日本語のあれこれ日記【67】
[2024/10/16]
以前に、かな表記を試みた記事を見つけました。2024/9/21の時点で作成した記事です。なぜかアップロードしないままになっていました。
海外古典文学の部屋のNo.4の記事である「翻訳の違いの影響―自省録 その4 英語訳との比較」をかな表記したものです。
内容は、マルクス・アウレリウスの自省録について、英訳であるHays訳、その私訳(試訳でもあります)、私訳のかな表記をならべたものです。
記事を書いたタイミングは、「日本語と漢字―その7」と「同 その8」の間の時期で、この当時は、"品詞分け"によって分かち書きをしていました。
この記事を作成したことをすっかり忘れていましたので、遅ればせにながら、本日アップロードします。
英文、漢字仮名交じり文、かな文字分の対比ができる点で、意味があると思います。
私には、漢字かな交じり文のほうが確かに「ぱっと見て内容の概略の見当がつく」ということは確かだろうと思います。そのことは、上でリンクを張った"かな表記の文章"でもはっきり分かります。
英文にはそのような特徴はありません。それにもかかわらず、英文を読むことと、漢字かな交じり文を読むことを比べた場合、これはおそらくですが、理解に必要な時間は、"差がない"と思うのです。
そして、書くということを考えると、かな漢字変換がどれほど高度なものになるとしても、文字そのものをタイプする英文の方がずっと有利です。
読む事を考えると、例えば、アメリカと日本の大学生が、指定された本を読んで、その内容をレポートする、という課題が与えたとき、アメリカの大学生が英文を読んで理解する場合と、日本の大学生がその日本語訳を読んで理解する、という場合をくらべると、日本の大学生のほうが断然短い時間で済むか、というと、そんなことはないのではないか、と思うのです。
もし、日本人・日本語のほうが、断然短い時間で課題をこなせる、としたら、いままで大きな問題提起がなされていたはずだし、そもそも、アメリカの大学生の方がより多くの課題を与えられて、それをこなしている、という話を何度か見聞きしています。
漢字かな交じり文の方が、ぐっと凝縮されていて、ビジュアル的に理解できそうである、ということは、上のリンク先の比較表でもすぐにわかります。
しかし、そのメリットが実際問題として'おもて'に出てこない、と思われるのは、英文でも単語をひとかたまりとして理解する、などの方法で、十分カバーできているのだと思います。
人間には、そのような潜在的能力が備わっているのだと思います。
だとすると、日本語のかな文字表記(漢字を使わない)にも可能性はあるのではないか、と思うのです。
もちろん、そのためのトレーニングは必要です。また、分かち書きなどの書き方の工夫や、かな文字表記に適する見やすい文字フォントの開発も必要です。
このようにすると、英文が漢字の特長に劣る点をカバーできているのと同様に、かな文字表記が漢字かな交じり表記に劣る点をカバーできるのではないか、と思うのです。
この辺りは、まだまだ検討が足りないことを自覚しています。
かな文字表記でどこまで行けるのか、ということを、どうやって確認すればいいのか、まだわかりません。
私の経験で言えば、我が息子が幼稚園に行っているときか、あるいはその前かもしれませんが、戦隊ヒーローものの絵本をすらすら読んで、内容をしっかり理解していた、ということを覚えています。
漢字を全く使っていない絵本で、ほとんどがカタカナ書きの、○○マンとか、その相手の悪人もカタカナです。それをすらすら読めるのです。
我々大人は、漢字の世界にどっぷりとつかってしまっています。このようなかな書きの絵本を読んで理解する能力については、大人は幼稚園児にかなわないのかもしれません。
記紀万葉の時代は、漢字が取り入れられて間もないころで、漢字ばかりで書かれています。漢字の使い方もバラバラです。
それ以来、およそ1300年くらいでしょうか。漢字は、文化の先進国"中国"からどんどん押し寄せてきました。むしろ、日本人が積極的に取り込んできたというべきでしょう。
政府の官職名、それと密接につながる人名は漢字で表現ざれます。紫式部や和泉式部での"式部"、清少納言の"少納言"、摂政、関白、左大臣、右大臣、兵部省、民部省、あるいは、神武、応神、推古などの天皇の名前、大化、和銅、天平などの年号…。中国に覆いつくされている感があります。
私がなんとかできないか、と考えていることは、"かな書き"が目的ではなく、漢字から離れたい、という願いです。
「現代日本語の語種分布」というネット情報があります。その中に、語種を分析した記事があります。
それによると、国語辞典を対象にした場合、和語が33.8%、漢語が49.1%、外来語が8.8%、混種語が8.4%と成っています。
これは見出しの言葉の分析でしょう。というのは、上記の統計に選考する統計データの説明の中に。「3種の国語辞典『言海』(明治22年;1889年),『例解国語辞典』(昭和31年;1956年),『例解国語辞典』(昭和44年;1969年)の収録語を語種別に数えた研究がある」とあり、"収録語"と表現されているからです。
日本由来の漢語的な言葉というものがどちらに分類されているのかは不明です。この例は、明治になって日本で生まれた、科学、哲学、経済、自由などの多くの言葉が含まれます。ただし、"多く"とは言っても、"漢語全体"からすれば少ないにつがいありません。
外来語というのは、漢語が中国からの外来語であるのに対し、ここでいう外来語は中国以外の外国に起源を持つ言葉でしょう。
この記事に引用された「雑誌90種での現代の語種分布(異なり語数)」では、上記の数値は、それぞれ、36.7%, 47.5%, 9.8%, 6.0%となっています。"異なり語数"という事なので、同じ言葉が何回出てきても"1回"と数えた数値です。
これに対して、述べ語数の統計データも掲載されていて、それぞれ、53.9%, 41.3%, 2.9%, 1.9%となっています。
これを見ると、和語は繰り返して使われる傾向がほかの語種より多い、と言うことでしょう。
漢字をなくす、とは、漢語をかな表記する、ということになります。日本語の約半分の言葉の表記ががらっと変わるのです。
和語は現在は漢字の"訓"を使って書かれることが多いのですが、これをかな表記しても、"漢語のかな表記"ほどの問題にはならないでしょう。
では、漢語を漢字を使わないで表記するとするなら、どのような方法があるでしょうか。
(a)単純にかな表記する、(b)和語で置き換える、(c)かな表記とそれを補足説明する言葉を組み合わせる、などが考えられます。
(a)ではわかりにくい、特に同音異義語によってわかりにくい、という場合に(c)を使う、ということが数多く発生すると思います。
昔から言われてきた「サイエンスのかがく(科学)」、「ばけがくのかがく(化学)」のようなケースです。
漢字から離れることがなぜ敬遠されるのか、ということについて、私は、「漢字の字体が美しい」という点が一番おおきな点だと考えています。
「漢字は美しい」のです。
だから、学校教育でたびたび指弾される「はね、とめにこだわる」ことの一番の要因は「漢字の美しさを大事にしたい」という気持ちにあると思います。
「木偏の下部は"止める"、手偏の下部は"はねる"」とすると美しいのです。このような思いに立ち向かうのは、これは難しいことです。
漢字をやめることにより、漢字の美しさを失うとすると、これはかなりつらいことです。