日本語のあれこれ日記【78】
[2025/9/2]
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ある日、ふと、「卑怯」は英語で何というのだろうと思いました。
考えても何も思いつきません。
手元の和英辞典を引くと、そもそも「卑怯」には、二つの意味があることがわかりました。
スーパー・アンカー和英辞典 第2版 2006年4月
「汚い」と「臆病な」の二つです。訳語として、「汚い」に対しては"dirty"が、「臆病な」に対しては"cowardly"が示されています。
まず、「汚い」という意味を考えてみます。
たとえば、競技で、勝てそうもない相手に対して、審判を買収してこちらに有利な判定をさせて勝つ、という場合、「卑怯」な方法で勝った、と言うことができます。この場合、「汚い」手を使って勝った、と言えるかもしれませんが、「汚い」という言葉を使うと、「卑怯」というよりももっと広い意味を含んでしまうような気がします。
「卑怯」というと、その反対の意味、たとえば正々堂々と戦う、というイメージが沸きます。これに対して「汚い」というと、その反対の意味が曖昧になってしまうような気がするのです。
野球の試合で、相手の強打者に対して、敬遠のフォアボールで何度も対決を避けた結果勝利した場合、戦い方が「汚い」ということはできると思いますが、「卑怯な」戦い方だ、というのは表現がきつ過ぎるように気がします。
というのは、敬遠のフォアボールというものは野球規則に反しないからです。
ただし、この場合、勝ち方に「臆病」という側面が含まれていると考えられます。これは「汚い」ではカバーできないところです。
「卑怯」という言葉はとても強い非難・否定の気持ちが含まれているように思うのです。
"dirty"という広い意味ではなく、もっと強く非難する言葉は、英語には、単語としては、ないようです。、
英語の表現の中に、"hit under the belt"があります。ボクシングでの反則行為から出た言葉のようで、これなどは"dirty"よりも強い非難の意味がこめられているのでしょう。
ここまで考えてきて、「卑怯」という言葉が必要かどうかを考えたとき、そうでもないような気がします。「汚い」という和語でほとんどがカバーできると思います。
「汚い」という言葉でもの足りないケースを探してみると、人の道に外れているという非難の意味を含めるか、あるいは強調するか、というところと、「臆病」という意味を含めるかどうか、というところにあるような気がします。
「臆病」という言葉に不思議なところがあります。
ある漢和辞典と中日辞典を見ましたが、「臆病」という熟語が見つかりません。
戸川監修 佐藤・濱口編 全訳漢辞海 三省堂 2002年3月
相原茂編集 講談社中日辞典 第2版 講談社 2002年12月
上記の漢和辞典は古典としての漢文、中日辞典は現代中国語を対象とします。ということは、中国では昔から今までこの「臆病」という言葉はほとんど使われなかったということになります。
日本語では、12世紀の作品である今昔物語や大鏡に文例があり(精選版日本国語大辞典による)、昔から使われてきているようです。
ただし、「病」という文字が使われていますが、病気との関係はないだろうと思います。もっとも、「言海 大正12年版」では、その最初の意味として、「怖ぢ畏るる病」と説明されています。
大槻文彦著 言海 大正12年11月 第413版 吉川弘文館
このように不思議なところがありますが、現代では「臆病」は普通に使われます。「卑怯」は、小学生向きの国語辞典であるチャレンジ小学国語辞典にも採録され、第1の意味として「勇気がなく臆病なこと」、第2の意味として「こころが汚くずるいこと」と説明されています。
第1の意味に対しては、「とちゅうでにげ出すなんてひきょうだ」という例文が載っています。この例文では、私としては、「臆病」なのか「ずるい」のかの区別は微妙だと感じます。どちらかと言えば、「ずるい」のニュアンスと感じます。「臆病」以上に、「身方を裏切った」とでもいうような強い非難の意味がこめられているように感じるのです。
それで、「卑怯」の意味の一つとしての「臆病」ですが、精選版日本国語大辞典では、文例として狂言の「神鳴」が引用されています。
ネットで狂言の「神鳴」を探すと、詳しい記事が見つかりました。サイト名「江戸期版本を読む」の「校訂 鷺流「狂言五十番」 38 神鳴」という記事です。ありがたいことです。作者の方に感謝申し上げます。
ストーリーは、京の医者が、田舎に行けば医者が少ないから儲かるだろうと考え、田舎に向かう途中で雷が鳴りだし、そして雷が落ちてきた。落ちた拍子に腰を打ち苦しがっているので、針治療をしてやることになったが、針を刺すと雷が「痛い、痛い」とわめくところで、こう言うのです。
「雷の、その様な卑怯な事がござらうか。ちと痛い分は、堪忍なされませい。・・・・」
ここでは「卑怯」は、「恐がり、臆病、小心者」などというものでしょう。
ただし、私が感じる語感としては、「卑怯」に「臆病」の意味は感じられません。
これと同じ扱いをしている辞書に、「現代国語例解辞典(第4版)があります。そこでは「卑怯」には、「物事をするのに当たって、勇気がなかったりずるい気持ちがあったりして、正々堂々と立ち向かわないこと。また、そのさま。」とあります。
現代国語例解辞典 第四版 林巨樹・松井栄一監修 小学館辞典編集部編 小学館 2006年1月
「勇気がない」というところは「臆病」に通じと言えますが、「正々堂々と立ち向かわない」と表現しているところが、最も適切に「卑怯」という意味が現われていると思います。
「卑怯」の反対の概念が「正々堂々」ではないでしょうか。
「現代国語例解辞典」は"現代"と銘打っているように、現代の日本語を大正にしています。上に書いた狂言の例から、中世には「臆病」の意味が含まれていたのでしょうが、現代では、「卑怯」と「臆病」は"住み分け"をしているように感じます。
「我輩は猫である」の冒頭は以下のような文章です。
【文例1】
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考えもなかったから別段恐しいとも思わなかった。
漢語を用いないかたちに書き換えてみます。
以下のようになります。
【文例2】
オレ様は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかまるで心当てができぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは憶えている。オレ様はここで始めて人というものを見た。しかもあとで聞くとそれは宿り学びとという人のなかでもっとも荒々しいやからであったそうだ。この宿り学びとというのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしそのときは何という考えもなかったからとりわけて恐しいとも思わなかった。
書き換えたところは以下です。
我輩⇒オレ様
"我輩"と"オレ様"ではかなり違いますが、"我輩"の尊大なイメージの語感はある程度は出せているでしょう。
とんと⇒まるで
"とんと"が漢語かどうかはよく分りません。通常はかな書きするところから和語かもしれません。私個人的には"頓"という漢字をイメージしてしまうので、ここでは"まるで"に書き換えました。
見当がつかぬ⇒心当てができぬ
"見当"は"見る"という文字が使われていますが、視覚に限定することではありません。そこで、"心当て"という言葉を使いました。勝手に作った言葉です。"心当たり"という言葉が自動詞的なので、それを他動詞的にしたものです。
書生⇒宿り学びと
学生というイメージと雑用を手伝う下宿人というイメージの両方を含みます。"宿り"で下宿人のイメージを持たせています。また"学びと"は"学び人"を詰めた表現です。
獰悪な⇒荒々しい
この種の言葉は和語では対応するのが難しいです。"乱暴者"というイメージを入れたいのですが、"暴れ者"も難があります。"荒れ暴れ"とも違います。"優しい"の対極です。"荒(アラ)くれ"は近いかもしれませんが、やはり"獰悪"とは違います。今のところ、おとなしく"荒々しい"という言葉にしておきます。
このように見ていくと、漢語というものが、少ない音の数で、実にさまざまな、微妙なニュアンスを表現していることにおどろきます。ただし、それは、同音異義語の問題を抱えています。短い言葉ですから、同音になるのは当然です。しかも漢語の発音は種類に偏りがあり、コウ、セイ、テイ、シャ、シュ、ショ、シュー、ショー、チュー、チョーというような音が多く使われます。
「貴社の記者が汽車で帰社した」という有名なフレーズがありますが、それがよく反映した良い例です。