気まぐれ日記 39 鴨長明 無名抄 この国の小国にて


[2022/1/3]

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方丈記の本を手に取る

前回の記事で「終活の一つとして始めた本棚の本の整理がなかなかはかどりません」と書き出し、「方丈記、無名抄の本」について書きました。

菊池良一 村上光憲 坂口博規編 方丈記 無名抄 双文社出版 1994年6月 4版

それとは別に、この本に関して、もう一つの記事を書こうかどうかと迷っていました。どうも気になるので、今回取り上げます。

この本では、何カ所かに付箋をつけています。その中で、特に形が長く、濃いピンクで目立つ付箋がついてあるところがありました。

特に気になったので、目立つ付箋をつけたのだと思います。

方丈記ではなく、無名抄の一節です。

六九 近代古躰

この国の小国にて人の心ばせの愚かなるにより、もろもろのことを昔に違へじとするにて侍れ。

私なりに現代文にすると、次の様になります。

この国はせこい国で、人々の考えが愚かであるために、いろいろなことについて、昔のやり方と違わないようにしよう、とするのでしょう。

この前のところで、「中国では文体が何度も変わってきた」といっているので、中国に対して日本のことを"小国"といっているのでしょう。

それにしても、「人の心ばせの愚かなる」とは何たる言い方でしょう。

この六九の段は、対話形式になっていて、そのために表現が過激に、言い換えると自分(鴨長明)の考えが相手に伝わりやすいように、ということから、誇張した表現となっていると思われます。

それにしても、何たる言い方でしょう。

この国はせこい国で、そこに住む人々は愚かだ、と。

日本をこきおろす

このようなことをしているのは、メジャーな作品、あるいは高く評価されている日本人の中では珍しいと思います。

日本というのではありませんが、日本を代表する景観の富士山にたいしてけなしている作品があります。

たしか、金子光晴の詩の一節に、「ちっぽけでつまらない富士」という一節があったと記憶しています。(*1)

高村光太郎は、留学先のフランスから帰国するとき、船が日本に近づいて富士山が見えたとき、「きれいだが小さい」という印象を書いています。(*2)

ただし、高村光太郎というなら、これを取り上げるべき、という作品があります。

「根付けの国」という詩の中で「猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人」といっているのです。これはすでにこのサイトでも取り上げています。

もっとも、海外からの帰国の時、という条件を出すなら、私でさえ同じような印象を抱いたことがあります。

唯一の家族海外旅行となったアメリカ西海岸(ロサンゼルスからサンディエゴの範囲のみですが)からの帰り、成田で飛行機から降り、マイカーに乗って自宅に帰るときに、アメリカで目にした広い道路、広い宅地、高い建物に対して、日本の普通の住宅地に見られる狭い道路や宅地、低い建物がずっと続く景色を見て悲しくなった経験があるのです。


ここで取り上げた無名抄の文章は、「日本人は愚かだ」と書いたというよりは、「昔のやり方と全く違わないようにしなければいけない、と主張する人がいたら、(その)人は考え方が愚かだ」と書いた、というように理解すべきなのでしょう。


備考

(*1) 追記 [2022/1/8]

「富士」と題された詩では、以下です。

(現代日本文學体系 67 金子光晴他 集 筑摩書房 平成12年1月 pp.17-18 より)

重箱のように
狭つくるしいこの日本。

すみからすみまでみみつちく
俺達は数へあげられてゐるのだ
(中略)
息子のゐないうつろな空に
なんだ、糞面白くもない
あらひざらした浴衣のやうな
富士。

(*2) 追記 [2022/1/8]

詩集「典型」の中の「反逆」という題の下の副題「親不孝」という詩の冒頭は以下です。

(高村光太郎 日本の詩歌10 中公文庫 中央公論社 昭和49年9月 p.351 より)

狭くるしい檻(おり)のやうに神戸が見えた。
フジヤマは美しかつたが小さかつた。

追記 [2022/1/30]

「この国の小国にて…」というところですが、次の作品で言及されていることに気づきました。

堀田善衛 定家明月記私抄 ちくま学芸文庫 筑摩書房 2008年11月 第四刷

「明月記欠」という一節です。

ただし、本書は明月記という日記を最初から順序立てて論じており、明月記の記載が何度か中断しているところに対しては、「明月記欠」という節を立てています。

本書の目次を見ると、p.64に「明月記欠」、p.98に「再び明月記欠」、p.268に「明月記欠」と、計3回にわたって"明月記欠"ということばを含む節を作っています。

ここで取り上げるのはその最後のものです。

参考までに、一部を抜粋しておきます。

(前略)新古今集のもっとも重要な編者として、家のものとしての家学をほぼ確立しえたことの自信にも基くのであろう。芸術が家のものとなったりしたのでは、といった考え方は近世以降のものである。けれども、少くともそれが家のものになったりしたのでは、爾今独創を欠くものとなることは当然自然であり、存続だけが自己目的化していく。縄張り文化集団の成立であり、それは日本において、この後に来るあらゆる文化事象を蔽って行くであろう。俳諧、連歌、茶、能、花道等々、すべてがこのパターンを取る。存続だけが自己目的と化することにおいて、天皇制もまた例外ではない。鴨長明ならば次のように批判するであろう。

「この国小国にてひとの心ばせ愚かなるによりて、もろもろの事を昔にたがへじとするにてこそ侍れ」(無名抄)

なお、上記の"もろもろ"の後半の"もろ"は踊り字で書かれていますが、本サイトのような、ディジタル化した、しかも横書きの文章では表現が難しいので、かなに変更しました。

この部分は、私としては、「ついて行けない」という感がします。日記の記述が欠けていることの理由について、ずいぶんと想像をはたらかせており、俳諧、連歌はともかく、能、花道、さらには天皇制まで言及しているのです。

著者(堀田善衛)が長年思っていたことを、明月記の一節、しかも、書かれなかった事に関連させて、「"つい"吐き出した」という印象です。

ところで、この「明月記私抄」もまた、本棚の本の整理のために読み返していて、赤線を引いていたところがあったので、無名抄のこの「この国の小国にて…」の一節を引用していることに気づいたものです。このように、本の整理はなかなかはかどりません。


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