日本語のあれこれ日記【73】
[2024/12/30]
すでに、この著者の日本語に関する下記の著作について、このサイトで書いています。
井上ひさし 自家製 文章読本 新潮文庫 新潮社 昭和六十二年発行
その一つは、「前書き・後書きの部屋」で取り上げた記事です。ただし、これは谷崎潤一郎訳の源氏物語にからめて、書名だけを載せたもので、内容については触れていません。
もう一つは、「小品いろいろ」の部屋の「司馬江漢に注目する」という記事の中で、上記の本の巻末にある解説の文章について書いたものです。
井上ひさし氏には、日本語を正面から取り上げた著作がいくつかあります。
その中の一つが、「私家版 日本語文法」です。ただし、これは、日本語文法について、体系的に記述したものではなく、著者が気にかけるいろいろな論点を取り上げたものです。対象は、日本語文法に限定せず、さまざまなトピックを取り上げています。
今回は、"かな書き"、つまり漢字の使用をやめる、ということについて論じたところを見ていきます。
「漢字のなくなる日」と題された章(pp.94~)がそれです。
なお、目次には、通常は章の番号と章題が書かれるのですが、本書では章の番号はなく、章題がずらっと並んでいるだけです。
ここで、最初に取り上げられているのは、漢字廃止論者と漢字廃止反対論者が朝日新聞の「声」という投書欄に投稿した記事の内容を分析したものです。
文字数をカウントして、漢字の使用割合を求めると、漢字廃止論者は35.9%、漢字廃止反対論者は29.5%で、漢字廃止論者の投書の方が漢字をたくさん使っている、という皮肉な結果だった、というものです。次のように書かれています。
このような珍妙な結果の顔を出すところが漢字問題のむずかしさ、一筋や二筋ぐらいの縄を用意したぐらいではどうにもならぬ
私が感じたのは、35.9%と29.5%の違いは、個人差やそのときの記述の内容による偏位などに埋もれてしまう程度ではないか、ということです。
次に取り上げているのは、漢字の数と英語の単語(フランス語も一部含む)の単語数の比較で、たとえば、英語の高校基本語は6404であるのに対し、漢字が3000字を習うのがたいへんだ、というのはおかしい、という論点です。
常用漢字では2000字レベルなので、さらに漢字は楽だ、ということになるでしょう。
これには反論せずにはいられません。
"鉄"という漢字を書くのと、"iron"と書くのとでは、それを習うための負荷が全然違います。
"渋谷区"と、その英語表記である"Shibuya Ward"を習うことを考えると、日本人が"Shibuya Ward"を習うのと、日本語を知らない外国人が"渋谷区"を習う労力はかなり違います。日本人が"Shibuya Ward"を習う方がずっと楽です。
重要なことは、日本人が"渋谷区"という表記を習うのに何の労力を必要としない、ということではないのです。ずいぶん苦労して"渋谷区"という表記を習ったのです。
ですから、漢字を読み書きするには、とても苦労しなければならないのです。
わたしたちは死ぬまで日本語を通じて生きるほかはないわけで、その日本語の一部分である漢字を学ぶために時間が沢山要(い)ることは理の当然、当り前のはなしでいないか。(p.99) (傍点は省略し、ルビは括弧書きに換えています)
やはり、漢字を学ぶのに時間がたくさん必要なのですね。これは否定できないのでしょう。
そこで、漢字がなくなったらどんなことが起こるだろうか、として、例文が五つ書かれています。
(A)ぼくは いま こうきゅう を とっている
(B)きみには りょうしんが ないのかね
(C)おやじしんだ、たいへんたいへん
(D)ごぜんが ごぜんを ごぜんに ごぜん めしあがった
(E)のどかなる はやしにかかる おにわまつ
はっきり言えば、このような"へんてこ"な日本語文を、このような高名な著者が取り上げる、ということにおどろきます。
(A)では、「ぼくは高給をとっている」、「ぼくは公休をとっている」のどちらにも読める、と言い、「漢字を用いてはじめてとっちかの意味になるのである」と主張します。
まともな人間が、「ぼくは高給をとっている」などと言うでしょうか。こんな不遜な、浅はかな人間は相手にする必要はないでしょう。
また、公休としう言葉は少なくとも私は使ったことがなく、見たり聞いたりした記憶がわずかにあるくらいです。
公休は有給休暇でしょうか。調べたら違いました。土日、祝日、その他、企業や省庁などが定めた休業日、ということのようです。
だとしたら、「ぼくは公休をとっている」はおかしいですね。有給休暇のように個人の都合で休みをとるなら「ぼくは」と言えますが、その企業、省庁が「この日は休業日とする」と定めたものなら、「ぼくは」ではなく、「僕の会社は」などとなるはずです。
(B)では、「両親がないのかね」というのは、きわめて攻撃的な表現で、いまどきこんな書き方をしたら、たいていは非難されるでしょう。
「りょうしんがない」にたいして、「両親がない」と「良心がない」の区別がむずかしい、というケースは、文脈を考えれば、まずないでしょう。
(C)では、かなり作為的だと感じます。他の例では"分かち書き"をしているのに、ここだけ"分かち書き"をしていないのです。
「おや、じしんだ」、あるいは「おやじ しんだ」と書くべきで、もっと言えば、「おやじが しんだ」と書くところです。
(D)このような悪文をどうして取り上げるのでしょうか。このシリーズの記事の「日本語のあれこれ日記【56】」の中で、「貴社の記者が汽車で帰社した」をかな書きすると、「きしゃの きしゃが きしゃで きしゃした」になる、という意見に対して、「このようなわかりにくい文章は書いてはいけない悪文です。読む立場で言えば、悪文は理解出来なくて当然です。」と書きました。まさにそのたぐいの文章です。
(E)は、漢字仮名交じり表記では「長閑か(のどか)なる林にかかる御庭松」だそうです。これにたいして、「のどかなる」を「喉(のど)がなる」と"解し得る"のでしょうか、「おにわまつ」を「鬼は待つ」と"解し得る"のでしょうか。理解出来ません。「はやしにかかる」は「はやしに かかる」であり、「早(は)や死にかかる」と解するのは無理があります。わたしの分かち書きの方法では、1文字の単語は"スペーサー"で挟む、という事を提案しており、それによれば、「早(は)や死にかかる」であるなら、「はや し に かかる」になり、さらに明らかです。
「のどかなる」/「のどがなる」、「おにわまつ」/「鬼は待つ」の問題は、百歩譲っても、かな遣いの問題で、かな書き(漢字廃止)の問題ではありません。
そして、全ての例に当てはまりますが、ここでは、文字で表現した場合に限定して取り上げています。
日本語は、目で文字を読むという視覚によるものと、耳で音声を聞くという聴覚によるものの、2種類の伝達手段があります。詳しくいうと、さらに点字という、触覚で伝達する手段もあります。
漢字が有効なのは、文字で表現した場合だけです。歌手が歌を歌うとき、演劇で役者が台詞(せりふ)をいうとき、アナウンサーがニュース原稿を読むとき、政治家が演説するとき、さらには、ラジオから流れる全ての音声には、漢字の寄与はありません。点字にも漢字はありません。
念のためですが、漢字が持つ造語力の問題は別です。造語力は、漢字を離れると厳しいという側面はあるにしても、漢字が必須ではありません。
この章の最後に、分かち書きについて触れています。
「おやじしんだ」ではあいまいなので、「おや、じしんだ」と分けて書かなくてはならなくなる。そうなるとまたぞろ「分かち書き規則」などいうものが配られることになろう。これがまた厄介なはなしで、つまり「改良」はかならず新しい規則を伴う。すなわち、改良はかならずしも日本語を「すっきり」したものなどにはしないのである。規則の分だけ、よりこんがらかってしまうのだ。
この指摘はもっともで、私がかな書きをいろいろと試みたときに、分かち書きの基準がその都度変ってしまった、という経験をしています。
しかしながら、ある程度の統一した基準は作れます。そうでないと、小学一年生の「こくご」の教科書やおびただしい数のかな書きの童話は出版できません。
そして最大の特徴は、分かち書きの基準が少しくらい"ずれ"ても、悪影響は出ないのです。不安になったら、細かく分けておけばいいのです。
「はや しに かかる」でも「はや し に かかる」でもいいのです。どちらでも、「はやしに かかる」あるいは「はやし に かかる」と区別がつきます。
著者の井上ひさし氏は、漢字廃止は論外であって、まともに考える意味がない、と思っているのではないでしょうか。だから、私から見ると、この章が、かなり"雑な"記述になっているのでしょう。
他の章が、ずっと論旨が首尾一貫して、また興味深い例文を取り上げ、読んでいて強く引きつけられるのに比べて、かなり異質だと感じます。
このことからもわかるように、漢字廃止論はすっかり忘れられたような状態です。これが事実です。