還や漁業協定のような専門的なことは中国紅十字会、中国漁業協会がそれぞれ担当した。社会文化などの交流においては、中国人民対外文化協会、中華全国婦女聯合会、中華全国体育総会、中国青年聯合会などの組織がそれぞれの分野で日本との交流に活躍した。また、中国人民世界平和擁護委員会(中国人民保衛世界和平委員会)と中国対外友好協会のような組織もあった。

京都大学学術情報リポジトリ 紅 「1950年代日中両国外交政策の形成と展開 -「政経分離」 と「政経不可分」に関する研究( Dissertation_全文 )」(2000/3/23)

中国側における日本との交流の窓口の一つに「中国人民保衛世界和平委員会」があったということのようだ。当時、日中間に国交がなかったので、日本側も中国側も、政府機関とは独立した民間外交(といっても、もちろん政府の監視下にあるのだが)に依存していた事情があったということも書かれている。

今だったら、原本を渡すにしても、コピーを取っておく所だろうし、デジタルデータならコピーを取るのは一瞬でできてしまう。当時はフォトコピーという技術がないので、原稿一式を渡してしまったら何も残らない。これは、接収された日本においても、接収品を返還した中国においても同じ事情であったであろう。

日本人として、敗戦という衝撃の中、長年心血を注いできた貴重なデータを一切うばわれるというのはどれほどつらかっただろう、と思うと、実に切ない。

ただし、似た話は他にもある。

諸橋轍次の大漢和辞典も戦争で被害を受けた代表例で、出版が開始してまもなく戦災で組み版がすべて失われる、という悲劇があった。

漢字文化資料館の記事

「昭和20年(1945)2月25日、『大漢和辞典』巻2~13の組置原版など一切を戦災で焼失。」

と、端的に述べている。巻1が2年前に刊行されていて、おそらく用紙の供給が厳しくなり、その後の印刷・発行が滞っていたのだろう、と想像できる。

というのは、このサイトの過去の別の記事で、詩人高村光太郎の詩集「道程 再訂版」が、昭和18年11月に前書きまで完成していたのに、出版はその1年2か月後の昭和20年1月にずれ込んだ、ということがあるからである。この時期の出版は出版用紙配給の制約の下で実質的に政府の監督下にあったとみられる。

対戦国である中国の文化の研究成果の出版と見なされる中日辞典の出版が、厳しい戦局の下で歓迎されるものか、を考えると、おそらく後回しされた、と見て良いだろう。

そもそも"中日"という"中国を先に書く表現"は、"日中"あるいは"日華"というように"日本を先に書く表現"がほとんどであった日本の状況において、反感を買ったおそれさえ考えられる。

このように考えていくと、現代の戦争というものは、人々のすべての活動を破壊するものだ、ということをつくづくと思い知らされる。戦争はすべての犠牲の上に成り立っているのだ。


こうしてみると、ここで取り上げた二つの辞書の発行に至るまでの経緯と、それに関わってきた人々の戦時下および終戦後の混乱とそれに打ち勝ってきた努力は、映画とかテレビドラマにふさわしいストーリーになるのではないか、と思えてきた。

(2019/11/28 記)

なお、この辞典のタイトルは、表紙では"辭典"と旧字体を使っているが、奥付では"辞典"と新字体なので、本記事は新字体で統一した。

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54. 新訂 官職要解

和田英松
昭和60年4月 第7刷発行 講談社

緒言 (和田英松)

(中略)

倉卒にかいたので、甚しい誤謬や、挙ぐべきものを落としたのもありましょうが、それはおいおい直すつもりです。

明治三十五年九月      著者識

この書を出してから九年を経て〔明治四十四年〕唐名索引を加え、それから十三年を経て〔大正十二年〕希有の大震火災のために、原版が烏有に帰したのである。この書は、もと国文学を主としたものであるから、おのずから平安朝に偏している。かつ参考した諸書も、おもに物語、歌集などで、記録や古文書などを参考したものは少ないのである。それゆえ、上代より近代に至るまで、ことごとく組みかえてみたいと考えて、よりより(ママ)材料を蒐集しておったのであるが、それも同火災に焼失したのである。これを改版するにあたっては、大修正を施してみたいと考えたけれど、さらに材料をあつめて書き改めるのは容易でない。それで遺憾ながら、今回は少しばかり修訂を試みたのみで、大修正は、他日に譲ることとしたのであります。

大正十四年十二月      著者再識

一つ前の記事で、「中日大辞典」を取り上げ、またその中で、「大漢和辞典」にふれた。どちらも第二次世界大戦の終戦前後の混乱した時期に辞書データ、あるいはその組み版を失う、という困難に会い、それを克服して辞書発行にこぎ着けたという経緯を経ている。

この「新訂 官職要解」では、「火災のために」、原版と内容の修訂のために集めた参考資料を焼失する、という困難に遭遇している。ただし、こちらは、大正12年の関東大震災における火災がその原因である。

この本は、凡例によると、明治35年に初版が発行され、大正12年の関東大震災のあと、大正15年に一部修訂を行って発行されたものを底本とし、現代仮名遣いに改め、漢字を平仮名に、また振り仮名を追加する、などといった校訂を行った、ということである。

奥付によると、昭和58年11月に第1刷発行とされているので、これが新訂版の発行年月だろう。

日本の年号では時間の経過がわかりにくいので西暦で表すと、次のようになる。

1902年 初版発行
1926年 修訂版発行
1983年 新訂版発行

細かいことを言うと、"初版"というのは誤解を招く可能性がある。1926年発行の修訂版は国立国会図書館デジタルライブラリの"官職要解 : 修訂"により見ることができる。その奥付では、明治35年に最初に発行されたことには触れておらず、大正15年1月20日発行、大正15年3月15日 二版、大正15年6月20日 三版という記載になっている。そのタイトル(書名)はあくまで"官職要解"である。

初版、修訂版ともに明治書院の発行である。これでは紛らわしくないのだろうか。

また、大正15年1月20日発行ののち、約2か月後に二版、その3か月後に三版となっている。その間隔が余に短いので、ここで言う"版"は現在で"刷"ということに対応するのではないかと思われる。

このようなことに関する出版の世界のやり方については私は知識がないので、これ以上言及することは止める。

ちなみに、私が持っている「講談社発行の昭和60年4月 第7刷」本では、その凡例の中で、"初版本『官職要解』"、"「修訂官職要解」"と書き分け、奥付ではその本自体のタイトルを「新訂 官職要解」とし、版については書かず、「昭和58年11月 第1刷」としている。

なお、ネットで検索すると、修訂版の発行を1925年としている記事がある。これは修訂版の緒言の日付が「大正十四年十二月」としてあることから1925年としたのであるまいか。しかしそれは著者が緒言を書いた日付であり、書籍としての発行は翌年1月だから1926年である。発行の年月日は、上記の国立国会図書館デジタルライブラリの"官職要解 : 修訂"により確認することができる。


なにより、初版発行から100年以上も経過している、ということに驚く。(現在を基準にして。発行年でいえば81年)

おそらく、仮名遣いや漢字の字体、文体などの表向きの違いはあっても、実質的な内容はそれほど変わっていないのだろう。

平安時代を中心に、上代から江戸時代までの官職について解説したものである。新資料が続々発見されて、過去において考えられていた内容が大幅に改められている、ということはほとんどないのだろう。

官職については昔からその規則が詳しく書かれ、伝えられてきたことと思われる。

初版発行以来、その内容を「ことごとく組みかえてみたいと考え」、資料蒐集につとめてきたが、それは関東大震災の火災により焼失してしまい、一部の修訂のみを行って修訂版が発行されたのである。

結局、当初の「改版するにあたっては、大修正を施してみたい」との願いは叶えられなかったのである。

「今回は少しばかり修訂を試みたのみで、大修正は、他日に譲ることとしたのであります」と大正14年に書いた著者は、昭和12年(1937年)になくなっている。

新訂版の校訂者である所功氏の生れたのが昭和16年だから、著者の没後に生れたのである。

私が目にした範囲で、これほどの息の長い書籍は記憶の限りでは他にない。

新訂版の発行に当たっては、緒言には手が加えられておらず、凡例にその経緯が記載されたのみである。


編集作業の苦労と完成した喜びを切々と訴えた前書き、後書きも良いが、本書のように感情を最小限に抑えて、事実関係を簡潔に述べた前書き、後書きというものもまた良いものである。


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55. 肝大小心録 上田秋成

岩波文庫
岩波書店
上田秋成

はしがき

膽大小心録は上田秋成の随筆である。題名は恐らく孫思邈が「膽欲大而心欲小」の語に據つたものであらう。成立年代記は本文の記事によつて、文化五年(二四六八)であることが知られる。即ち作者の没する前一年、七十五歳の折の筆録に係る。
(中略)
終に、本書の校訂に際し、秘蔵の書籍の借覧を許された鹿田静七氏、脇本十九郎氏、及びその間にあつて種々斡旋の労を賜はつた長田富作氏、加藤虎之亮氏、並に本文庫編集者の多大なご好意に対し、深甚の謝意を表する。
二五九八年八月                      校訂者

今回は、文章の内容というより、年の表示である。

2468年、2598年の二つの年が現れている。

もちろん皇紀である。皇紀であるから驚いたのである。

前者は原著が成立した年で、文化5年だから、いわゆる文化文政時代、略して化政時代。江戸後期にあたり、江戸町人文化が発展した時代である。

西暦では1809年になる。

後者は校訂者が作業を完了した年である。奥付で確認すると、第1刷は1938年となっていて、西暦表示である。明治、大正を経て昭和になり、日中戦争の時期になる。

細かく言うと、皇紀2598年は校訂作業が終わった年のはずである。この年は西暦では1938年になる。校訂作業ののち、印刷・製本を経て発行されるまで時間がかかるから、発行が次の年になる可能性もあるが、校訂作業が終わったのが8月、本としての発行が10月だから同じ年だろう。

戦前に発行された本は、私の手元には、高村光太郎の詩集が、初訂版、改訂版、再訂版と3冊ある。

ちなみに、この3冊については、このサイトの別のところで記事を二つ書いた。

奥付で発行年を見ると、初訂版は大正3年、改訂版は昭和15年、再訂版は昭和20年1月となっている。(何れも初版の年)

初訂版は復刻本だが、奥付まで忠実に再現されているように見える。

3冊共に皇紀での表記はなく、和暦である。

皇紀という表現ががどのくらい普及していたのか、私には分らない。

皇紀という言葉で私が知っているエピソードは、大鵬という横綱の名前が"大鵬幸喜"という名前で、生年が1940年、皇紀2600年という区切りのいい年であったので、"皇紀"から"幸喜"と名付けられた、というこの1件だけである。

この話は私が子供の頃に何かで読んだ本に書いてあった気がする。50年以上前のことだから今となってはよく分らない。もっとも、横綱大鵬といっても現在の多くの人にはピンとこないだろう。

そもそも皇紀とはいつから始まったのか。

調べてみると意外に新しい。明治5年11月15日。

かなり古い情報だが、手元のコンサイス世界年表を見ると、1872(明治5)年11月15日のところに、次のように書かれている。

神武天皇即位の年を紀元とし、即位日を祝日とする(1月29日のち2月11日に改訂)

(コンサイス世界年表 三省堂 昭和54年12月1日)

1月29日が2月11日に変更されたのは翌年のようだが、その経緯は私にはまだ分らない。国立図書館デジタルコレクションのサイトで、「法令全書. 明治6年」の資料を見ると、"コマ番号335"のところに、太政官 第三百四十四號 十月十四日(布)の項目があり、

「年中祭日祝日等の休暇日・・・・」として「紀元節 二月十一日」

と記されている。

このころは太陽暦の採用もあり、いろいろな混乱があったものと想像される。何しろ、明治5年12月3日を明治6年1月1日とする、というように、一ヶ月くらいワープしてしまったのだから。(参照:前記"コンサイス世界年表"明治5年のページ)

この「肝大小心録」の発行年である昭和18(1938)年は、前年に始まった日中戦争が深みにはいっていく時であり、皇紀による年表示が求められたのだろうか。しかし、高村光太郎の詩集については、昭和20年の再訂版においても皇紀の表示はない。

高村光太郎は戦時下において、戦争遂行に積極的に協力していたから、皇紀を使っていてもよさそうだ。どうもよく分らない。


この一つ前の記事で、「新訂 官職要解」を取り上げた中で、「なにより、初版発行から(現在まで)100年以上も経過している、ということに驚く」と書いた。

最初の発行から最近の発行まででは81年である。

一方、この上田秋成の「肝大小心録」は、最初の発行から130年が過ぎてから改訂されて出版されたのだ。

岩波文庫版だけで見ても、同じ版の第1刷から第4刷まで72年が過ぎている。私が入手した第4刷では、オビに"リクエスト復刊"とある。

「できることなら、このようなレンジの長いことに関わり合いたい」と思うが、自分の実力を考えると無理というものだな、というのが実感である。


【追記 2019/12/23】

上で「高村光太郎の詩集については、昭和20年の再訂版においても皇紀の表示はない」と書いたが、ひとつ例外を見つけた。
高村光太郎の詩集「道程」の改訂版は昭和15年11月発行で、編纂者は三ツ村繁蔵である。その巻末に"編纂者の言葉"という文章があり、最後に

「紀元二千六百年の日・・・・三ツ村繁蔵」

と書かれている。

私の手元にある本は第8版で、奥付には初版の印刷・発行、第8版の印刷・発行の四つの日付が書かれているが、年の表記は昭和だけである。

ここで"第8版"というのは現在の"第8刷"という意味だろう。初版と第8版では本文の内容に違いはないと思う。

紀元2600年という区切りの良い年だったので"編纂者の言葉"では皇紀による表示をした、ということなのかも知れない。奥付は他の本との統一性の点から昭和という表記なのだろう。

たしかに、次の年の紀元2601年だったなら、皇紀を使うことの魅力はだいぶ低くなるように思える。

念のために初訂版、再訂版をみたが、初訂版では、前書き・後書き、あるいは"編纂者の言葉"のような文章はなく、再訂版では"前書き"に当たる文章があるが、「昭和十八年十一月・・・・高村光太郎」との表記であり、奥付は初訂版、再訂版ともに大正または昭和という年号表記のみである。

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56. 古事記

角川ソフィア文庫
角川学芸出版
中村啓信訳注

古事記 上つ巻 序を幷(あは)せつ

【序文】

[過去の回顧]

臣安高侶言夫混元既凝気象未効

臣(やつかれ)安高侶(やすまろ)言(まを)す。夫(そ)れ混元(まろかれたるもの)既(すで)に凝(こ)りて気象(いきかたち)効(あらは)れず

(中略)

[古事記の企画]

是(ここ)に天皇(すめらみこと)詔(の)りたまはく、 「朕(あれ)聞く、『諸(もろもろの)家(いへ)の賷(も)てる帝紀(すめらみことのふみ)と本辞(もとつことば)と、既(すで)に正実(まこと)に違(たが)ひ、多(さは)に虚偽(いつわり)を加ふ』といへり。 今の時に当たり、其(そ)の失(あやまり)を改めずは、幾年(いくとせ)を経(へ)ずして、其の旨(むね)滅びなむとす。 斯(こ)れ、邦家(くにいへ)の経緯(たてぬき)、王化(みおもぶけ)の鴻(おほき)基(もとゐ)なり。 故(かれ)惟(こ)れ帝紀(すめらみことのふみ)を撰(えら)ひ録(しる)し、旧辞(ふるきことば)を討(もと)め覈(あなぐ)り、偽(いつはり)を削(けづ)り実(まこと)を定(さだ)め、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ」とのりたまふ

(中略)

〔古事記の成立]

并せて三つの巻に録(しる)し、謹みて献上(たてまつ)る。臣安万侶、誠憧誠恐(まことにかしこ)み、頓首頓首(のみまを)す。

  和銅五年正月廿八日
        正五位上勲五等太朝臣安万侶

(なお、漢字は適宜新字体に改めた)

古事記の序文については、このサイトの日本語の部屋で、発話の引用表現について取り上げている。

日本書紀がいきなり「神代」の話題に入るのに対し、古事記では編者太安万侶による序文から始まる。

これがまた、スケールの大きな序文なのである。

何も存在しないときに始まった神々による世界づくりが語られ、天皇をトップとする国家が形成される様子が描かれる。

そして、天武天皇は、当時の歴史書に多くの誤った記述や書き込まれた虚偽があることを憂え、正しく歴史を書き記す企画を命じる。

具体的には、聡明で記憶力に秀でた稗田(ひえだ)阿礼(あれ)に歴史書を暗誦させた。その後、元明天皇は太安万侶に命じて、稗田阿礼が暗誦したした内容を書き記すように命じる。

そこで、太安万侶が、ここに三巻にまとめて謹んで献上申し上げます。こういうものである。

この序文について読み進めていくと、実に興味津々(きょうみしんしん)な所が次々と出てくる。

とにかく、古事記というものは古いのである。ある程度の長さを持つまとまった公式な著作としては、現存する最古のもので、そのために、"意味が分らないことだらけ"といっていいほどである。

従って、注釈書においては、その分析結果が長々と述べられる。

たとえば、最初の行に「古事記 上つ巻 序を幷(あは)せつ」とある。原文では「古事記上巻 序幷」である。「序幷」の2文字は小文字である。

脚注には次のように書いてある。

上巻に序文を合わせるとあるが、内容は『古事記』の成立について天皇に奏上する上表文。その上表文を序文として転用したもの。

また別書の解説では、古代中国の正式文書には"序"と"表"の二つの形式があり、古事記の上巻冒頭にあるのは"表"に相当する形式である、と書かれている。

表、あるいは上表文は、中国では皇帝、日本では天皇に奉る文書で、形式が決まっている。ここでは古事記のねらいとか来歴とかを申し述べる文であり、上記で引用した最後の3行などはその現れである。

上表文を先頭に持ってきたのは異例とも言えるが、そもそも古事記は我が国の最初の著作であるから、当時においては異例でも何でもない。

しかし、あくまで表であり、最初は本文とは別扱いで、後になって(続日本紀以後の五国史にならって)付け加えられたと考えられているようだ(日本思想体系 1 古事記の補注(序)による)。

古事記の最初の1行、タイトルの行だけこのような知識や議論が必要になってくる。

タイトルの1行を検討するのに、古代中国の著作の形式や日本での六国史の内容を理解していなければいけないのである。

本居宣長が人生の大半をかけて分析したのもうなずける。

別の例を取り上げる。この文章をのせて解説するというのは私には難しすぎるので、要点だけを書く。

「稗田阿礼に、帝皇の日継と先代の旧辞を"誦み習は"しめたまふ」・・・・「安万侶に詔りたまはく、『稗田阿礼が誦める勅語の旧辞を撰び録(しる)してたてまれ』と」・・・・

古事記の成立には2段階あるようで、まず稗田阿礼がそれまでの文書を誦み習う事をしたが、その後の時代の変化により、その内容を文章にまとめる事には至らなかったので、後に、太安万侶に対し、「稗田阿礼が誦み習ったことを文章にして献上せよ」、との命が下った。

太安万侶としては、このような重大な仕事を任されて、身に余る光栄、と思っただろうか、などと考えるが、その一方で疑問が起こる。

「氏に"日下"をクサカと言い、名に帯の字をタラシと言う」という例を挙げ、この「類(たぐい)は本のまにまに改めず」と書いている。

安万侶は、稗田阿礼が暗誦していた内容を文書化したのではなかったのか。本を見てそれをまとめたのだろうか。

もしかして、"暗誦"というのは、漢字で書かれた文章の読み方(訓での読み)を意味していたのだろうか。文字は書かれたものが残っているのだから。

「帝皇の日継と先代の旧辞」は漢字だけで書かれたものだから、それの読み下しは音声によるものでなければならない。稗田阿礼は安麻呂に対し、テキストを示しながら、読み方を言葉で説明したのだろうか。

ちょっとしたことも分らないことが多い。

また別の例では、この序文が後世に付け加えられた偽作である、という説がある。

岩波 日本古典文学全集 古事記祝詞 の解説による

もっとも、これは否定的ではある。

とにかく、序の部分だけでも、内容を理解するのは大変な労苦を伴う。

もっと例を取り上げたいのだが、一つの事をとりあげるのにも大変な労力なのである。


さて、このような古典の文献について研究する仕事というのはどうだろう。

自分の今までの事を振り返ってみる。私はいわゆる理工系の道を歩んだ。高校2年から文系と理工系のクラス分けがなされ、大学も工学部で、コンピュータ・ソフトウェアの世界でずっと働いてきた。会社生活の中では落ちこぼれになるが、それなりにさまざまな経験をし、面白いことも、苦労したこともいろいろとあった。

今になって、文系の道を進んでいたらどうだっただろう、と考えることがある。

古事記、日本書紀などを研究するとしたら、それはそれで面白くやりがいを感じるだろうと思う。

万葉集や源氏物語に没頭することも十分に意義がありそうだ。古今和歌集や新古今和歌集などの和歌の世界も面白そうである。また、大伴旅人、山上憶良、平安中期では和泉式部など心引かれる人物がいる。

結局、人間は一つの人生しか歩めないものだ、という結論に落ち着く。そうならざるを得ない。

もし、もう一回、別の人生を送ることができるとしたら、文系の道、それも、空間を隔てた海外文学ではなく、時間をさかのぼった日本の古典文学に向かいたい、と思う。

「古事記 序文」から離れてしまったが、この序文を読むと、どうしてなのか、いろいろな事を考えてしまう。

太安万侶はこのような大きな仕事を任されて光栄だと感じただろう。完成した古事記を天皇に献上して、嬉しかったのか、それともこれで荷を下ろせたという安堵感が優ったのだろうか。

稗田阿礼は誦み習うように命じられて一生懸命励んだのだろうが、なかなか文章化の段階にならずに、どんなにやきもきしたろうか(いつまで待たせるんだ、だんだん忘れちゃうよ、という気分だったかもしれない)。安万侶があらわれて、漸く自分のしたことが形になると安堵しただろうか。

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57. ザ・テクニカルライティング

共立出版 1994年4月 初版第5刷
高橋昭男

序にかえて

(終わり頃まで略)

・・・・私の最後の仕事が日本語のテクニカルライティングになりそうだ。初めての翻訳料を手にして以来28年が過ぎようとしている。

末筆ですが、面倒な取材に応じてくださった多くの方々、著書の転載を許諾してくださった方々に深く感謝します。そして諸先輩が書かれた多くの文献に対し、乾杯のぐらいを高く掲げたいと思います。

(後略)

タイトルの"序にかえて"だが、これが"序文"あるいは"前書き"とどう違うのか、という事は棚上げにする。内容は"前書き"そのものであるから。

上に引用した文章の前に53行に渡る文章がある。

それは"だ・である"体で統一されている。

"末筆ですが"で始まる最後の9行が"です・ます"体である。

これはちょっとやっかいな問題である。"だ・である"体と"です・ます"体が混じっているのだ。

まず、私のこのサイトの文章からして、両方が混じっている。

具体的には、この「前書き・太書きの部屋」は"だ・である"体なのだが、そのほかのシリーズの記事はおおむね"です・ます"体なのだ。

その原因は分っている。

「前書き・後書きの部屋」はずいぶん昔に書きためた文章が元になっていて、当時は、私自身も世の中全般も"だ・である"体が普通だったのである。20年くらい昔のことだっただろうか。

その後、次第に"です・ます"体を使うようになってきた。世の中全体の傾向としても、"です・ます"体が徐々にふえてきた印象がある。

実のところ、今では、この「前書き・後書きの部屋」の文章も"です・ます"体に変えたいくらいである。しかし、ここまで来て変える決心がなかなかできず、今まで通りにしている。

もっと言うと、"だ・である"体という表現も問題があり、"だ"系と"である"系の使い分けをきちんとしなければいけない、という議論もあるのだ。

たとえば、論文における「だ」系と「である」系の 形式の混用についてを参照されたい。

本題に入るが、この"序にかえて"は初めから85%ほどが"だ・である"体なのだが、最後の15%ほどが"です・ます"体なのである。

本書は、"序にかえて"の次に目次のページがあり、その次に"本書の表記基準"という文章がある。その中では、11項目に分けて表記の記述が説明されているが、その中の最初の項目に、「本文は、『である』体に統一した」と明記されているのだ。

"です・ます"体に変わる最初の文が、上記で引用した「末筆ですが」で始まる文章なのである。

その文は「深く感謝します。」で終わる。その後にも、いわゆる"謝辞"の文章が続き、最後は「・・・・これに過ぎる喜びはありません。」、「・・・・ができれば幸いです。」で、最後に年月と著者名が来る。

謝辞の言葉は、前書き、後書きにはよく現れる。しかし、その表現は今までも違和感があった。

「・・・・に感謝する。」ではいかにもぶっきらぼうである。だから、「感謝申しあげる。」、「感謝の意を表するものである。」などという表現もとられる。

それでも、まだ違和感は残る。

最初から"です・ます"体であれば、謝辞は「・・・・に感謝いたします。」とか、「感謝申しあげます。」などとして統一がとれる。

辞書などの前書き、後書きは"だ・である"体で謝辞まで統一している事が多い。これは、前書き、後書きを書く編者が各界の権威者だから、という面もあるだろう。

手元にある本で前書きやそれに続く文章を見たところ、一つよい例が見つかった。

井上光貞監修 図説歴史散歩辞典1988年10月 2版29刷 山川出版社

前書きの次のページに「編集に当たって」というタイトルの下に、謝辞などを収めたコラム記事がある。前書きは"だ・である"体だが、このコラム記事は"です・ます"体なのである。

その内容は次のようなものである。

1. 編集・執筆にあたり数多くの書物を参考にさせて頂きましたが、・・・・巻末<参考文献>に一括しました。また、写真・図版・資料等のうち・・・・巻末<参考文献>に掲げました。

2. 文化財写・図解等の掲載にあたり・・・・お世話になりました。・・・・関係各位に厚く御礼申し上げます。

3. 本文中に収載した図版のうち、・・・・製図しなおしたものもあります。また・・・・スケールを省略しました。

2は謝辞、1も謝辞に近い内容である。3は説明だが、本文が文化遺産の詳細な内容を説明するのに対し、これは読者に向かって説明するところである。

つまり、文章が語りかける相手が、協力者とか読者の場合に"です・ます"体を使っているのだ。

この部分は前書きや本文と独立したページになっていて、さらに囲み記事になっている。そのため、ここだけ"です・ます"体でも違和感がない。妥当性が感じられる。

もう一つの例は前書きを"です・ます"体で統一しているものである。

坪井美樹 日本語活用体系の変遷 2001年4月 初版1刷 笠間書院

専門書であるが、前書きはめずらしく"です・ます"体である。

前書きの中に「本書は学術論文として書かれたものですが、・・・・根源的なテーマです。したがって、著者としては本書を、専門的な研究者だけではなく、日本語に興味を持つすべての方々、とりわけ、大学生や大学院の若い方々にも読んでいただきたいと願っています。」という一節があり、読者はある程度の専門性のある人々である。

だが、前書きの書き方は、読者に語りかけるような内容である。

たとえば、2番目の文は「高等学校で使われる国語の教科書を思い起こしてみてください。」となっていて、語りかける調子である。

一般に、語りかける相手が多数の時は、相手が目下であってもある程度丁寧な言葉遣いになる。

たとえば、小学校の校長が朝礼で小学生に向かって語るとき、「何々しろ」という言い方はしないで、「何々してください」という言い方に自然になるのと同じである。

これも違和感など無く、なるほどと思う。

このように考えてくると、ここで取り上げたどれも前書きやそれに付随する文章は、書き方が妥当であることがわかる。

「なるほど、出版物はちゃんとしているね」、と改めて思った。

58. チャレンジ小学国語辞典

ベネッセコーポレーション 2015年2月 第6版2刷
湊吉正

はじめに         筑波大学名誉教授 湊 吉正

ことばは、私たちの毎日の生活になくなはならないものです。あいさつや会話をはじめ、学校の授業でもことばか使われています。だまって考えているときも、頭の中では言葉が使われています。

国語の勉強だけではなく、他の教科や活動、・・・・

この辞典には、約三万五千のことばが集められています。・・・・

日本語には古い歴史があります。漢字や外来語を取り入れて、独特な発展をとげてきました。・・・・

ことばは、人間の持ついちばん見事な「生きた宝物」です。みなさんは、そのような宝物を、この辞典によって、一つ一つ増やして行ってください。

(原文ではすべての漢字に振り仮名がついているが、ここでは省略した。)

「うーん」と、うなってしまいました。

全くもって正統的。必要なことは残らず言って、必要でないことは全く触れない。

本当は全文をここに載せたいが、著作権を考えると問題がありそうなので、各段落の先頭部分のみを抜き出すことにしたのが上記である。

この辞書の読者は小学生なので、小学生が分る範囲で、でも必要なことは削らず、といった配慮が実にうまくいっていることがわかる。

監修者は国語教育の専門家だから、当然かもしれない。だが、こうまで完全な文章というものは私にとって初めてである。

"きちんとしている"のである。

このサイトの「前書き・後書き」の記事はこれが58番目になるが、完成度の点で最高といえる。

ここで取り上げたものは第6版だが、初版と第2版の監修者は秋山虔と書かれている。源氏物語の研究であまりにも有名だ。このときの序文も見てみたいが、図書館、古本などだいぶ探したが見つからなかった。

初版は1985年、第2版(改訂新版)は1990年の発行である。ちょっと古い。


この本ですっかり感動したので、他の小学生向きの国語辞典の前書きはどうなっているのだろうと思い、図書館に行ってきた。

子供向きの本を並べたコーナーで、大人が不釣り合いに立っているのも落ち着かないので、数冊の辞書を抱えて一般書のところの机で読んでみた。

特に取り上げるべき前書きはなかったが、一つだけ、面白い文章があった。

金田一春彦・金田一秀穂監修 新レインボー小学国語辞典 改訂第3版小型版 学研教育出版 2009年11発行 の「監修のことば」のページにある前書き(「始めに」と題されている)である。

最後の2行は次のようになっている。

この辞典をいつもそばにおいて読んでごらんなさい。そうしたらこの辞典は、どんなときもけっしてうらぎったりいじわるをしたりすることなく、あなたの勉強をたすけてくれる親友になることでしょう。

これを読んだとき、「ええっ、裏切り?、意地悪?」と驚いた。

辞書が裏切るってどういうことだろう。辞書はどんな意地悪ができるのだろうか。

この前書きの原稿を書いて出版社の担当者に相談したときに、こんな会話があっただろうと想像してしまう。

編者「裏切りとか意地悪とか、書きすぎかな」、担当者A「いや、おもしろいんじゃないですか」、担当者B「ユニークと考えればいいんです。それで行っちゃいましょうよ」、編者「じゃあ、そうするか」

ちょっと脱線してしまいました。

59. アメリカの大学生が学んでいる本物の教養

SB新書 SBクリエイティブ株式会社 2023年1月 初版第1刷

プロローグ――『教養』とは何か?

●教養は「エリートのもの」ではない

(中略)

●「一般教養」は教養ではない

(中略)

●「一般教養」は教養ではない

●改めて、「教養」とは何か

以上の2点を押さえた上で、改めて考えてみましょう。

教養とは何か?それは・・・・のことでしょうか。

・・・・

教養とは何か?それは学歴とイコールなのでしょうか。

・・・・

・・・・を「教養のある人」と呼ぶのでしょうか。


私が考える教養とは、これらのいずれでもありません。

教養とは・・・・を形成する栄養となるものです。

・・・・

教養とはまた、・・・・為のバックボーンとなるものです。

(中略)

何が正解かわからないことが多いなかでは、こうした知的態度、もっといえば知的謙虚さをもって学び続ける人を「教養のある人」と呼ぶのです。

まず最初に断っておきたい。

ここで取り上げる「プロローグ」と題された文章は「前書き」に含めて良いのか。

「まえがき」は英語では、典型的には "Preface"である。一方、"prologue"は典型的には「序詞」という訳語が当てられる。

しかし、「序詞」という言葉はあまり使われない。

このシリーズで取り上げてきた文章では、「はじめに」、「前書き」、「序」などの例がある。今までは「プロローグ」と題された文章は取り上げてこなかった。

それは、「プロローグ」だから「前書き」には相当しない、ということではなく、単に「プロローグ」と題された文章がなかったからである。

今回は、この「プロローグ」が、目次の前に置かれていることから、本文ではない、と考えて、「前書き」として取り上げるものである。


この「プロローグ」だが、p.3からP.23までの21ページを費やしている。最後はこうである

これから本当に教養を身につけていこうと思うなら、ただの辞書的な定義にとどまらず、より解像度高く、教養というもをとらえていく必要があります。
だから、まず本章では、本書における「教養」「教養人」の定義を共有すべく紙面を割いてきました。というわけで、ここからが本番です。

「ここからが本番です」と言っているので、やはり「前書き」としてよいものと考える。

さて、上に引用した文章を読むと分かるのだが、「教養とは何か」と問いかけてはいるが、「教養とは○○である」という書き方をしていない。

「○○ではない」という表現が続き、「栄養となるもの」とか、「バックボーンとなるもの」と、間接的な表現で終わっている。

これは、「教養」ということの定義の難しさ・複雑さを物語っているのだろう。

「○○ではない」と繰り返し、その後で「○○というようなもの」と説明する。

そのような事例を複数個提示して、言いたいことを伝えようとする。

確かに「教養」というものは説明がむずかしい。

人によって取り方が違ってくる。

漠然としたこと、あるいは人によって見解が異なることについて、それを述べようとするとき、まず自分の考え方、立場を明らかにすることは重要である。

その場合、この文章のような方法で説明をしていくことが有効である、という事をしみじみと思った。

いくら説明しても伝わらないかもしれない。誤解されるかもしれない。それでもできる限り説明を試みる、という態度が重要であることを感じさせられた。

私の場合、定年退職して13年も経っている。だから難しいこと、面倒なことはしなくても良い状況になっている。だから、本書のような、「取り扱いのやっかいな」、「漠然とした概念」を精密に説明しようとすることについて、随分と距離ができてきたような印象を受ける。

仕事をしていれば、複雑なこと、面倒なことに直面することは多々ある。そのときに知恵を絞ってなんとかやりくりをしてきたはずだが、退職してしまうと、考えることが単純になって、「思索」ということから随分遠ざかってしまった。

「深く考える」ということをしなくなってしまった、という現実がある。

このような本を読んで、「実用的なことしか考えなくなってしまった」という状況を認識するのである。


正直なことを言うと、現時点で、まだこの「プロローグ」しか読んでいないのである。このぶぶんだけで深い感慨を覚えたのである。

「あーあ、最近、自分は本当に深く考えることをしなくなったなあ」と思ったのである。

このようにして認知症が進むのだろうか。

この本はしっかり読んでいこうと思う。

本文の第1章は「深く学ぶ」である。

確かに、「深く学ぶ」ということはすっかりご無沙汰している。


ここで、「教養とは何か」という事について、私なりに答えを出しておきたい、という誘惑に駆られる。

仮にということにしても、「教養とは○○というものである」と言い切りたいのである。

しばし考えて、次のようなことで良いのではないか、という内容が浮かんだ。

「教養とは、正しい知識と、それを元に正しく推論する力と、知識と推論の正しさを評価・判別する能力の総称である」

いやいや、これでは一つの側面しか表現できていない。たとえば、情緒とか感性などが抜けている。"美"に対する理解と感動は教養に含まれないはずがない。

決められたことを守る、とか他者への思いやり、といったことも含まれていない。

こうなると、「人間の精神の良いところのすべて」とでも言わないといけないような気がしてきた。


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