日本語のあれこれ日記【58】
[2024/8/31]
かな書きと言っても、実例がなければピンと来ません。そこでいくつかトライしてみようと思います。
かな書きの方法は、いろいろと提案されているでしょうが、ここでは次の書き方を試してみようと思います。
●分かち書きを原則とする。
●ひらがな、カタカナの違いを積極的に使う。カタカナは従来の「外来語をカタカナで表記する」という方法を拡張して、漢語もカタカナで表記する。あるいは、名詞をすべてカタカナ表記する。
●二つ以上の言葉が連結した言葉は、"-"でつないで表記する。たとえば、東京都は「トウキョウ-ト」、国会議員は「コッカイ-ギイン」とする。人名は、姓と名を"-"でつなぐ。徳川家康は「トクガワ-イエヤス」のように書く。
「我輩は猫である」の冒頭は以下のような文章です。
【文例1】
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニヤーニヤー泣いて居た事丈は記憶して居る。吾輩はここで始めて人間といふものを見た。然もあとで聞くとそれは書生といふ人間中で一番獰悪な種族であつたそうだ。此書生というのは時々我々を捕へて煮て食ふという話である。併し其当時は何といふ考もなかつたから別段恐しいとも思はなかつた。
新書版漱石全集 第一巻 岩波書店 1978年12月 第六刷発行による
なお、原文に対し、縦書きを横書きに、旧字体は新字体に変えました。また、「じめじめ」、「ニヤーニヤー」の繰り返し部分は、踊り文字の「くの字点"〱"」が使われていますが、パソコンでは確実に表示できないこと、そもそも横書きに対応した「くの字点」はないので、言葉をそのまま繰り返して使っています。また、後々の比較のために、等幅フォント("MS ゴシック")を使用しています。
現代仮名遣いでの表記との違いが目立つところは、表記を変えて、少し読みやすくしたいと思います。
まず、拗音(にゃーなどのところ)や促音("あった"などの小さい"っ")は小さい文字を使用するので、そこを変えます。また、"頓と"や"丈"、"然も"、"此"、動詞の"居る"は通常はかな書きされるので、これを変え、動詞"いふ"、"食ふ"は活用語尾を"ワ行"に書き換えます。また"考"は"考え"のように"え"を省略しないのが通常の表現なのでこれも変えました
以下のようになります。
【文例2】
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考えもなかったから別段恐しいとも思わなかった。
文字数をカウントしてみました。
漢字 51 ひらがな・カタカナ 126 記号 12 空白 2
空白は段落の最初の字下げのところ、記号は長音記号や繰り返し記号("々")、句読点です。
パーセンテージては、漢字が27%、かなが66%、記号が6%、空白は1%です、一見したところ、漢字が半分くらいあるような印象でしたが、ずっと少なく、かなが全文字数の2/3と多かったのは意外でした。
さて、漢字を使わないとどうなるでしょうか。名詞をカタカナに、動詞、形容詞などはひらがなで表してみます
名詞のすべてをカタカナにするのか、漢語はカタカナにして和語はひらがなするのか、ということについては、悩ましいです。ここでは、漢語と和語の判別が微妙なこともあるということを考え、名詞の全てをカタカナにする、ということで進めます。
また、"人間中"のように、複数の言葉がつながって一つの言葉になっているものは、個々の言葉をハイフンでつなぐことにします。
かな表示なので、分かち書きにするのが常道でしょう。なお、"かな表示"とは漢字を使わず、ひらがな、カタカナ、英数字、各種記号を用いた表示を指します。
分かち書きのルールは難しいところがありますが、まずは単純に、単語の間に空白を入れるということにします。
【文例3】
ワガハイ は ネコ で ある。ナマエ は まだ ない。
どこで うまれたか とんと ケントウ が つかぬ。なんでも うすぐらい じめじめした トコロ で ニャーニャー ないて いた こと だけは キオク して いる。わがはい は ここで はじめて ニンゲン という もの を みた。しかも あと で きくと それは ショセイ という ニンゲン-じゅう で イチバン ドウアク な シュゾク であった そうだ。この ショセイ という のは ときどき われわれ を つかまえて に て くう という ハナシ である。 しかし その トウジ は なんと いう カンガエ も なかったから べつだん おそろしい とも おもわなかった。
一見して、空白が多く、間延びした印象です。特に、分かち書きの空白(ここでは以後、スペーサーと呼びます)が目立ちます。このスペーサーと句点、読点とが同じ文字サイズなので、本来は句点、読点は、スペーサーよりも切れ目としての働きが大きいにも関わらず、目立ちません。
そこで、スペーサーは半角としてみます。
【文例4】
ワガハイ は ネコ で ある。ナマエ は まだ ない。
どこ で うまれた か とんと ケントウ が つかぬ。なんでも うすぐらい じめじめした トコロ で ニャーニャー ないて いた こと だけは キオク している。ワガハイ は ここで はじめて ニンゲン という もの を みた。しかも あと で きく と それは ショセイ という ニンゲン-じゅう で イチバン ドウアク な シュゾク で あった そうだ。この ショセイ という のは ときどき われわれ を つかまえて に て くう という ハナシ である。 しかし その トウジ は なんと いう カンガエ も なかった から べつだん おそろしい とも おもわなかった。
行末処理に問題があるように思われます。単語の途中で次の行に移っているところがあり、読みにくくなっているのです。
ローマ字表記では分かち書きを採用します。単語と単語の間に空白を入れ、さらに単語の途中で行をまたがないようにします。
この「単語の途中で行をまたがない」というルールを適用します。
以下の様になります。
このウィンドウの横幅は、下記のかな表記のテキストの右側に十分なスペースが確保できるように調整願います。ウィンドウの横方向のサイズが小さいと、下記のテキストが途中で改行されて、ここで意図した表示にならない可能性があります。
【文例5】
ワガハイ は ネコ で ある。ナマエ は まだ ない。
どこ で うまれた か とんと ケントウ が つかぬ。なんでも
うすぐらいじめじめした トコロ で ニャーニャー ないて いた
こと だけは キオクしている。ワガハイ は ここで はじめて
ニンゲン という もの を みた。しかも あと で きく と
それは ショセイ という ニンゲン-じゅう でイチバン ドウアク
な シュゾク で あった そうだ。この ショセイ という のは
ときどき われわれ を つかまえて に て くう という ハナシ
である。しかし その トウジ は なんと いう カンガエ も
なかった から べつだん おそろしい とも おもわなかった。
まだ、間延びした印象が強いと感じます。
文字間隔を狭くしてみます。
【文例6】
ワガハイ は ネコ で ある。ナマエ は まだ ない。
どこ で うまれた か とんと ケントウ が つかぬ。なんでも
うすぐらいじめじめした トコロ で ニャーニャー ないて いた
こと だけは キオクしている。ワガハイ は ここで はじめて
ニンゲン という もの を みた。しかも あと で きく と
それは ショセイ という ニンゲン-じゅう でイチバン ドウアク
な シュゾク で あった そうだ。この ショセイ という のは
ときどき われわれ を つかまえて に て くう という ハナシ
である。しかし その トウジ は なんと いう カンガエ も
なかった から べつだん おそろしい とも おもわなかった。
ここで、最初に掲げた漢字かな交じりの表示を再度表示し、比較してみます。
【文例7】
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕へて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考えもなかったから別段恐しいとも思わなかった。
漢字かな交じり表記とかな表記とを比較してみます。
漢字かな交じり | かな |
吾輩は猫である。名前はまだ無い。 |
ワガハイ は ネコ で ある。ナマエ は まだ ない。 |
こうして比べてみると、目にしたときの印象の強さ、わかりやすさの差は明らかです。
「猫、名前、書生」などの名詞の意味するところのわかりやすさ、「獰悪」という漢字表現によってもたらされるイメージ、「捕へて煮て食う」の表現の生々しさ、このようなところは漢字という表意文字の特長がよく現われていると思います。
ただし、その特長は「読んだときに感じられる特長」で、そのためには膨大な時間を費やす漢字学習の、いわば犠牲の上に成り立っています。
漢字かな交じりの表記の強みは承知のうえで、それが漢字学習の負担に見合うものかどうか、これは、私にとってまだ了解できるところまでにはなっていません。
この負担は、私は主に次の2点に集約されると思います
(1) 漢字の学習においては、"読み書き"ができること。
(2) 計算機などで文章を入力する時、かな漢字変換機能を利用してかな・漢字変換を行うこと。
漢字が"読める"ことと、"書ける"ことを分けて考えると、どうでしょうか。漢字について"読めるが書けない"ということを考えてみたいのです。
ここで"書けない"というのは手書きができない、という意味です。
手書きでメモを書くとか、カレンダーに予定を書き込むとか、署名するなど、書く機会はなくならないと思います。
手書きする場合は漢字は書かずにかな書きのみとする、という状態は、私にはまだよく分かりません。
「漢字は読めるが、書くのは"かな"のみ」という可能性は、私の中では残っています。
では、漢字の学習において、漢字を書く事を除外したら、それはどういうことになるでしょうか。
次は私の経験に関することです。
このシリーズの記事で、「最近書けるようになった漢字の一つに"鬱"がある」と書きました。
その前まで、"鬱"の漢字は書けませんでしたが、読むことはできました。ですから、"憂鬱"、"鬱病"を読む事は難なくできました。
"薔薇"はまだ書けませんが、読む事はできます。
私には「読めるが書けない」漢字は沢山あります。このことから想像すると、書けなくても、読む事だけを学習するということは、充分現実的であるように思われます。
次に、(2)の漢字入力ですが、これは昔に比べて大変進歩した、と感じます。今後はAIをさらに利用することにより、さらに進化し、使いやすいものになっていくと予想されますから、懸念する必要はなさそうです。
漢字を「読めるが書けない」という状態は、それほど異常ではない、と考えています。
上で、「読めるが書けない」漢字は沢山あると書きました。
私にとって、英語でも似たような状況があります。
英語の文章を読んで理解することと、英語の文章を書くことは、様相がかなり違います。
英文で、単語の意味がおおむね分かる場合には、よほど込み入った構文でなければ、さほど苦労せずに理解できます。しかし、同等のレベルの英語の文章を書くことはかなり困難です。
"書ける"ことと"読める"ことは全く別物なのです。
ただし、日本語の場合と事情が異なるのは、日本語の場合、漢字という文字そのものが手書きすることが難しい、ということです。
英文の場合、文字はアルファベットの大文字・小文字、数字、各種記号を合わせても100文字に満たないでしょう。文字自体を書くことには問題ありません。
英文の場合、ほとんどの労力は文章の構成に使われます。日本語では文章の構成の他に文字自体を書くことの労力が大きいのです。
このことから、漢字が「読んで理解できるが書けない」というのは、一つの解である可能性があると思われます。
そして、漢字を書けるために必要になる負担を取り除くことができたら、漢字学習の負担は大きく軽減できると思います。
そしてこれは、日本語を学ぶ人々にとっても大きな負担軽減になります。
漢字を2000文字程度に制限することは、すぐに実施しても大きな影響は出ないため、実行に移されました。人名についてはもっと自由を求める人が多数出て、出生届けの窓口などで混乱が生じたため、たいぶ拡張されてきました。
大まかに言えば、日本の教育などでは、1000文字程度は書けて読める、2000文字程度は書けなくても読める、人名についてはさらに拡張を許す、というところで、現在は落ち着いているようです。
しかしながら、漢字学習の負担が大き過ぎることは明らかだと私には思えます。
新しく学ぶことがどんどん増えている現在、漢字教育、あるいは漢字のあり方は見直すことが将来において議論されるのではないかと思うのです。
私の現状の考えは、まだ確定したわけではありませんが、議論すべきテーマの一つに、「漢字は読めるが書けない」というレベルを考えていいのではないか、というものです。
上で、かな表記を見たように、私は「かな表記でかなりいける」のではないかと思っています。
その場合、今までの文字文化と切り離されてしまう、という大問題があります。端的に言うと、漢字を一切読み書きできない、とすると、過去に作られた膨大な数の文献や文学作品と断絶してしまうのです。
漢字教育を一切なくした世代の人は、日本語の文字のない世界と直面するのです。これは問題が大きすぎます。
漢字をなくして100年とか200年が経過すれば問題はなくなるという可能性はわたしも信じる気持ちが強くなってきました。漢字かな交じりの文章を読むには、専門教育を受けることになるのです。
でも、それまでの100年とか200年の間に生きていく人々の生活上の不便さは耐えられるものではないと思います。しかも、一旦漢字を捨ててしまうと、それにふたたび回帰することは非常に難しいものになります。
今までに蓄積された文字による文化遺産が意味のないものになってしまうからです。言い換えると文字による文化遺産がないという状態になってしまうのです。
また、100年とか200年とかの長期間の間には、漢字に対する日本人の考え方が変ってしまう可能性があります。
そのような見通しが難しいことの決断が可能とは思えないのです。
そこで、一つの折衷案が浮かんできました。
漢字を手書きすることだけをあきらめるのです。
漢字を「読めるが手書きできない」、という状態は、漢字を読むことはできるのですから、デメリットはかなり小さいと思います。過去の文字による文化遺産が有効なのです。
しかも、道具を使えば、漢字かな交じりの文章を作れるのです。
手書き漢字をやめれば、小学校で問題になっている、「はねるか、はねないか」などの問題はなくなります。また、学校での書道はなくなります。
ただし、漢字の手書きを教えずに、漢字の読みを教える、ということについて、どのような教育方法がいいのか、これは疑問のままです。
もう一つ分からないことは、他人とのコミュニケーションを文章で行うとき、漢字かな交じりの文章か仮名だけの文章か、ということです。
仮名だけの文章でも足りそうな予感がしていますが、LINEとか電子メールのやりとり、果ては業務用の公式資料などは主として機械入力するのですから、かな漢字変換機能を利用することで、漢字かな交じりの文章が少ない労力で行えます。
これからもずっと、漢字仮名交じり文を基本とするのか、新しく作成する文章はかな文字のみとし、将来的には漢字廃止に結びつくようにするのか、これは議論が必要です。
100年という長いスパンを考えると、いろいろな将来が考えられます。文字遺産にしても、少なくとも私の周囲に、100年前の文字遺産はないと言っても過言ではありません。100年前の文字遺産を取り扱う人は、ごく限られた研究者のみでしょう。