日本語のあれこれ日記【50】

夏目漱石の書簡集がおもしろい その2

[2019/7/24]


次のページ  前のページ  「日本語のあれこれ」のトップページ
このテーマの次のページ  このテーマの前のページ

ふたたぴ書簡

前回の記事に引き続き、漱石の書簡です。

今回は知らない人から手紙が来たときのやりとりです。

前回の記事でも、漱石の手紙が、たとえば「細かなところまで丁寧」などと書いています。

漱石のような人気小説家になると、読者からいきなり手紙が来る、ということがあるのですね。

で、それに対する返事が予想外に親切丁寧なのです。

こんな感じです。

例1 文学の道を志している新聞記者

1914(大正3)年4月7日

   四方田美男へ[ハガキ]

 お手紙を拝見しました私にはあなたからさう慕はれる程の徳も才もありません甚だ慚愧の至でありますあなたのご自愛をいのります
       四月七日      夏目金之助

宛名は一般人であることは気になりますが、100年以上昔のことなので差し支えないだろうと思い、そのままにしています。

書簡の総索引を見ると、この四方田氏に対して6通のハガキ・手紙が掲載されていることがわかります。

宛先は埼玉県の秩父です。5月25日の手紙では、「あなたは一体何をしてゐるひとですか」、「あなたが文学者になれるなれないはとても容易には申されません、然し文学者として食って行く事は大抵な人には困難です、私はみんなに忠告してやめさせてゐます」とかいていることから、文学をこころざしての相談のように思われます。

同じ年の6月2日の手紙には、「此間はあなたの文章(新聞に出てゐる)を拝見しました」、「あなたのやうな筆を執る事の好な人が新聞社に這入る事が出来たのは仕合せです」と書いてあります。これは届いた手紙に対する返事ではなく、偶然にこの手紙のやりとりの相手の署名がある新聞記事を目にして漱石の方から出したものと思われます。

という事は、漱石はこの人の名前を覚えており、新聞記事を読んだときに、その署名から「この記事の執筆者は最近手紙のやりとりをしている人だ」という事に気づいたのでしょう。

この人はおそらく、現在は新聞記者だが文学の道を志している、という人なのでしょう。

最後の手紙は次のようなものです。一つ前の手紙(上に書いた6月2日の手紙)から約1年半が過ぎています。

1916(大正5)年1月13日

   四方田美男へ

 御手紙は拝見致しましたがべつに是といって名案もありませんたゞ御気の毒に思う丈です世の中はあなた位な境遇にあるものが幾人ゐるか分らないと云ふ事実が充分な慰藉ニナリハシマセンカ

最後のものは、通常はあるはずの署名がありません。ハガキ以外ではこの最後の一つを除いてすべて「夏目金之助 (改行) 四方田美男様」という書き方です。

見放した感がありますね。

しかし、最初から読んでいくと、見ず知らずの人から手紙をもらって人生相談にのる、というのがそもそも親切心の表れだと思います。

漱石は忙しいのです。たとえば"面会日は毎週木曜日午後3時から"と決めているのも、その一つの表れです。

ですから、見ず知らずの人からの手紙に対しては無視してもしかたがないのではないでしょうか。

見ず知らずの人に6通もの手紙を書いて相談に乗っている、というのですから、親切を尽くしている、と言っていいと思います。

例2 小学生

1914(大正3)年4月24日

   松尾寛一へ

あの「心」といふ小説のなかにある先生、 、といふ人はもう死んでしまひました、名前はありますがあなたが覚えても役に立たない人です、あなたは小学の六年でよくあんなものをよみますね、あれは子供がよんでためになるものぢやありませんからおよしなさい、あなたは私の住所をだれに聞きましたか、
       四月二十四日      夏目金之助

小学6年生が漱石に手紙を書いたようです。

「子供がよんでためになるものぢやありませんからおよしなさい」とはっきり言っています。

最後の「あなたは私の住所をだれに聞きましたか」というところはちょっときつい言い方ですね。

そうはいっても、文の切れ目には読点(、)がきちんと打ってあります。

改行はありませんが、これは文章が短いためでしょう。最初にあげた四方田氏への手紙では句読点が全くないので、読みにくいのです。

また漢字が少ないのです。小学生という事を念頭に置いて書いているのでしょう。

このように、相手に合わせて文章を書いている事が分ります。

例3

1915(大正4)年1月22日

   今井みとしへ

 拝復 御手紙を拝見致しました私に御会ひになりたいと仰やるのは何か事情のある事なのですか又はたゞ会って見たいのですか、紹介状をもらふ人はありませんか、あなたは何処の学校へ行つて何をしてゐるのですか、私に会っても会ふとつまらないですよ。だからもう一辺考へて夫れでも会ふ気なら私の今の質問に対する返事を下されば其上で会ふべき筋なら日を極めて御目に懸りますから 以上
       一月二十二日      夏目金之助
      今井みとし様


1915(大正4)年1月25日

   今井みとしへ

 私が諏訪へ行つて講演をした時あなたが聞きに来て居た事は丸で知りませんでした、私もあの時分から見ると大夫年を取りました
 私の面会日は木曜です、然し近頃は原稿を書いてゐるので午前は駄目です午後から夜へかけてなら御目にかゝれます、但し夜は何時でも若い男の人達が落ち合ひますから夫に御宅も御遠方ですからまあ午後の方が宜しいでせう。然し今度の木曜の午後には人ノー利の男の人がくるかも知れません、今日来たから木曜の午後に来いと断ったのですから、もしそれで御差支がなかつたなら入らつしやい。私は構ひませんから 以上
       一月二十日      夏目金之助
      今井みとし様

諏訪での講演会が発端のようです。

この講演会は、1911(明治44)年6月17日に信濃教育会の招聘に応じて夫人同伴ででけたもので、漱石の生涯でなかなか重要な位置を占めています。

というのは、前年8月24日に転地療養先の修善寺で大量の喀血をして危篤状態になっているのです。

もう少し詳しく言うと次のような経過です。(夏目漱石年譜などを参照)

1910(明治43)年6月 胃潰瘍のために長与胃腸病院に入院

1910(明治43)年8月 修善寺温泉菊屋旅館にて転地療養

1910(明治43)年8月24日 大量喀血し一度危篤状態となる。多くの友人・知人が駆けつける。のち次第に回復

1910(明治43)年10月 修善寺から長与胃腸病院に再入院

1911(明治43)年2月 退院

その様子は書簡からもうかがえます。

以下、1910(明治43)年の書簡です。抜粋、あるいは要約して書きます。

6/19 「医者の勧にてとうとう表面(麹町区内幸町胃腸病院)のところへ入院」

6/26 見舞い状に対する礼状

7/3 「とうとう思ひ切つて入院致し」

7/12 「病気中に謡本の揃つたのを綴ぢて置きたいと思ふ」として綴じる事を依頼

7/21 見舞い状に対する礼[ハガキ]

7/21 「此間は御見舞難有候…もう少しで退院くらい出来さうに候」

7/29 「胃潰瘍の療治は一段落ついて今は消化試験やら胃液の試験やらをやつてゐる。もう少[し]したら退院の許可が出るだらうと思ふ。」

8/2 見舞いに対する礼状(10通、内手紙1通、ハガキ9通)。同時に、この日退院した事を伝える。

8/21 (静岡県修善寺菊屋本店より)「目下落付き居り候間機を見て帰京静養之心組に御座候」

9/11 (静岡県修善寺菊屋本店より夏目筆子、夏目恒子、夏目栄子、へ)八月(九月の間違い)十一日(改行)けさ御前たちから呉れた手紙をよみました。三人とも御父さまの事を心ぱいして呉れてうれしく思ひます。…御母さまも丈夫でこゝに御出です。…(改行)御父さまは此手紙あおむけにねてゐて万年ふででかきました。(改行)からだがつかれて長い御手紙が書けません。」

8/21の時点では、帰京して自宅で静養する事を考えていたようです。それが8/24に大喀血。なんとか持ち直して、喀血後18日が過ぎた9/11、 まだ起き上がれず、漸く最初の手紙を寝ながら子供達へ書いたのでした。

その後、10月には帰京して再入院(旅館から病院に直行)、翌年2月に退院です。

入院中に漱石に対し文学博士号を授与するという通知がきて、漱石はそれを辞退する、文部省は辞退はできない、漱石はそれはおかしい、などとやりとりがあり、胃を悪くしている漱石にはこたえたことと思います。


さて、このときの日程ですが、夏目漱石サロンの記事によれば以下のようです。

6/17 朝、上野駅を出発、9時間の列車の長旅の後、17時長野駅着。

6/18 朝、県会議事堂で「教育と文芸」の題で講演。高田に移動し、修善寺の大患で世話になった医師宅に宿泊

6/19 高田中学校で講演(*)

6/19 高田近辺を巡る

6/20 松本経由で諏訪に移動

6/21 高島小学校で「我輩の見た職業」という演題で講演

ずいぶん寄り道をしてしまいました。大病で危篤状態にもなり、2月にようやく退院して、6月の5泊6日の講演旅行です。

夫人同伴というのも、体調が心配だからと鏡子夫人が強く言ったためで、漱石は最初はかなりいやがっていたようです。

とにかくこの講演旅行中、体調は良かったようで、6/22の手紙に「昨夜帰京越後高田直江津迄参り帰りは諏訪甲府経過からだは旅の方よろしく候」と書いています。

ですから、お会いしたい、という手紙をもらい、その人が"諏訪の講演を聴いた人"である、と分れば、講演旅行中ずっと体調が良く、また懐かしい想い出もあり、良い印象を持ったと想像できます。


この人へは上記のように1/25に"木曜日の午後が面会の日にしている"という事を手紙を書いています。その後1/29に名古屋の田島道治という人に宛てた手紙の中に次のような一節があります。

昨日今井みとしといふ女が来ました新渡戸さんの世話になつた事のある女ださうですあなたを知つているかと聞いたら知つていると答へました新渡戸さんから強情だといはれたと云つてゐました、私は正直な好い人のやうに思ひました

新渡戸とは注解によれば新渡戸稲造です。

この田島道治ですが、土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)というサイトの"漱石と鮎という記事"に情報がありました。

田島道治は、漱石の教え子のようですが、東京帝大時代には新渡戸稲造を敬愛し、新渡戸家に書生として住み込みをしています。鶴見祐輔、前田多門、岩永裕吉とともに「新渡戸四天王」と呼ばれていますから、どこかで漱石との接点があったのでしょう。

今井みとしへの手紙は次の1通が最後です。

1915(大正4)年5月31日

   小石川区女子大学精華寮今井みとしへ

 拝復 あなたの御手紙をみて…
女子大学の寄宿舎では日曜以外には外出が出来ないさうですが其善悪はとにかくとして随分困るでせう私の家へきたいという御希望があるなら日曜に来ても差支ありません然し今は少々忙しいから午前は駄目です夫から午後でもことによると人のうちへいかなければならない事や其他の場所へ行く必要が出て来るかも知れませんそんなときには断ります然しひまがあれば御目にかゝります…
       五月三十一日      夏目金之助
      今井みとし様

今までの宛先は浅草区小島町でしたが、この手紙で初めて宛先が女子大学精華寮でした。小石川、女子大学と言えば日本女子大学になります。

漱石の住所は牛込区早稲田となっていますから、近いですね。

「午後でもことによると人のうちへいかなければならない事や其他の場所へ行く必要が出て来るかも知れません」

このように細かな注意を書いて送る、というのは他にも礼があります。しかし、くどい、という印象はぬぐえません(私自身はくどいのは平気でまつたく気になりません)。

やはり気になるのでしょう。せっかく出かけて来てくれたのに漱石は不在でむなしく返る事になっては気の毒だ、という気持ちなんでしょう。

実際、ある人に「来てくれたのに外出していて申し訳ない事をした」という内容の書簡も残っています。

いろいろなつながり

今井みとしという人への書簡については随分いろいろな話を絡めてしまいました。

いろいろな事が絡み合っている、という事の一つの好例になるので書いています。

○ある女性からお会いしたいと手紙が来る。

○手紙で話を聞いてみると、自分が大病をして一時危篤状態になり、なんとか回復してまもなく講演旅行に出かけた時の講演を聴いた人だった。

○この講演旅行では、危篤状態にまでなったときに診てもらった医師がその時は講演先の近くで医院を開業しており、講演のついでに訪れ、その医師宅に宿泊したりしている。

○実際にあって話を聞くと、その女性は新渡戸稲造の世話になった事があり、その時に新渡戸稲造に師事していた田島道治という人にも会っている。田島道治は漱石の教え子でもあり、漱石に時々鮎を送ってくれる人である。

上で引用した田島道治への手紙の中で、「新渡戸さんから強情だといはれたと云つてゐました、私は正直な好い人のやうに思ひました」という一節がありますが、文豪漱石に「お会いしたい」と手紙をかいたり、実際に会って話をしたりしていて、また東京女子大に進んだと言う事、などを考え合わせると、かなり行動的で意志の強い人であったと思われます。

それは一面では"強情"と取られる(新渡戸稲造)こともあり、"正直な好い人"と取られる(夏目漱石)事もあるのでしょう。

備考

本記事の基になった書簡集(補遺にも書簡が収録されているのでそれを含む)は以下の6冊です。本記事に直接的に引用していなくても影響はあったので、その6冊すべてを載せます。すべて新書版です。前の記事の繰り返しになりますが、一応書いておきます。

漱石全集 第二十七巻 書簡集 一 岩波書店 1980年1月 第4刷

漱石全集 第二十八巻 書簡集 二 岩波書店 1980年1月 第6刷

漱石全集 第二十九巻 書簡集 三 岩波書店 1980年2月 第6刷

漱石全集 第三十巻  書簡集 四 岩波書店 1980年2月 第5刷

漱石全集 第三十一巻 書簡集 五 岩波書店 1980年3月 第5刷

漱石全集 第三十五巻 補遺    岩波書店 1980年5月 第1刷

備考2

引用文は、全集の本文は縦書き(もちろん漱石の手書きの文章も縦書きでしょう)ですが、このサイトでは横書きです。そのため、原文では、文章の前後関係を右・左と書くところは、横書きでは上・下という関係になります。これを直すのも気が引けますので、原文のままと致します。

備考3

(*) 高田中学校での講演は当初の記事では6/18としていましたが、上記の通り6/19に訂正致します。 [2019/7/28]


[ページの先頭に戻る]参考文献・辞書等の共通引用元情報について