日本語のあれこれ日記【74】

日本語と漢字―その20―漢語の排除

[2025/3/26]


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漢字から離れる

漢字の影響をできるだけ少なくすることを考えていますが、どのような方法があるでしょうか。

一つの考え方として、漢語を使わなければ、漢字から逃れることができるでしょう。

以前に、夏目漱石の「我輩は猫である」を取り上げました。これを漢語を使わないで書き換えたらどうなるでしょうか。

重複しますが、さいど取り上げます。

例 夏目漱石 「我輩は猫である」

「我輩は猫である」の冒頭は以下のような文章です。

【文例1】

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考えもなかったから別段恐しいとも思わなかった。

漢語を用いないかたちに書き換えてみます。

以下のようになります。

【文例2】

 オレ様は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかまるで心当てができぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは憶えている。オレ様はここで始めて人というものを見た。しかもあとで聞くとそれは宿り学びとという人のなかでもっとも荒々しいやからであったそうだ。この宿り学びとというのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしそのときは何という考えもなかったからとりわけて恐しいとも思わなかった。

書き換えたところは以下です。

我輩⇒オレ様

"我輩"と"オレ様"ではかなり違いますが、"我輩"の尊大なイメージの語感はある程度は出せているでしょう。

とんと⇒まるで

"とんと"が漢語かどうかはよく分りません。通常はかな書きするところから和語かもしれません。私個人的には"頓"という漢字をイメージしてしまうので、ここでは"まるで"に書き換えました。

見当がつかぬ⇒心当てができぬ

"見当"は"見る"という文字が使われていますが、視覚に限定することではありません。そこで、"心当て"という言葉を使いました。勝手に作った言葉です。"心当たり"という言葉が自動詞的なので、それを他動詞的にしたものです。

書生⇒宿り学びと

学生というイメージと雑用を手伝う下宿人というイメージの両方を含みます。"宿り"で下宿人のイメージを持たせています。また"学びと"は"学び人"を詰めた表現です。

獰悪な⇒荒々しい

この種の言葉は和語では対応するのが難しいです。"乱暴者"というイメージを入れたいのですが、"暴れ者"も難があります。"荒れ暴れ"とも違います。"優しい"の対極です。"荒(アラ)くれ"は近いかもしれませんが、やはり"獰悪"とは違います。今のところ、おとなしく"荒々しい"という言葉にしておきます。

このように見ていくと、漢語というものが、少ない音の数で、実にさまざまな、微妙なニュアンスを表現していることにおどろきます。ただし、それは、同音異義語の問題を抱えています。短い言葉ですから、同音になるのは当然です。しかも漢語の発音は種類に偏りがあり、コウ、セイ、テイ、シャ、シュ、ショ、シュー、ショー、チュー、チョーというような音が多く使われます。

「貴社の記者が汽車で帰社した」という有名なフレーズがありますが、それがよく反映した良い例です。



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