海外古典文学 04 翻訳の違いの影響―自省録 その4 英語訳との比較


[2020/3/19]

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自省録―第三の本 英訳本

自省録の2種類の翻訳について書いてきました。

考えている内に、「三人寄れば文殊の知恵」という格言を思い出しました

一つの翻訳本より、2種類の翻訳本、さらに3種類の翻訳本と、複数の翻訳本を読んでみると、感動・共感するところがどんどん増えるでしょう。

「三人寄れば」というように、もう一つ別の翻訳を読んでみたい。

市内の図書館には、既に読んだ2冊のほかには、中央公論社の「世界の名著」シリーズの第13巻に自省録がおさめられていますが、翻訳者は鈴木照雄となっていました。鈴木照雄訳の自省録は既に講談社学術文庫で読んでおり、全く同じ内容かというと違いがあるかも知れませんが、なるべく違う傾向の翻訳を読みたいと思っているので(そうでないと「三人よれば文殊の知恵」にならない)、もう少し探すと、県立図書館に「西洋古典叢書」シリーズに"水地宗明訳"の自省録があることが分りました。

どうしようかと思っているときに、"英語訳"という選択肢を思いつきました。

英語訳なら翻訳のバリエーションとしては十分です。

問題は私の英語読解力です。英語の文章というと、読んで理解するのにかなり難儀することは間違いありません。特に、このような哲学とか思想といった分野の本は難解でしょう。

その一方で、既に日本語訳を2種類読んでいて、その比較もやっているので、英語で書いてあることがある程度は推測できるかも知れない、とも思えます。

結局、「試しに読んでみよう」という気持ちが勝ちました。

私が入手したのは次のような本です。

MARCUS AURELIUS MEDITATIONS Translation by Gregory Hays Modern Library 2003 Paperback Edition

Modern Libraryというのはランダムハウス社の一部門であると書かれています。

英訳本の読み方

今回、読み方について、方針を決めました。

・辞書を引かない

・日本語訳を参照しない

日本語訳を読むときも、あまり細部にこだわらず、スピード感を保って読んできました。

上記の二つの方針は、スピード感を保つためのものです。


読書において、じっくりと細部まで読み解いて進める方法と、ざっと読んで分らないところはそのままにしてどんどん読み進める、という二つのやり方があるように思います。

精読と速読です。(速読術はまた別のものです。)

この二つの読み方で、どうも理解のパターンが違うような気がしているのです。前者の読み方をしてよく分ったところが、後者の読み方ではよく分らない、という違いです。逆に、前者の読み方をしてよく分からなかったところが、後者の読み方ではよく分った、という場合もあります。

それで、私は、後者の読み方が効果が高かったという個人的な経験をしているのです。

ここでいう"個人的な経験"とは次のようなものです。学生の時の英語のテキストが、ホワイトヘッド(A.N.Whitehead)の"Nature and Life"という短い作品でした。哲学的な内容をわかりやすく、かみ砕いて説明する、という内容です。ですが、どうしても哲学的な内容を語っているので、辞書を引きながら、1行1行詳しく読んでいくのですが、なかなか分かった気がしません。期末テストになると、今まで習ったところを一気に"おさらい"するのですが、このときに初めて「ああ、ここはこういうことが言いたかったのか」と少しは分かったことがあったのです。おそらく、著者が書いているときのスピードで読むのが一番いいのではないか、と想像しています。

英訳本を読みすすめる

実は、「この単語は分らないが、辞書を引いて意味を確認すればこの部分はよく理解できるだろうな」、と思ったことが何度もありました。しかし、一応は読み方の原則を決めているので、辞書は一度も引きませんでした。

この問題は結構大きなな影響があって、単語の意味が分らないので文章をよく理解することができないが、「どうもここは大事なことを言っているのではないか」と思ったことがあったのは事実です。

それでも、とにかく読み進めて、日本語訳のときと同様に、感動・共感を感じたところは赤線を引く、ということをやりました。

英訳本を読んだ結果

英語訳本でも"巻"(BOOK Oneなどと表記)、章(これは番号のみ)が表示され、その分け方は日本語訳とほとんど同じでした。

そこで、以下では日本語訳、英語訳についてまとめるときは、"巻"、"章"という表現をとります。

読み終わって、赤線を引いたところを、2種類の日本語訳と照らし合わせましたが、使用している底本はほとんど違いが無いように思われます。

両訳で、長い章は長く、短い章は短く、改行のしかたもほとんど違いは無いように感じました。

日本語訳では、"鈴木訳"、"神谷訳"という書き方をしてきたので、今回の英語訳は"Hays訳"と呼ぶことにします。

感動・共感した個所の比較の結果

さて、赤線を引いた個所の数ですが、Hays訳では54個所でした。

これは困りました。

既に書いたように、その数は、鈴木訳では24、神谷訳では21であり、あまりにも差が大きすぎます。

鈴木訳と神谷訳で共通するものは8個所ということを前の記事で書きました。これも少ないのですが、英語訳では、二つの日本語訳とかなり様子が違っているように思われます。

赤線を引いた巻・章を3種類の翻訳ごとにまとめてみました。

下の表で、"1"と書いたところが赤本を引いた個所です。(巻・章を単位として判定しています)


表1 感動・共感した個所の一覧

鈴木訳 神谷訳 Hays訳
1 9 1
1 10 1
1 12 1
1 16 1
1 17 1
2 14 1
3 1 1
3 16 1
4 3 1
4 6 1
4 13 1
4 17 1 1
4 19 1 1
4 20 1
4 21 1
4 24 1
4 25 1
4 29 1
4 32 1
4 33 1 1 1
4 35 1 1
4 37 1
4 42 1
4 45 1
4 48 1 1
4 50 1
5 1 1 1
5 5 1
5 6 1
5 8 1
5 17 1 1
5 18 1
5 23 1
5 24 1
5 25 1
5 28 1
5 29 1
5 33 1
5 37 1
6 2 1
6 6 1
6 11 1
6 15 1
6 19 1
6 29 1 1 1
6 31 1
6 33 1
6 36a 1
6 41 1
6 48 1
7 21 1
7 27 1
7 29 1
7 36 1 1
7 38 1
7 54 1
7 56 1
8 1 1
8 5 1
8 21 1 1
8 25 1 1
9 3 1
9 5 1
9 33 1
9 40 1 1 1
9 42 1 1 1
10 8 1 1
10 16 1 1
10 17 1
10 25 1
10 35 1 1 1
10 36 1
11 13 1
12 15 1
12 21 1
12 26 1
12 28 1 1

Hays訳の特徴は、連続してHays訳だけに赤線が引かれた、という個所が目立つことです。

続けて4個所以上"Hays訳だけに赤線"が引かれたところは4個所あります。

第1巻:第9章から第17章の連続5個所
第4巻:第21章から第29章の4個所、
第5巻:第18章から第37章までの8個所
第6巻:第31章から第41章までの4個所

なお、第1巻の5個所に続いて、第2巻の第14章までの6個所が連続して赤線が引かれていますが、ここでは連続している、とは扱いません。

なぜなら、第1巻は特殊な巻で、「第一巻が序文の役目を果す」(神谷訳)、「A special position is occupied by Book 1, which is distinguished from the rest of the work」(Hays訳)などとあるように、第2巻から本来の内容が始まるもので、第1巻はマルクス・アウレリウスが影響を受けた人びと(神も含む)の名前をあげ、その人からどのようなことを学んだか、ということを"謝辞"のように書いているところです。

前書きに「誰々に感謝します」と書いてある本をよく目にしますが、それに似たものです。ただし、自省録ではそれが著者の思想・考え方を詳しく述べている、という違いがあります。

神谷訳の訳者解説で「書かれた気持からいえば、全体にたいするしめくくりのようなものであろうといわれている」とあるように、"総括"という印象です。総括を謝辞として表現したのです。

第1巻の連続5個所

第1巻は日本語訳では、赤線を全く引いていません。内容が"謝辞"のようなものだから、ということで、さっと読み流したのでしょう。

一方、英文で読む時には、ある程度の注意力で1行1行読んでいきます。そうすると、そこには、第2巻から展開される様々な様相が凝縮されていることが分ります。

たとえば、マルクス・アウレリウスが折に触れて言及する"徳性"に関する言葉がいくつも盛り込まれています。

第1巻の先頭から、そのような"徳性"に関する言葉を拾い出すと、次のようなものが出てきます。(主として神谷訳から抜粋・要約しました)

清廉、温和、慎ましさ、雄々しさ、独立心、親切、等々

神を畏れること。惜しみなく与えること。労苦に耐え、寡欲であること。つまらぬことに力をそそがぬこと。僥倖をたのまぬこと。「私は暇がない」と言わぬこと。克己の精神と確固たる目的を持つこと。病気の場合でさえも、きげん良くしていること。熟慮の結果いったん決断したことはゆるぎなく守り通すこと。名誉に関して空しい虚栄心をいだかぬこと。

(逆に、徳性に反することとして)暴君の嫉妬と巧智と虚偽。

このような様々なことが書かれていて、ある一面では、第2巻以降のすべての内容がここに書かれてしまっている、と見ることもできます。

残念ながら、日本語訳では、さっと読み流してしまうのです。英文ではそうはいかずに(わたしの英語力が劣っているおかげですが)丁寧に読んでいくために、感動・共感を覚えたということと思われます。

以下では、「日本語訳では赤線を引かず、Hays訳に赤線を引いたところ」の例をいくつか見ていきます。Hays訳に加えて、私なりの私訳も加えました。この私訳の作成に当たっては、辞書及び日本語訳本を参照しました。なお"--------"は「中略」を表します。

表2 Hays訳で感動・共感したところの例 第1巻

Hays訳 Hays訳に対する私の試訳
1 9 To be free of passion and yet full of love. 激情にとらわれず、しかし愛情深く
1 10 Not to be constantly correcting people,and in particular not to jump on them whenever they make an error of usage or a grammatical mistake or mispronounce something,but just answer their question or add another example,or debate the issue itself (not their phrasing),or make some other contribution to the discussion and insert the right expression,unobtrusively. ひとびとの間違いをいつも指摘し続けたり、特に言葉の使い方や文法上の間違い、発音の間違いについて責め続けたりするのではなく、質問に答え、あるいは別の例を教えたり、その課題そのもの(言葉のいいまわしではなく)について議論したり、その議論に対して別の角度から手助けしたり、正しい表現を控えめに差し挟んで教える、ということをすべきである。
1 12 Not to be constantly telling people (or writing them) that I'm too busy,unless I really am. Similarly,not to be always ducking my responsibilities to the people around me because of “pressing business." 本当に忙しいわけでもないのに「忙しくてしょうがない」と言ったり、書いたりしないこと。忙しいからといって周囲の人に対して責任逃れをしないこと
1 16 His attitude to the gods: no superstitiousness--------No bathing at strange hours, no self-indulgent building projects,no concern for food, or the cut and color of his clothes, or having attractive slaves.--------He never exhibited rudeness,lost control of himself,or turned violent. No one ever saw him sweat. Everything was to be approached logically and with due consideration,in a calm and orderly fashion but decisively,and with no loose ends. (養父に関して)神々に対して、迷信の類いはまったくなかった--------変な時間に風呂に入ったり、家を建てることに執着するところがなく、食べ物や衣服の色とか形とか、はたまた見栄えのする奴隷を持つことなどには無頓着だった。--------だらしないところを見せたことがなく、カッとなって怒り狂ったり暴力を振るった事もなかった。彼が汗だくになったところを見た人はいない。何事にも論理的に取り組み、配慮が行き届いて、すべてが穏やかで整然となされる一方、決断するに際しては断固として行い、物事の締めくくりがおろそかになることがなかった
1 17 [GODS]That my children weren't born stupid or physically deformed. [神について]私の子供達が生まれつき頭が悪い、あるいは肉体的に欠陥がある、ということがなかったこと。

第17章などは、この人の"一人の人間としての正直な告白"という印象を受けます。

ローマ皇帝になった哲学者と言っても、やはり"子を持つ普通の父親だな"と。

この第1巻は、二つの日本語訳の何れも、それぞれの章が、「○○からは」という書き出しになっています。「○○からは・・・・・・・・という教え、あるいは恩恵を授かった」ということでしょう。構文としては、「○○からは・・・・・・・・を」という形です。

たとえば第9章では「九 セクストスからは、親切であること」(鈴木訳では「九 セクストゥスからは、親切心を」で、途中打ち切りの形)になっています。

一方、Hays訳では少し違っていて、たとえば第9章は、「9. SEXTUS」という章の表題の後の改行の次に、単に1行"Kindness."とあるだけで、"からは"の部分はありません。

オンラインで読めるもう一つの英訳(*)があります(以下、Long訳と呼びます。また単に英語訳と書いた場合はLong訳は含みません)。それは章番号がなく(改行はされている)、"From Sextus, a benevolent disposition,・・・・"という文章です。その二つの章の書き出しは、"From Rusticus I received・・・・・・・・"、"From Apollonius I learned・・・・・・・・"という具合で、「誰々から、○○という教え、あるいは恩恵を授かった」という表現です。

(*) The Internet Classics Archive at MIT The Meditations By Marcus Aurelius Translated by George Long

たぶん、原文では単に言葉があるだけで、「○○からは・・・・・・・・という教え、あるいは恩恵を授かった」というところまでは書かれていないのでしょう。しかし、このHays訳でそのような表現を加えて無くても、読み進めていくと、「教え、あるいは恩恵を授かった」ことの感謝の気持ちが良く伝わってきます。

単に単語やフレーズを並べていくだけの表現であれば、「教え、あるいは恩恵を授かった」という意味づけを自分で付け加えて読む事になり、それにより、かえって自分の気持ちが本に書かれた世界に入っていく助けになっているような気がします。

ここで感動・共感ということは、上で触れた第17章も含めて、「あまりに人間的な(しかも特上の)」というところにあります。

「愛情深く」、「他人の間違いを指摘し続けるな」、「忙しい、ということを言うな」、「食べ物や衣服に関心を向けなかった」、「怒り狂ったり暴力を振るった事がなかった」などと、具体的ないろいろな人の立ち居振る舞い、言動から教訓として学んだ、と感謝の気持ちで回想しています。しかもそれが、ある意味であまりに当たり前のことなんですね。それを改めて書いている。

昨今の国内情勢、国際情勢を考えると、このような表現を発することがおかしくない指導者(政治家とか学者など)を想像することがいかに難しいことか。ここに述べられた世界から現在が、いかにかけ離れてしまっていることか。現在の世の中は、古代から今まで成熟してきたのではなく、正道からどんどん外れてきている、と思い知らされます。

この第1巻に関しては、私は、2種類の日本語訳を読んだときには「読み過ごした」という状態に近いのですが、Hays訳を読んで、その評価はがらっと変わりました。こんなに中身の濃い巻だったとは驚きました。

第1巻が「本の前書きにおける謝辞のような内容」と上に書きましたが、この本が人生の総決算というべき内容なので、「自分の人生全体についての謝辞」と言えるでしょう。

第4巻の連続4個所

第4巻では合計17の章に赤線を引いています。これは巻別に見たときの最多です。

内訳は、日本語訳にのみ赤線が引かれたのは9章、英語訳のみが5章、両者共通が3章です。

"英語訳のみ"の5章のうち、4章が連続しています。第21,24. 25, 29章です。これについてみてみます。

表3 Hays訳で感動・共感したところの例 第4巻

Hays訳 Hays訳に対する私の私訳
4 21If our souls survive,how does the air find room for them-all of them-since the beginning of time? 魂がすべてそのまま残るとしたら、時間(人類)の開始以来のすべての魂に必要な空間がどれだけ必要になることか。
4 24 "If you seek tranquillity, do less." Or (more accurately) do what's essential--------Which brings a double satisfaction: to do less,better.
Because most of what we say and do is not essential. If you can eliminate it, you'll have more time, and more tranquillity. Ask yourself at every moment, "Is this necessary?"
君が心の安らぎを探しているなら、やることを減らすことだ。(より正確に言えば)必須のことだけをやることだ。--------それによって、二つの満足が得られる。すべきことが少なくなり、やらなければならないことはよりよく行うことができる。なぜなら、我々が話したり行ったりすることのほとんどは必須ではないのだ。必須でないことを除くことができたなら、より多くの時間ができ、心の安らぎも増すというものだ。常日頃から問い続けるのだ。「これは本当に必要なのか」ということを。
4 25 And then you might see what the life of the good man is like someone content with what nature assigns him, and satisfied with being just and kind himself. そうすれば、善い人間の生き方がどのようなものか君にも分るだろう―自然から割り当てられたことを喜んで受け取り、公平で親切な自分に満足している生き方である。
4 29 Poor: (adj.) requiring others; not having the necessities of life in one's own possession. 貧しい:(形容詞)他のものを欲しがること。人生において、自分が持っているもので不足はないのに。

第21章は、この魂に関する文章の後に、肉体、すなわち遺体を安置するのに必要な空間についての意見が述べられます。

魂もやがて変化し分解(change and decomposition)されてしまう。ちょうど肉体が、つまり遺体がそのまま残ったら地表のスペースが足りなくなってしまうのと同じではないか、と言うのです。

死後、肉体(遺体)は骨になり、やがて痕跡が残らないことになることは誰にも否定しないでしょう。しかし魂についてはどうか。

魂が全部残ったらこの世界にスペースが足りなくなってしまうよ、と言うのですね。

私などは、死後どうなるのかということを考えると、正直なところ怖いのです。肉体が滅びるのは当然ですが、ひょっとして魂は永遠に残るのではないかという希望を持っていたい。それなら死というものも怖くない。もっとも死後の魂がどのような環境条件にあるのか、という不安はありますが。(仏教が説く地獄のようなところでは困ります。)

魂を全部永遠に取っておくスペースなんか無いじゃないか、と言われてしまうと、非常に不安になります。

これに対して、日本語訳ではどうなっているか。

神谷訳  「もし魂が(死後も)みな存続するならば、いかにして空気はこれらの魂を永遠の昔から包含しているのであろうか」

鈴木訳  「もし魂が存在し続けるならば、大地は悠久の太古よりいかにしてそれらに場所を確保しているのか。」

両訳において、「空気が魂を包含する」、「大地が魂の場所を確保する」という考え方がまず分りません。

一方、Hays訳では「If our souls survive,how does the air find room」とあります。第一に"our souls"とあるので"私の魂のことも含むのだ"と、俄然身に迫ってきます。

"the air find room"の"air"は神谷訳ではそのまま"空気"、鈴木訳では"大地"となっています。この違いですが、"空気"、"大地"の何れでも私には「一体何のこと」と思ってしまいます。

ところが英語訳で"air"とあると、「空気という意味の他に、哲学的に何か特別の意味があるのかもしれない」と考えます。

日本語訳では「一体何のこと」という印象で、この文章全体がさっぱり分らない、と拒否してしまうのに対し、英語で"air"とあれば、哲学的に特別な意味があるのかもしれない、と考え、その部分は"ひとまず置いて"、「この文章は、魂がいつまでも残るのではない、ということを言っているのだ」、という理解に至るのです。

これは、後付けで想像したことなので、確実ではありません。しかし、いま、改めて日本語訳を読んでも、私に迫ってくるものは希薄です。

もう一つは"survive"という単語です。"survive"と言えば、私は「沙漠とかジャングルに一人取り残されて、そこからなんとか脱出して生き延びる」というような、非常に切羽詰まった状況をイメージします。「魂がsurviveする」というのはとても"過酷"な状況です。人が死んだのち、魂はそのような"過酷"な状況を喘ぎながら"生き延びようとする"というのはちょっと変です。なにか尋常ではないと感じます。

英語訳では、そのような強い思いが起こって、赤線を引いた、ということではないかと思われます。

この第21章の内容は、よく分りません。死後に関するマルクス・アウレリウスの考え方がよく分らないのです。確かに、"死"については、何度も触れていて、「人間は誰でもすぐに死ぬのだ」ということが何度も出てきます。しかし、"死後"についてはほとんど語られません。このあたりは、ギリシャ文明、ローマ文明で"死"や"死後"がどのように考えられていたのかを理解する必要があるでしょう。大きなテーマになってしまいますね。


第24章は、行為について書いています。

私は現在、いわゆる"終活"ということで、身の回りのものを処分しています。

ここに書かれた、「ほんとうに必要なことだけをせよ」、という言葉は、自分の立場に置き換えると、「ほんとうに必要な物だけを残して他の物は処分せよ」ということと対応します。これは切実な悩みです。

それが達成できたら、「より多くの空間(時間ではなく)ができ、心の安らぎも増す」のだと思います。

自分がまさに取り組んでいることと、よく対応がとれるのです。

さて日本語訳です。

[鈴木訳] 彼は言う、「心が朗らかであろうとするなら、少しのことだけをなせ」と

[神谷訳] 「もし心安らかにすごしたいならば、多くのことをするな」という。

[Hays訳] "If you seek tranquillity, do less."

「少しのことだけをなせ」、「多くのことをするな」に対して、Hays訳は"do less"と、ぎりぎりまで言葉をそぎ落とした表現です。

このような事態の時は、言葉はできるだけ短くした方が受ける印象が強いですね。ただし言語の壁があって、Hays訳のようには日本語では無理です。

日本語では無理としても、中国語だと英語に近い表現はできそうです。ネット上でいろいろな言語の翻訳語を探すことができ、やってみると、行うは"為"など、"less"は"更少"とか"較小"などという言葉が出てきます。日本人なら"なるほど"と見当がつきますね。ですから、"為更少"ではどうなのでしょう。中国語は私には分りませんが、恐らく英語表現に近いものができそうです。

"tranquillity"という単語は知りませんが、トランキライザーが精神安定剤であることは知っているので、"精神の安定"だろうと見当がつきます。


第25章は、これはまさに私自身が全くできていない事が言われていると感じます。

「人間(生き物のすべて)は自然から何かの役割を与えられている」という考え方は確かにあります。

このサイトの「前書き・後書きの部屋」のNo. 24の記事で"バガヴァッド・ギーター"(鎧淳訳)の前書きを取り上げ、その中で、「『私利私欲を離れ、執着なく、なすべき行為を果たす』という教えにいたく感動した。」という文章を引用しています。

そのことはずっと頭から離れません。このシリーズの記事の第1回の記事でも触れています。

第25章では、二つの日本語訳が「試みてみよ。--------を。」(鈴木訳)、「--------うまくいくかどうか君もやってみよ。」(神谷訳)というものにたいして、Hays訳では"And then"と書き出していて、その前の第24章から続いているような文章になっています。そのわけは見当つきません。上に書いたもう一つの英訳文でも"Try how the life--------"となっていて、日本語訳と対応がとれます。

さて、このHays訳の本質は、"善き人間の生き方"について、"content with what nature assigns him, and satisfied with being just and kind himself"という部分にあります。

"nature"が一人一人の人間に割り当てた使命に各人が満足してそれを行い、(他人に対して)"just" で "kind" であることに満足する、というのが"善き人間のあり方"というわけです。

人間には生きていく上で一人一人割り当てられたことがあり、それを喜んで行い自ら満足する、というのは、これは至高の、いわば"悟り"ですね。

"what nature assigns him"ですから、「人はあることを成すべく割り当てられて生まれてきた」というのです。

鈴木訳では「万有より分かち与えられるものに満足し、」とあり、神谷訳では「『全体』の中から自分に割りあてられた分」で、Hays訳と神谷訳は同様ですが、鈴木訳では意味合いが異なります。

もう一つの英訳文では"who is satisfied with his portion out of the whole"です。

鈴木訳の"万有"とは、"成すべき任務の総体"という意味ととれば、すべの訳が少なくとも似通った内容になります。

そして、そのことを一番明確に述べているのがHays訳の"nature assigns him"なのです。

そうはいっても、"nature"が何なのかは明らかではありません。私流に表現するなら、「全宇宙の総意志」というところでしょうか。

漢字には"天"があります。漢和辞典では、「自然の理法」、「上帝。万物の主宰者。造物主。」などの意味を載せています(漢字海による)。これに近いですね。


第29章は、Hays訳だけが非常に省略した訳文になっています。おおよその対応はできます。

Alien(異邦人)、Fugitive(逃亡者/逃亡者)、Blind(盲目/盲者)、Poor(乞食)、Rebel(膿瘍/吹き出物)、Schismatic(肢/四肢(てあし))というように6項目を挙げて、解説します。

Hays訳では、Alienとは何々である、という書き方をしていますが、二つの日本語訳では、たとえは神谷訳で「宇宙の中にある物を知らない人聞は宇宙の中の異邦人だとすれば、その中で起ることを知らぬ人間もまたこれに劣らず異邦人である」というような具合です。

Hays訳の様に書くなら、「宇宙の中にある物を知らない人聞は宇宙の中の異邦人である、あるいは、その中で起ることを知らぬ人間もまた異邦人である」ということになります。

もう一つの英訳でも二つの日本語訳と同様の表現なので、おそらくはHays訳が省略した表現をとっているのでしょう。

ここで私が赤線を引いたのは、"Poor"の項目だけです。

神谷訳では、「他人に依存し、生活に必要なものをすべて自分の懐から出せぬ者は乞食である」、鈴木訳では、「他人を必要とし生活必需品のすべてを自己から手に入れぬ者は乞食である」としています。

"乞食"と名詞の扱いです。これに対し、Hays訳では"Poor(adj.)"、はっきりと"形容詞"と言っています。ですから、「貧しいとはどういうことなのか」という表現です。

それで、私の解釈は、necessitiesを、"生活必需品"(鈴木訳)や"生活に必要なもの"(神谷訳)としないで、"必要な物がないこと"を、また"not having"を"もっていない"、つまり、"必要な物は持っているのに"と解釈したもので、これは誤解です。

「既に十分持っているのに更に欲しがる、というのは○○だ」という様な言葉が頭の片隅にあって、それに引きずられた様です。

これは、おそらくは徒然草の第123段の次のような文章だろうと思われます。

(食ふ物、着る物、居るところ、薬を挙げて)「薬を加へて四つのこと求め得ざるを貧しとす。この四つ欠けざるを富めりとす。この四つのほかを求めいとなむを驕(おごり)とす。

小川剛生訳注 兼好法師 新版 徒然草 現代語訳付き 角川ソフィア文庫 KAADOKAWA 平成27年3月初版

「食べ物、衣服、住居、薬の四つで十分であり、これを欠くのは貧しい、欠けないなら富む、この四つ以上を求めようとするのは驕りである」というわけです。

"necessities"がこの四つということに対応し、「これを欠くのは貧しい(poor、又は乞食)」まではいいのですが、「この四つ以上を求めようとするのは驕りである」というところまで拡大してしまったのです。とんだ勇み足でした。

第5巻の連続4個所

表4 Hays訳で感動・共感したところの例 第5巻

Hays訳 Hays訳に対する私の試訳
518Is wisdom really so much weaker than ignorance and vanity?知恵というものは無知とか虚栄と比べてそんなに弱い物だろうか。
523Keep in mind how fast things pass by and are gone--------Nothing is stable, not even what's right here. The infinity of past and future gapes before us. 心にとどめておくことだ。事物はなんと素早く通りすぎ、去って行ってしまうことか。目の前にあるもので安定していつまでも同じであるものは何もない。我々の目の前には過去と未来が無限に続いているのだ。
524Remember: Matter. How tinyMatter. How tiny your share of it.Time. How brief and fleeting your allotment of it. Fate. How small a role you play in it. 憶えておくべきことがある。物質:君が持つものがいかに小さいことか。時間:君に割り当てられたのはなんと短くはかないことか。運命:君の勤める役のなんと小さいことか。
525So other people hurt me? That's their problem. Their character and actions are not mine. What is done to me is ordained by nature, what I do by my own.それで、他人が私に危害を加えるというのか。それは彼らの問題ではないか。彼らの人格や行動は私のものではない。わたしに対して成されたことは、自然が命じたのだ。私は私のやり方でやる。
528Don't be irritated at people's smell or bad breath. What's the point? With that mouth,with those armpits,they're going to produce that odor. -But they have a brain! Can't they figure it out? Can't they recognize the problem? So you have a brain as well. Good for you. Then use your logic to awaken his. Show him. Make him realize it. If he'll listen,then you'll have solved. 人びとの体臭や息が臭いことにいらいらするでない。何が問題か。彼らが臭いを出しているのは口や脇の下だ。しかし彼らにも考える力がある。どうなっているか彼らが分らないとでも言うのか。彼らが問題を認識できないとでも言うのか。君にも考える力がある。よかったな。だから、彼らが気がつくように君の頭を働かせるべきだ。彼に示すのだ。彼が分るようにするのだ。彼が聞く耳をもっているなら、君は問題を解決してしまっていることになる。
529You can live here as you expect to live there. And if they won't let you, you can depart life now and forfeit nothing. If the smoke makes me cough, I can leave. What's so hard about that? Until things reach that point,l'm free. No one can keep me from doing what I want. And I want what is proper to rational beings, living together.君は"あの世"でこのように暮らしたい、と思うような生活をこの世で送ることができる。誰かがそれを許さないなら、この世をおさらばすればよい。その代価として失うものはない。煙で咳が出たらその場を離れるまでだ。何も難しいことはない。何かの観点で限界になるまでは、私は自由に動く。私がしたいことをだれも止めることはできない。私は共同生活を送る理性的な生き物として適するものを求める。
533The things we want in life are,empty,stale, and trivial.--------Trust, shame, justice, truth-"gone from the earth and only found in heaven."--------be tolerant with others and strict with yourself.我々が人生において求めものは、空虚で陳腐でささいなものである。--------信頼、恥、公正、正義、真実―地から離れ出て天にだけ見つかる。--------他人の言動に寛大に、自分には厳格にせよ。
537I was once a fortunate man but at some point fortune abandonedme. But true good fortune is what you make for yourself. Good fortune:good character, good intentions, and good actions.私はかつて良運に恵まれた男だったが、あるとき運は私を見捨てた。しかし、真の良運は自分のために自らが作り出すものだ。良運とは、良い性格、良い考え方、良い行動である。

第18章はこの部分にどうして赤線を引いたのかちょっと分りません。今、読み返してみると、この文章よりも、赤線を引かなかった最初の1行の方が印象的です。

Nothing happens to anyone that he can't endure.(人が耐えられないことはその人に起こらない)

そもそも、表4の私の試訳は、日本語訳と会っていません。それを参考に書き直してみると以下となります。

非常に厳しいことがある人に起こったとき、そのことが起こったことを知らない[無知]か、あるいは自分の度量が大きいことを見せかける[虚勢]ために、それに耐えて傷もつけずにいる。知恵が無知や虚勢よりずっと弱いとはおかしい。("おかしい"は鈴木訳では"おぞましい"、神谷訳では"不思議なことだ"

でもどうでしょうか。Hays訳に従うと、「本当に知恵の方が弱いのか」になります。Hays訳では反語になっているように感じられます。

無知や虚勢のためにそうなったとしたら、そのベースは堅固ではなく虚弱なものではないでしょうか。無知や虚勢の効果がいつまで持つことか。いつかは"化けの皮がはがれる"はずです。

だから、無知や虚勢に基づくのではなく、知恵に基づくべき、ということの方が私にはしっくり来ます。

もう一つの英語訳であるLong訳ではこうなっています。

It is a shame then that ignorance and conceit should be stronger than wisdom. (無知やうぬぼれが知恵よりも強いのだとしたら、それは恥である。)

二つの英語訳では、Hays訳では"really"という単語が入っており、もう一つの英語訳であるLong訳では"then"があり、また、"should be stronger than"とあり、この点が反語表現ではないかと思うのです。

無知やうぬぼれが知恵よりも強いのだとしたら、それは恥である。(それはおかしいだろう、又はそんなはずはないだろう)というニュアンスと感じられます。

ここは、"おかしい"として、現状を嘆いているのか(二つの日本語訳では特にそのように読めます)、それとも一歩進んで、反語的に、「そうではないよ」(二つの英語訳を反語表現とした場合)と言っているのか、決めかねます。

いずれにしても、日本語訳の文章であったなら、赤線を引かなかった、というのは妥当だと思います。


第23章は、まず、「現在を原点とする時間軸が、過去と未来の両方向に無限に伸びている。その中で一人の人間の存在のなんと小さいことか」ということに共感したものです。

このシリーズの前々回の記事で、第4巻50章について「過去と未来の両方に無限の時間がある」と書きました。

前々回の記事で詳しく書きましたので、ここでは省略します。


第24章も第23章と同様です。要は一人の人間の存在がいかに小さいものか、ということですね。


第25章では、「それは彼らの問題である」というところに共感しました。

私は、60歳近くになって、そのような考え方をするようになりました。

これについては、一つのエピソードを憶えています。会社の仲間との飲み会から帰る際に3人で暗い道を駅まで歩いていたのですが、私は道路の中央寄りを歩いていたらしく、後ろからクルマが近づいてきたときに一緒に歩いていた一人が「ほらほら危ない。道路の端に寄らないと」と言ったので、私は「歩行者優先なんだから、気をつけるのは運転者であって私の問題ではないんだよ」といい、その人はあきれていました。

「まず基本的に誰の問題なのか」、ということをはっきりさせるべき、というのが私の考え方です。問題の担当者、責任者に任せる。かといって、私がクルマにはねられては、相手が悪い、と言ったってどうしようもないのですが。

「誰の問題なのか。彼の問題であるなら、彼がどうにかするのが"筋"であって、私が出て行くのは差し控える」、というスタンスです。そして、自分に火の粉がかかるようになったら、「これはどうにかしなくては」と、ようやく腰を上げるのです。

このことを強く認識するようになったのは、最近の社会情勢です。

たとえば、国政選挙や地方選挙で、特に若い世代の投票率が低い、ということが言われます。これについて私がなにかしたかというと、何もしていないのですが、私の二人の子に対しては、投票に行くべきだ、と何度も言っています。効果はほとんど無いようです。(最近の選挙で、一人の子が「今回は投票してきた」と言ってくれたことはありました。)

また原発問題ですが、私のサイトでも原発については何度も記事にして、問題を指摘してきたつもりです。それを二人の子供に言うと、「でも日本にはエネルギー資源がないんだから、原発は必要だ」と言うのですね。学校教育でそのように教えられている様な感じがしました。

投票にしても、原発にしても、これからその課題を背負うのは我々の世代ではなく、若い世代です。ですから、これからは私自身はすこし身を引き、若い世代にまかせよう。これが最近の思いです。

正直なところ、諦めたのですね。このようなおかしな政治でも、それでいい、と若い世代がいうなら、それでいいだろう。自分はこれからあまり長くは生きられないのだから。これから社会を担う人の行動に任せよう。

Other people hurt me? That's their problem. 「他人が私に危害を加える」ということに対して、「それは彼らの問題である」と言い切ることに、上記の「暗い道を歩いていたときのエピソードを思い出し、「そうだよね」と思ったのでした。

"That is not my issue but his issue."ということです。


第28章では、"体臭"とか"息が臭い"などということが、今から2000年前のローマ帝国時代から話題になっていたのか、と思い、笑ってしまった、というところが本当のところです。

なお、体臭(people's smell)ですが、二つの日本語訳では"わきが"、もう一つの英語訳のLong訳では"ampits"ですからこれも"わきが"ですね。ですから原文でも"わきが"だと思われます。

それで、悪いのは"口や腋である"と考える。「罪を憎んで人を憎まず」という格言を思い出します。それで、「相手にそのことを伝えれば、彼がなんとかするだろう、簡単な事だ」、ということですね。

たしかに、簡単な事なのに、やたらと込み入ったことになってしまうことがあります。簡単な段階で解決してしまうべきですね。


第29章は、いま読み返してみても、それほど強い印象は受けません。

「煙が煙かったら、煙が来ないところに移動すればよい。この世で思うように暮らせなくなったら、"あの世"に行けばいい。」

このあたりが気になったのでしょうか。感動でも共感でもない。強いて言えば疑問でしょう。

はっきりしませんが、マルクス・アウレリウスがちょっと弱気になっている、という印象を受けます。「この世の中が住みにくくなったら、いつでも"あの世"に行けばいいのだ」、と言っているように感じます。

第6巻の連続4個所

第6巻では合計11の章に赤線を引いています。

内訳は、日本語訳にのみ赤線が引かれたのは4章、英語訳のみが6章、両者共通が1章です。

"英語訳のみ"の6章のうち、4章が連続しています。第31,33, 36a, 41章です。これについてみてみます。

表5 Hays訳で感動・共感したところの例 第6巻

Hays訳 Hays訳に対する私の私訳
6 31 Awaken; return to yourself. Now, no longer asleep, knowing they were only dreams, clear-headed again, treat everything around you as a dream.目覚めよ。正気に戻れ。寝ているときではない。夢から覚めよ。もう一度頭をすっきりさせよ。おまえの周りにあるものはすべて夢として扱うのだ。
6 33 for a human being to feel stress is normal-if he's living a normal human life. And if it's normal, how can it be bad?人間がストレスを感じることは普通のことだ―普通の人間として生きているなら。そしてそれが普通のことなら、それが悪いわけは無いではないか。
6 36aEverything derives from it-that universal mind-either as effect or consequence.[因縁の考え方]--------focus on the source that all things spring from.すべては普遍的な精神から発生する。結果として発生するのか、あるいは順番どおりに発生したのか、のいずれかである。
6 41 If we limited "good" and "bad" to our own actions, we'd have no call to challenge God, or to treat other people as enemies.もしわれわれが善悪の判断を自らの行為に限るなら、神に異議を申し立てる根拠もなく、また他の人間を敵(かたき)とする根拠もない。

第31章は、なにを言っているのか分りません。ただし、「おまえの周りにあるものはすべて夢として扱うのだ」のところに、仏教の「色即是空」に通じるものを感じたのです。

「色即是空」はどういうことか、ということについて、私は語る資格はありません。しかし、「この世の中のすべての事物は実体が無いのだ」、という仏教の教え、というようなイメージは持っています。

「空」と何か、というと、これはとんでもないことになってしまいます。仏教の教えの根源になるわけです。

ですから、ここに書かれた"dream"を"空"と理解して良いのか悪いのか分りません。

でも、ギリシャ文明とインド仏教とで、いろいろな形で、思いがけない共通点があるような気がします。そしてマルクス・アウレリウスが生きたローマ文明はギリシャ文明の後継者と言っていいでしょうから、仏教と何かしらのつながりがあっておかしくないと思います。

ローマ文明はキリスト教が入ってきてそれに圧倒され、その結果、アジアの仏教文明と"たもとを分かつ"ことになってしまったのではないか、と私は考えています。私がそのように結論を出したのでは無く、その方向で検討していきたいな、と考えているところ、という段階ですが。

仏教の経典の中に「ミリンダ王の問い」という対話編があります。世界の名著に収録されていて、図書館から借りてざっと眼を通したと言う程度に読んだ気がするのですが、定かではありません。

ギリシャ文明に含まれるある国家の王ミリンダが仏教の高僧と対話したというような内容です。これを見ても、ギリシャ文明と仏教とは交流がありました。

最初に「第31章は、なにを言っているのか分りません」と書きました。日本語訳は神谷訳では「君を悩ましていたのは夢であったのに気づき、夢の中のものを見ていたように、現実のものをながめよ。」となっています。Hays訳で"knowing they were only dreams"の"they"とは何も書かれていないのです。「君を悩ましていた(もの)」という部分が抜けているのです。

実はLong訳ではそれがあります。

when thou hast roused thyself from sleep and hast perceived that they were only dreams which troubled thee

"they"に対して、"which troubled thee"とあり、「君を悩ましていた」に対応します。

神谷訳はLong訳とよく対応するのに対し、Hays訳では言葉が省略されています。

いずれにしても、「おまえの周りにあるものはすべて夢である」という考え方は共通であると思われます。ただし、このような見方がどのような意義があるのか分りません。

第31章のこの部分は、仏教の"空"の思想とどのような関係があるのだろうか、という興味を刺激することになった、ということで赤線が引かれたのでしょう。感動・共感とは違ったものですね。


第33章は、"stress(ストレス)"という言葉に引きつけられた結果です。ローマ帝国でもストレスが問題化されていたのでしょうか。

日本語訳ではこのストレスに対応する言葉は、「労苦(鈴木訳)」、「労働(神谷訳)」、またLong訳では"labor"です。

laborとは、単に"労働"という意味のほかに、"苦心"とか"骨折り"など「労働に伴う苦労」というニュアンスが加わっています。("労働力"という意味もあります。

通常、働くことは楽ではありません。苦痛を伴います。それを"ストレス"と表現したのでしょう。ローマ時代に"ストレス"という概念はないにしても、働くことは苦しいことだ、という認識はあったのでしょう。その意味では現代において"ストレス"と言っていることと同じとみることもできそうです。

働くことは苦しい。それは"自然なこと"だから、「悪いものではない」という見方は、なるほどと共感することができます。"過度のものでなければ"ということを添えておく必要がありますが。


第36章ですが、Hays訳では36章の次に36aという章があります。日本語訳ではその二つが一つにまとめられています。つまり、第36a章の内容は第36章の末尾に取り込まれています。

ここでは「結果として発生するのか、あるいは順番どおりに発生したのか、のいずれかである」という部分が気になります。仏教の"因縁"を連想しました。ここには日本語で「因縁の考え方」と自分で赤字で書き込んでいます。

日本語訳でも、「直接これに動かされて来り、あるいは因果関係に従って来る」(神谷訳)で、因果関係という言葉が出てきます。

いま存在すること・ものは、その原因から引き起こされたものである、ということで、実に考え方が接近しています。

また、仏教とのつながりですね。

第31章での"空"という考え方に引き続いて今度は"因縁"という、どちらも仏教の根幹に関わる考え方です。どうも古代ギリシャ文明・ローマ文明は仏教と近い位置にいる、という予感がします。

すでに、バガヴァッド・ギーター(これはヒンズー教です)との"近さ"についても書きました。古代ギリシャ文明・ローマ文明とインド文明という二つの古代文化が、どうも似ているような気がしてなりません。

もしかすると、メソポタミア文明が東に伝わって古代インド文明になり、西に広がってギリシャ文明になり、それぞれが発展した、いうことだったらとてもエキサイティングです。「根は一つ」、ということになります。メソポタミア文明については文字による記録が無いのではっきりしたことは分りません。

キリスト教がローマ文明に勢力を伸ばさなかったらどうなっていたのだろう、と考えたくなります。

ユダヤ教から生れたキリスト教、ヒンズー教から生れた仏教は、共に新興宗教でした。ユダヤ教徒、ヒンズー教徒はどちらも「教徒になるのではなく、教徒として生れたのだ」という立場を取ります。従ってその教えが更に広がるという傾向は強くありません。一方、新興宗教であるキリスト教、仏教はそれが認められるためには布教活動が必須です。積極的に広く教えを広めようとします。

布教活動が成功すると、母体となった従来の宗教を越える存在になります。布教活動というエンジンによってどんどん拡大していきます。

このテーマは重く深いので、私がここで書いたように、思いつきで話を進めるのは良くないですね。この辺で止めます。何かのきっかけになるかもしれない、ということを期待しています。


第41章は、この部分だけでは意味が通りません。この前に、「自分ではどうにもならない悪いことが起こり、その原因は神だったり、ある他人だったら、神、またはその責任ある人びとに文句を言ったり、敵視したりするだろう。このことにおいて人は不正を犯してしまう」という様な文章があります。

それを受けて、「自分に責任があることについては、悪いことが起こっても、神とか他人に対して文句を言ったり、敵視したりすることはない」と続きます。

この個所もはっきりとした意味合いを感じるのではないのです。しかし、第5巻第25章に出てきた、「自分の問題なのか、他人の問題なのか」ということとの関連を感じるのです。

「神や他人がしたことに関して、それが良いことだったり、悪いことだったりしても、それにとらわれるな、自分が責任を持つことに集中せよ」、というニュアンスを感じます。

マルクス・アウレリウスがこの文章でどのようなことを言いたかったのか、私にはまだよく分りません。

「神や他人を責めるときに不正をおかしてしまう」、といいますが、人はどんなことをするときであっても不正や過ちをおかす(可能性がある)のです。

過ちを見つけたら、その時に修正すればいいのでしょうか。過ちを修正するときに、また別の種類の過ちをおかす可能性があるのです。

「過ちは人の常、許すは神の業」という言葉があります。私は神ではありませんので、「許す」ことはできませんが、「過ちは人の常」ということは肝(きも)に銘じておこうと思っています。

一般論として、「自分に責任があることに集中して、正しく実行する」ということは当てはまることが多いように思われます。他人の過ちを責めている暇はないのです。

「自分に責任があることに対してまず自分が誤らないようにする」ことが一番大事なことと思います。

まとめ

英語訳の本に赤線を引いた個所が、日本語訳を読んだときに比べてだいぶ多いというのは、次のような原因が考えられます。

1.日本語訳と比較する、という目的が意識の中にあったために、結果として多めに赤線が引かれた。

2,英文の場合、単語を知らない、などの理由で理解できないことがあったとき、理解できる範囲で考え、残りは推測することになり、その推測の際に、自分の関心のあることに結びつけてしまった。

3.たとえば第1巻のようなわかりやすい(ようにみえる)文章は、日本語ではサツと読み飛ばしてしまうのに対し、英語では単語を一つ一つ読み進めていく、という傾向がある。日本語訳を読む時に読み飛ばした部分も、英訳を読む時にはきちんと読むことにより、赤線個所が増えた。

4.上記の第3項に関連するが、大体において、英文を読むときには理解するに苦労するので、その分、集中して、時間をかけて読む事になり、新たな発見があった。

2~4は英文を読むときに通常発生することです。

日本語文を読んで理解するのと英語文を読んで理解するのとでは、私の場合はとんでもない違いがあります。

同じ内容を日本語文で読む時と英語文で読むとき、ざっくりと5倍から10倍の開きがあると感じます。おおよその内容が分れば良いときは5倍、厳密に理解しなければならないときには10倍です。厳密に理解しなければならないときの10倍というのはその差が小さいような感じもしますが、厳密に理解しなければならないときでは、日本語文を読む時でも注意・苦労が必要なのです。

さて、このような本を読むにはどういう方法がいいのでしょうか。種類の違う翻訳本を複数読むのがいいのか、英語訳も加えた方がいいのか。

同じ本を何度も繰り返して読むのが良い、という考え方もあります。同じ本を読んだときでも、最初に読んだときと2回目、3回目に読んだときとで、感じることが違ってきます。

ですから、違う翻訳でも同じ翻訳でも、何度も読んだ方が良い、ということに落ち着きそうです。特に優劣はなさそうです。


最後に

自省録の英訳を読んでみようと思ったのは、もともと、翻訳の種類によって感動・共感するところが違ってくるのだろうか、という興味からでした。英語訳の本を購入して読んで、日本語訳での感動・共感するところを比較しようと思ったのですが、そういう読み方はこの作品に対して、「失礼である、冒涜である」ということかもしれない、と思うようになってきました。しかしながら、もっとも強く感じたことは、この自省録という本の内容自身が(なかなかいい表現が思いつきませんが)素晴らしい、ということでした。このような作品が人から人へ、世代から世代へと読み継がれて1800年後まで伝えられた、というのはほんとうにありがたいことです。



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