気まぐれ日記 40 江戸笑い話を読む―落語とのつながり


[2022/8/7]

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三遊亭円生さんの「しの字嫌い」

三遊亭円生さんの落語を収録したCDを図書館で見つけて聞いてみました。

「夏の医者」は、別の口演のものが、すでに私のミュージック・ライブラリに入れてあって何度か聞いています。内容がSF的で気に入っています。

「しの字嫌い」は若い頃に何度かテレビで聞いたことがありますが、最近は聞きません。もっとも最近は寄席関係の番組がないので、そもそも落語を聞く機会がないのは確かです。

でも、落語家がこの演目をやりたがらないのはある程度想像がつきます。

主人がいつも反抗的な下男をやり込めようと考え、「"し"といったら給金を出さない、自分も言わない」と言い、なんとか下男が"し"を言うように、いろいろと仕掛けるのです。

主人は自分が"し"を言わいようにな気をつけ、下男を"し"と言うべき場面に追い込んでなんとか言わせようとし、下男はそれをなんとかかわす、というストーリーが続きます。

このときに落語家が誤って"し"という音をどちらかの言葉としてうっかり言ってしまうと話が台無しになります。

ですから落語家はかなりの緊張感を保ちながら語らなければなりません。

最近のお笑いの世界は、アドリブを多用する傾向があり、つい言ってしまう危険性があるのです。

円生さんは人情話を得意とする人で、単純に笑いをとるだけのこのような話はあまりしないような印象を受けていたので、この録音を聞いて意外な気がしました。

もしかすると、上記のような難しさがあるので、かえって「だったらやってやろうじゃないか」とムキになって取り上げたのかもしれないですね。

ロジカル思考

この噺を聞いて、一つ疑問がわいてきました。

この噺は江戸時代にできたものだと思いますが、当時、このような問答が、つまり下男が主人に対し、理屈で言い返そうとするようなことが、現実にあるのだろうか、という疑問です。

「理屈で対抗する」と言ってもいわゆる"屁理屈"ですが、それでも一応は理屈が通っています。

主人に「煙草盆に火を入れろ」と言われて、下男の権助は「それはおかしい。煙草盆に火を入れたら燃えてしまう。煙草盆の中の火入れの中の灰の上に火を入れろ、と言わないとおかしい」と言ったり、「湯を沸かせ」と言われて、「湯は沸かす必要がない、水を沸かせと言うべき」などと言い返します。

この反論は本当は間違いですが、反論として"屁理屈"ではあっても、一応は理屈としてあり得ます。

「湯を沸かす」という表現は、「水を加熱して沸騰させて湯を作る」という意味を表す慣用的な表現で、日本語として正しいのです。逆に「水を沸かす」は日本語の表現としては不適です。「○○を××する」という場合、○○は××という動作の対象物の場合と、動作の結果として発生する生成物の場合の両方があります。

でも考えてみると、下男の権助という教養のないであろう人物が、主人の言葉尻を捉えて反論するというのは、かなり知性的な行動だと思われます。

「江戸時代って、こんな状況だったのだろうか、本当かなあ」というのが率直な印象でした。

そこで、図書館に行って本棚を眺めていたら、おあつらえ向きの本がありました。

岩波書店の日本古典文学体系の1冊で「江戸笑話集」というタイトルです。

小高敏郎校注 江戸笑話集 日本古典文學体系 100 岩波書店 1977年発行

この本は、現代語訳はありませんが、詳しい注があり、なんとかというレベルですが、読んでいくことができます。

江戸笑話集

この本は本文だけでも450ページくらいの分量があり、詳しく読んでいくのは骨が折れそうです

実際に読んでみると、すぐに理解出来るものは大変少なく、注を読んでようやくおもしろさが分かるものもありますが、注を読んで文章の意味はつかめても「それほどおもしろくないな」とか、注自体が、「これは○○ということなのだろうか」と意味不詳で投げ出していたり、さまざまです。

もともと江戸時代のことなので、現代の立場では理解できないことがあります。

そこで最初から一通り読んで(注は読みますが)、すぐに内容がすぐに分かって、かつ興味がわいた作品をピックアップしてみました。

さて、興味の中心である「理屈をこねる」作品はたった一つでした。

落語に出てくる人々は、基本的に気が短く、理屈を言うと嫌われる、というものですから、当然と言えば当然です。

ピックアップしたのは15の話でした。

なお、原作は江戸時代に出版された8作品で、以下のようなものです。

きのふはけふの物語
鹿の巻筆
軽口露がはなし
軽口御前男
鹿の子餅
聞上手
鯛の味噌津
無事志有意

以下、この本の記載順に15の話について内容のあらましを書いてみます。現代語訳がないので、私が理解したことを、しかも大幅に要約した形で書きます。

原文を読み取るのは結構骨が折れます。頭注に頼ることはもちろん、時にはネット検索が必要だったりします。そこで原文はここでは載せないことにします。

なお、個々の話の個別の題名はあったりなかったりします。題名がある場合は[]でくくって示し、ない場合には作品番号が()内に書かれているので、それをそのまま使いました。また本書のページ番号(p.xxxと表示)で区別することはできます。

1.【きのふはけふの物語】p.114 (5) 理屈をこねている唯一のもの

ある出家が捨て子を拾い、育てて経を教えようとしたが、ちっとも覚えない。養い親の言うことも聞かず、しかったところ、文句があるなら代官所でもどこでも訴えたら良いというので、訴え出た。

子供の反論はこういうものだった。

一つ、養って"人にしてやった"ということだが、自分は馬の子、牛の子ではない、最初から人の子であるから、"人にしてもらった"という恩は感じない。

一つ、経を教えたというが、全く覚えていないので、教えてもらったものはそっくり返したのと同じである

一つ、死んだらこの寺の後継者にする、と言うが、寺に関係する人は自分以外にはない。養い親が生きている間に寺を継がせるというならともかく、死んだ後は自分以外に寺を継ぐ者がいないのだから、特別な恩はない。


一面ではこれは立派な理屈です。

笑い話集に載った話という事を考えると、頓知が効いている、ということになるのでしょうか。

だれかを養って育てる、という場合、結果としてこのようなケースも起こりうる範囲として認める必要があるのでしょう。

2.【きのふはけふの物語】p.125 (29)

ある若者の病が重く、もう助からないとわかり、念者が「この若者のあの世の道行きが心配なので同行してあげたいので、棺桶を大きく作り、自分を一緒に入れてもらいたい」と言った。いろいろもめたが、結局その通りにして、いよいよ火がかけられた。すぐに中から声が聞こえてきた。「ふたを開けてくれ、言いたいことがある。まず火を消してもらいたい。死ぬことは平気だが、とにかく煙くさくてたまらない。まず小便してから遺言をいっておきたい」


これから死ぬ者が、「煙くさくてたまらない」とか、「まず小便をしたい」とか、全くのちぐはぐなことをいうのが面白いです。

3.【きのふはけふの物語】p.140 (62) 美容整形の話

ある男の妻が非常に美人だった。これを見た知り合いがこう言った。「たった一つ欠点があるのが惜しい。女は目が大きいのが本当に美しいと言われているが残念ながら細すぎる。当世の南蛮治療(原文では南蛮療治)がよい。カミソリで目尻を切り開いて、いま評判の塗り薬をつけると傷が消えて目が大きくなる」。男はこれを聞いてその塗り薬を買い求め、言われたとおりに妻の目尻を切り、塗り薬をつけたところ、傷は治るどころか悪くなる一方で、とうとう失明した。


驚くのは、これは現代の美容整形と同じで、こんな時代にそのようなことがあったということです。ちょうど南蛮貿易の一つとして西洋医術が入ってきたという時代背景があるようです。

ここで言うところの"南蛮治療"について頭注に次の様に書かれています。

今流行の西洋流の外科。南蛮療治は、安土桃山時代、我が国に渡来した南蛮人(多くはオランダ人、他にポルトガル、スペイン人)が、布教の方便として伝えた医学だが、殊に外科をいう。

日本で広く行われていた漢方による治療では、外科的な治療はないので、西洋医術の外科的な治療は評判になったのでしょう。

それが美容にまで広がっていた。時期的にこの原著がいつ発行されたのかは明確ではありませんが、江戸時代の仮名草子の一つとされている(本書の解説による)ので、その当時、庶民がこれを読んである程度納得したか、すくなくとも驚くことはなかったのでしょう。

というのは、目尻を切開して云々と言われ、疑うことなくしているのです。それほど突飛なこととは思わなかったのです。

4.【軽口露がはなし】p.260 [人より鳥がこわい]

誰かが畑を耕すところに通り合わせた男、「何を蒔くぞ」と聞くと、「声が高い。低く、低く」というので、これはさぞかし舶来ものの貴重な種を植えているのだろうと思い、近づいて小声で聞くと「大豆を蒔く。(小声で言うのは)カラスや鳩が聞くかもしれないから」。


これは、私が聞いたことのある先代(五代目)三遊亭円楽さんの「目黒のさんま」の枕に出てくる話とそっくりです。

それは次のようなものです。

「世の中のことを知らないと言えばなんといっても殿様です」という語り出しから、殿様の無知ぶりをいくつか披露するのですが、その一つです。

殿様―「三太夫、重要な相談事がある。しかし、壁に耳あり障子に目ありである。神奈川沖に船を出せ。」
三太夫、早速船を出して沖までいく。
殿様―「実は屋敷の畑に豆を植えようと思うがどうじゃ」
三太夫―「殿、そのような話は屋敷にても良いのでは」
殿様―「いや、鳩に聞かれてはまずい」

これは、「軽口露がはなし」を題材にアレンジしたものかどうか分かりません。またアレンジとしても、江戸時代あるいは明治時代頃にこのアレンジされた形での話が作られたのか、円楽さん自身が「目黒のさんま」の枕のために自らアレンジしたのか、それも分かりません。

「壁に耳あり障子に目あり」を引き出すために円楽さんは、江戸幕府が外様大名を積極的につぶす政策をとり、大名の動向を隠密に探らせていた、そのために「壁に耳あり障子に目あり」といわれて警戒される状況になったと説明しています。

江戸幕府が外様大名をつぶす政策についても、○○、○○などは徳川将軍家に取り立てられて大きくなる一方、○○、○○などは江戸幕府ができるまでは有力な大名だったが目をつけられてつぶされていった、と実に細かいのです。

上記の「鳩に聞かれてはまずい」を引き出すまでに、さまざまなエピソードを組み入れています。

江戸幕府が外様大名をつぶす政策云々、と言っているので、すくなくともその部分は江戸時代につくられたものではないのでしょう。しかし、少しずつ話がふくらんで円楽さんの話のような内容になったのかもしれません。

いずれにしても、「鳩に聞かれてはまずい」というオチはなかなかのできだと思います。

5.【軽口御前男】p.309 [まがひ道]

占い師がY字路でどちらに進むべきか迷い、通りかかった牛飼いに道を聞く。牛飼いに「占い師なんだから、自分で占ったらどうだ」と言われ、「占ったところ、通りかかるはずの牛飼いに聞け」ということだった、と答えた。


これに類する話はどこかで聞いたことがあります。

占い師をテーマにすると、いろいろな形でこの種の笑い話ができます。

占い師のくせに…という場合、たとえば○○のことが分からなかった、けがをした、などの時、占いの通りにしたのだ、とか、なるに任せよという占いが出た、とか、いろいろなパターンがつくれます、

小咄として、実によくできていると感心します。

6.【軽口御前男】p.339 [貧乏神]

ある貧乏寺では、他の寺が秘仏などを開帳して多くの参詣人を集めているのがうらやましくてしょうがない。自分の寺には開帳して見せるような宝物(ほうもつ)がない。そこで一計を案じて開帳の高札を立てた。
いわく、当寺に代々伝わる貧乏神から託宣が出たので、いついつから開帳する。ご参詣ない方にはこちらから訪問するであろうとのお告げだった。


これも落語の小話か何かで聞いたことがあります。「参詣するとよいことがある」といって呼び込むのではなく、「参詣しないとまずいことになる」と脅す形です。

たいへんわかりやすいストーリーです。

寺に神がいるというのは今ではちぐはぐですが、江戸時代では一般に神仏混淆でしたので当時は違和感はなかったのでしょう。

また、江戸時代では独立してやっていけない貧乏寺が沢山あったので、この話はリアルなこととして受け止められたのでしょう。

頓知話の一つです。

7.【鹿の子餅】p.352 [牛と馬]

ある人、「けものは爪が割れていると足が速い」という。聞いていた一人が「馬はツメが割れていないが足が速い」というと、「割れていないから人が乗れるのであって、もし爪が割れていたら飛ぶように速く走るのでとても人が乗れるものではない」。さらに「牛は爪が割れているが足が遅い」と聞くと、「もし爪が割れていなかったら、足が遅すぎてまるで歩かないだろう」


どんなことでも言い様はあるということで、いわゆる言い訳占いと同じですね。占いにより「家に松の木があるだろう」と言われ「松の木はない」というと、「なくて良かった。あったらとんでもない不幸が訪れるだろう」と逃げる、あの話です。

「どんなことでもたいていのことは言い逃れできるものだな」と共感します。

これも頓知話と言えますね。

8.【鹿の子餅】p.358 [剣術指南所]

ある家の前に「諸流剣術指南所」という看板が出ていた。侍が一人入って、指南を願いたいと言うと、中から出てきた人が「看板を見たのですか」というので「そうだ」と答えると、「あの看板は盗人の用心のための見せかけです」


これも単純明快な、よくできたオチです。

今流に言えば、看板はフェイクだったという話です。

どんなものでも、本来の働きがある場合と、それとは全く別の役目がある場合があるのですね。

「剣術指南所」とは、剣術の指南を願う人を呼び込む効果と、盗人がそこを敬遠する効果の両方があるのです。

「文字通り」という場合と、「文字通りとは全くかけ離れた」場合です。

これを区別するために、「文字通り」という言葉があるのでしょうね。

9.【鹿の子餅】p.375 [相撲場]

相撲の興行を見たいが金がないので、囲いのすきまからむりやり入ろうと頭を入れると、中の監視人が「これこれ、そこは入り口ではない」と押し戻された。一計を案じて今度は尻を差し入れると、「これこれ、そこは出口ではない」と中に引き込まれた。


これも聞いたことがあります。

小咄としてよくできていて、これは海外のものかと思っていたのですが、日本でできた話なんですね。

外国語に翻訳しても、笑い話として十分通じるのではないでしょうか。相撲場は、たとえばサーカスが開かれているテントとか、少し変更が必要でしょう。

このように、一瞬で笑いが分かるものはいいですね。

10.【鹿の子餅】p.378 [貸雪隠]

ある社は大変人気があり、参詣人が多数押し寄せるが、行き来の途中に雪隠(トイレ)がなくて皆不自由をしていた。ある男、そこに目をつけ、貸雪隠を作ったところ、多くの人が使い、その男は大もうけした。それを聞いた男が自分もやってみようと言い出したので、女房が人のまねをしてもだめだろうというと、いや、いい考えがあるという。二番目の男は自分の貸雪隠をつくり、大もうけしたと帰ってきたので、女房が最初の貸雪隠はどうしたのかね、と聞くと、男、俺が一日中入っていた。


これはうまいやり方ですね。でも現実問題として考えると、いろいろ疑問がわいてきます。

そもそも貸雪隠はどうやって料金を取っていたのか。

今日のように自動で料金を取るのはできないので、管理者が一人ずつ受け取っていたとすると、一日中入っていようとしても、管理人に追い出されるでしょう。

無人で、小銭を入れる箱を置いておくとすると、それが盗まれる可能性があります。

実際、落語ではスリとか、こそ泥、押し込み強盗とかが登場しますから、無人の所に銭箱を置いたら、盗み出すやつが出てきそうです。

また、この方法は一日しか使えないでしょう。売り上げが急に減った最初の男はどうしてかを調べるでしょうから、二日目はうまくいきません。

このように問題はあるにしても、この話を聞くと「ああ、なるほど、うまいことやった」とすぐに反応します。

11.【鹿の子餅】p.381 [通小町]

小野小町と深草の少将との伝説をパロディ化したものです。ただし、小野小町と深草の少将の名前は出していません。

公家の姫君に恋し、100日通って来たら逢ってあげましょうとの言葉を喜び、通いに通い、99日目の晩、姫の方から「一晩くらいはおまけして今夜お会いしましょう」ということを腰元に伝えたので、訪れた男に腰元が、姫様がお会いしましょうとのことですと伝えると、「いや、それはちょっと」などとためらっている。何をしているのかと言うと、「私はただの日雇いです」という答え。


女のところに通うのに日雇いを使うという、これもフェイクの通いです。通った証拠は車の踏み台に一つずつ傷をつけていくということなので、代理でもかまわないわけです。

女にしたら、自分に惚れ込んだ男が代理人で済ませるということは想定外でしょう。本人が必死で来るはず、と思うでしょうね。

もっともこれとは別のストーリーも可能で、その日雇いは99日目に本人になりすまして、言われるままに姫とちぎりを交わしてしまうということにしても良さそうです。100日目には本人が来るので、一晩だけですが。

いや、それでは、身なりとか動作、言葉遣いとかで、すぐに正体がばれてしまうのかもしれません。

100日通ったらあなたの思いを本物と認めましょう、とのことですが、男の私が考えると、100日はつらいですね。三ヶ月と十日。一日も休まずですから、他の女の所に行くのも難しい。もっとも、他の女の所に行くような男は相手にしない、ということなのでしょうね。

100日間毎日通えば、この素晴らしい女性が自分のものになる、と思えば、頑張りますかね。

この話のベースになった深草の少将の話は伝説で、つまり作り話ですから、まともに取り合うのは意味がないので、深入りはしないことにします。

12.【鹿の子餅】p.383 [押込]

押し込み強盗が、小さな店に入ってもたいしたものはとれないから、大店(おおだな)を狙うことにし、忍び込むと、押込だ、という声がして出てきた手代、下男などを出てくれば縛る、又出てくれば縛り、と続けていると、いつまでたっても終わらず、とうとう夜が明けた。


この話とよく似た話を八代目桂文楽さんで聞いています

大店を狙った押し込み強盗、まず一番番頭を縛り、次に二番番頭を縛り、三番番頭を縛り、五番番頭、十番番頭、二十番番頭、三十番番頭、四十番番頭、五十番番頭、六十番番頭、七十番番頭、八十番番頭、九十番番頭、九十一番番頭、九十二番番頭、そして九十九番番頭を縛ったところでとうとう夜が明けた。

この文楽さんの話の方が格段に面白いです。

文楽さんのあのぴんと張り詰めた高い調子の声で、一番番頭を縛り、二番番頭を縛り、と語るのがとても印象的でした。

あくまで想像ですすが、文楽さんの話も、この笑い話が基になって、それらアレンジしたのでしょうね。誰がこの形に仕上げたのかは分かりません。

江戸時代の江戸の町の人々はみんな早起きで、夜明けとともに起き出していましたから、夜が明けたらもう終わりでしょうね。すぐに逃げるしかない。

13【聞上手】p.402 [大牛]

「おらはゆうベ牛を夢に見た。さても大きな牛もあるもんだ」「どれほど大きいんだ」「あの、暗闇ほどさ」。


面白さで言うと、これはさほどではありません。

興味をそそられたのは、五代目古今亭志ん生さんが語った小咄で、これに似たものがあり、あの七代目立川談志さんがそれを激賞していた(テレビで聞いています)、というエピソードを聞いているからです。

すでにこのサイトでも、別の分類で取り上げています。小咄というのは次のようなものです。

「でっかいナスの夢を見た」、「どれくらい大きいんだ?何々くらいか」、「いやいや、そんなものじゃない」、「じゃあ何々くらいか」、「いやいや、そんなものじゃない」、「一体どのくらい大きいんだ」、「暗闇にヘタを付けた様だ」

志ん生さんの小咄の基になったのがこの大牛の話かどうか分かりません。

この記事で取り上げた笑い話のうち、すでに触れた[人より鳥がこわい]と、[押込]は、落語の枕、あるいは落語で語られる小咄の元ネタかもしれないと書きました。

これら三つは、この笑い話をアレンジしたものだとすると、いずれも実にうまいアレンジですね。原作よりもアレンジの結果の方が遙かに良い出来だと感じます。

14【無事志有意】p.482 [欲しい物帳]

むかし、ある男が"欲しい物帳"と名付けた書き付けを持っていた。中には、「たばこ入れとキセルは銀、羽織は八丈、帯は博多織」などと書き付け、「女房は近所の器量よしのおひな、めかけはおさく」、とまで書いてある。何度もこれを見返しては喜んでいた。あるとき、同じようなことを書き付けているという男を見つけ、互いにその帳をみて比べていると、どちらにも女房はおひな、と書いてある。「おひなは俺の女房だ、さてはおまえは間男だな」、「おまえこそおれの女房のおひなの間男だ」とけんかになる。大家が中に入り、帳を見比べてみる。「こちらはおととしに書き付けた物だが、こちらは去年書き付けた物だ。だから新しい方が間男だ。間男は謝罪として七両二分を払うことになっている」。慌てる男にに対して、「わしが知恵を貸す」といい、片方の帳に「出金 七両二分 ○○へ」と書き、もう一つの帳には「入金 七両二分 ××より」と書いた。


どうせ書いてあるだけのことだから、何でもそれで済ましてしまうということですね。

頭注に「現行落語『気養い帳』の原話」とあります。ネットで検索してみると、名作落語大全集というサイトに『気養い帳』を書いた記事がありました。それによると、「三井、鴻池、岩崎などにいくらいくら貸してある」などという大言壮語的なことが書いてあるというもので、この"欲しい物帳"のイメージとはだいぶ違った物のようです。

貸したと書いてあるだけで、取り立てたりはしないので、差し支えなかろう、という態度です。

『気養い帳』でのオチは次のようなものです。貸したと書いてある一つの店の手代がこの話を聞き、「あなたに借金はないはず」と言う。「勝手に書いただけです」との答え。「それなら利息をつけて返したことにしましょう」と手代が言うと、「分かりました。利息込みで返済済みと書いておきます」。

この話の成立の事情について触れられていて、次の様に書かれています。文章をそっくり引用します。

文化(1807)4年、喜久亭寿暁のネタ帳『滑稽集』に「ほしい物帳」とある。小噺程度のものであったというが、これを柳家小さん(3)が明治の頃に時代に合わせた改訂をして作り上げたものらしい。

江戸時代の笑い話を、後世においてアレンジするということは、よく行われていたようです。

まあ、こういうネタはいろいろと作れますね。


「欲しい物帳」で間男云々という所は、なかなかうまい展開だなあ、と感心しました。

15.【無事志有意】p.487 [百夜草]

小野小町と深草の少将との伝説をパロディ化したもので、本記事では上記のNo.11 [通小町]に次いで2つ目です。こちらでは、本文中に小野小町と深草の少将の名前を具体的に出しています。

深草の少将が、百日の願いが叶わず、九十九日目の晩に思い死にしたとの知らせを受けて、小町についている女中が小町に「少将殿がお果てなされました」と伝えると、小町は局を呼び、「これ、惚れ帳を出して、少将どのの所は消ておきや」。


小野小町は絶世の美女とされていますから、言い寄る男も複数(多数か)いたのでしょうね。

惚れ帳に書いて整理しておかないと訳が分からなくなる、ということでしょうか。

なにしろ、交信の手段は手紙だけですから、手紙が誰からいつ来たか、を記録しておかないと、誰が熱心なのか、誰がさほどでもないのか、取り違えてしまうのでしょう。

何日間連絡が途絶えたら、かつて熱心だった人には小町の方からどうしているのか問い合わせる、とか、熱心さが足りなかった人には直ちに惚れ帳から消す、とか、モテる人は大変です。

大体において、昔の人は記録を丹念につけていたようです。

個人の歌集で、誰々にこのように書いて送ったところ、このように返してきた、というように書かれているときがあります。

こちらから送った手紙は相手方にあるので、相手から返事が来たときに、どのような内容に対しての返事なのか、対応がつきません。

多くの場合、こちらから手紙(たいていは和歌が書いてある)を送ると、届ける役目の人は返事(これも和歌のことが多い)をすぐに書いてもらって持ち帰るので、対応はつきますが、こちらから送った歌の内容は正確に記録しておかなければ、当人が後で思い出すこともできませんし、後世に残ることもありません。

"惚れ帳"のような物かどうかはさておき、なにがしかの記録(=帳)は作ってあるのが普通なのでしょう。


小野小町と深草の少将との伝説をパロディ化したこれらの二つについては、出来に関しては私は引き分けかな、という印象です。

"日雇い"というアイディアはなかなかの物ですし、"惚れ帳"というものを持ち出すアイディアもこれまた良いできです。


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