本を捨てる


[2022/4/9]

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【4】中村元訳 ブッダの言葉 スッタニパータ


中村元訳 ブッダの言葉 スッタニパータ 岩波文庫 岩波書店 1995年9月 第28刷


第一 蛇の章 八 慈しみ

(前略)

144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪(むさぼ)ることがない。

(以下略)


いわゆる「足るを知る」です。

いままで、この言葉の起源は仏教の経典だと思っていたのですが、注を読むと、老子であることがわかりました。

以下、調べた結果をもう少し書いていきますが、とにかくこの言葉の注が長いのです。

4ページに渡って、74行もありました。

この次に長いのはどのくらいあるだろうかと調べてみると、55行という注がありました。これも相当なものです。


そもそも、この本は注が長いのです。本文が231ページで、注が185ページあります。さらに、解説や参考文献があります。

解説の部分に、「この改訳新版では、特に注記の分量をずっと増やして…」とあり、さらに、「僭越ではあるが、『スッタニパータ』について少くとも分量的にはこれだけ解明した書は、海外にはないと思う」とあります。

この訳者が精力的に作業に当たったことが分かります。

「足るを知る」

仏教の経典の成立史は非常に複雑で、解明されていない部分が多いということは、いろいろなところで言及されています。

本書の解説を読むと、ブッダの発言、議論の内容が口伝えで伝承され、その後、パーリ語を含む俗語で書かれ、それをサンスクリット語に翻訳したようです。ただし、私の知識では、このあたりを正しく整理することは難しいです。

上で、「『足るを知る』という言葉の起源は仏教の経典だと思っていた」と書きました。

ブッダの教説の一つとして、「人の欲望にはきりがない。だから欲望を抑えないと破滅する」などということが言われていて、これから「足るを知る」という言葉につながったのだと思います。

老子の言葉としては、この注にも書かれていますが、「自勝者強、知v足者富」です。

まず気づいたことは、「"足るを知る"ことは人として重要である」というだけでなく、「富む」と言っていることです。

「富む」とは、通常は「精神的に豊かである」と解釈されているようです。

上に上げたスッタニパータの句は、仏道を進む人としてこうであれ、と理想、あるいは目標を示したものと考えて良いでしょう。

仏道を進む人ですから、食べるものは喜捨を受けることになります。それが、「わずかの食物で暮し」という言葉に表れています。わずかの量の喜捨で良しとすべきである、という事になります。

「足るを知る」と大きな意味を最初に出し、次に、具体的に食べるものに関して言っているわけです。


ですが、中国の老子が言ったとされる「足るを知る」ということを、インドで活動しているブッダが、同じように言ったのでしょうか。

本書の注では、この部分は、次の様に書かれています。

「満足していることをサンスクリット語ではSamtustiというが、これを(仏教経典では)『知足』と訳している(一部省略しました)」

サンスクリット語で「Samtusti(満足している)」と書かれているところは、中国語訳では「知足」という言葉で表されているのです。

そこで、ネット上でサンスクリット語で書かれたテキストを探したのですが、見つかりませんでした。

パーリ語のテキストが見つかったので、これを基に考えることにします。

でも、そもそも、パーリ語なんて全く知りません。英訳が見つかったので、英訳と突き合わせると少し分かるかもしれません。

[パーリ語]

144. santussako ca subharo ca appakicco ca sallahukavutti santindriyo ca nipako ca ppagabbho kulesu ananugiddbo,

NEW EDITION BY DINES ANDERSEN AND HELMER SMITH
PUBLISHED FOR THE PALI TEXT SOCIETY
BY GEOFFREY CUMBERLEGE OXF0RD UNIVERSITY PRESS 1913

[英語訳1]

easily satisfied and not caught up
in too much bustle, and frugal in one's ways,
with senses calmed, intelligent, not bold,
not being covetous when with other folk, 144

Sutta Nipata Translated by Laurence Khantipalo Mills
Published by SuttaCentral
First edition: 2015

(http://www.buddhism.org/Sutras/SuttaNipata.pdf)

[英語訳2]

144. [He should be] content and easily supported,
of few duties and a frugal way of living;
of peaceful faculties and judicious,
courteous, without greed when among families.

An Ancient Collection of the Buddha's Discourses
Together with Its Commentaries Paramatthajotikā II
and excerpts from the Niddesa
Translated from the Pa¯li by Bhikkhu Bodhi

(以下からダウンロード出来ます。
https://www.pdfdrive.com/the-suttanipāta-an-ancient-collection-of-the-buddhas-discourses-together-with-its-commentaries-the-teachings-of-the-buddha-d189827611.html)

こうしてみると、パーリ語あるいはサンスクリット語を勉強してみようかな、と言う気持ちになりかけます。

パーリ語、英訳を参照して

パーリ語文の最初にある"santussako" ですが、本書の注によると"満足して"という意味です。

それで疑問なのは、"満足して"がどのようにして"足るを知る"になるのか、という点です。

経典では歴史的に"知足"、すなわち"足るを知る"という言葉が使われてきているようです。

サンスクリット語やパーリ語などの経典を中国語に翻訳するとき、大変厳格な体制で行われているとされています。それは、たとえば9人のメンバーが集まって、1行ずつ訳していくものです。インド側の3人と中国側の6人です。原文を1行読み、内容を評価し、誤りは正し、次に中国語に音訳し、さらに中国語に翻訳し、その中国語の文を原文も照らし合わせて評価、推敲し、最後に清書します。

増谷文雄 無量寿経講話 講談社文庫 講談社 2002年4月 p.22

ですから、サンスクリット語での"santussako"に対して"知足"と訳された場合、それはインド、中国両国の専門家が了解したはずです。

"満足"という言葉よりも"知足"の方が、原語のニュアンスをより適切に表現できたのですね。

"満足することが重要である"、ということは、中国語において"足るを知る"と記述することでもっとも適切に表現されたということなのでしょう。

英訳2における"[He should be] content"、あるいは英訳1と組み合わせて"[He should be] easily satisfied"というように、単語だけを置き換えれば、"(容易に)満足とすべき"なのでしょう。

パーリ語やサンスクリット語はヨーロッパの多くの言語とともに、インド・ヨーロッパ語族に含まれます。もともと、言語的に近い位置にいるので、英語訳を作るときには、単語の置き換えで訳文が出来てしまう傾向があるでしょう。

パーリ語、あるいはサンスクリット語での"santussako"にたいして、"content"とするだけで済んでしまいます。

その意味するところは、読者が考えることだ、ということです。

そこで考えてみると、「満足することだ」というニュアンスでしょうか。でも、どんな状態でも満足すべきということではないはずで、「満足ということを常に考えよ」という事に近いように思えます。そうであれば、「満足と言うことを知る(考える)べきである」とということにつながります。

中国語では単語の置き換えではすまないので、意味するところを考えて、対応する表現を創造しなければいけません。

老子に出てくる"知足"という言葉があったのは幸いでした。

たとえて言うなら、限りない欲望に目がくらんだ人に対して、「おまえは満足という言葉を知らないのか?」と諭すというようなことでしょうか。

もっとも、老子の存在とスッタニパータの中国語への翻訳の時代的な前後関係は、まだ曖昧です。ネットで検索すると、そもそも老子の実在性に疑問を持つ人もおり、また、スッタニパータもいくつかの章が別の時期につくられ、後で合体された可能性も主張されていて、疑問だらけです。

おそらく、今から2000年とか2500年前の事ですから、詳細を解明することは困難です。

でも、いつとははっきりしませんが、「だいぶ昔に書かれた文章が、ずっと後になって、人々に感銘を与えている」ということは素晴らしいことだ」と私には思えます。

ところで、誰が

「満足すべきとか「足るを知る」というのは誰に対していっているのか、についても考えてみる必要があるでしょう。

今回取り上げた句は、「第一 蛇の章 八 慈しみ」の二番目の句で、その前の句は、中村訳では「究極の理想に通じた人が」で始まり、そのような人がなすべきことは、としていくつかのことがらが上げられています。

ですから、「満足すべき」とか「足るを知る」ということは、「究極の理想に通じた人」はそうしているのである、ということになります。

未熟な大多数の人々は、そのような優れた人を理想として、できるだけ近づくように努力すべきである、ということなのでしょう。

上記の「英語訳2」では、「[He should be] content」であり、[He should be]という言葉が補われているのがそれに当たります。

この"He"については、上記の「前の句」は、英語訳では次の様になっています。

「英語訳1」…「What should be done by one who is skilled in wholesomeness」

「英語訳2」…「This is what should be done by one skilled in the good」

"wholesomeness"とか"good"というところは、"心身ともにな健全な"というところでしょうか。

ただ、"skilled"は引っかかります。"skill"は、どうしても"技能"とか"熟練された技"というような意味しか辞書にはないのです。

ただし、 Longman Dicrtionary of Contemporary English (5th Edition)には、その語源として、old Norse(古ノルド語)で"good judgement, knowledge"とあります。

「正しい知識を持ち、正しく判断できる」という意味合いになり、「精神的に健全」という意味合いをくみ取ることができます。

英語訳の"skilled in the good"は、私なら「善を極めた人」というところでしょうか。


いずれにしても、想像をたくましくして読み進めることが必要になります。

宗教が絡んだ文章は常に明晰さに欠けるような気がします。あえてはっきりと表現することを避けていると感じます。

あとでいろいろに解釈できる余地を残しておくためなのか、有難さを演出しようとしてのことなのか、思想に言語が追いついていないのか。

世の中って、そういうものなのでしょう。



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