気まぐれ日記 30 百人一首のマックミラン訳 その3


[2015/8/4]

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百人一首のマックミラン訳 再調査

百人一首のマックミラン訳(*1)については、このシリーズの最初の記事その次の記事で、私が気になったことについて書きました。その後、原著などを調査しましたので、報告します。

今回、主に参照したものは、「百人一首のマックミラン訳」の原著(*2)ならびに、同じ著者と関係するオフィス・メンバーなどによる児童向け解説本(*3)(以下、"大図鑑"と略称する)です。

「百人一首のマックミラン訳」の原著は、探すのに苦労しました。まず茨城県の県立図書館、市町村立図書館を検索してないことが分かりました。近くの大学2校の図書館にもなし。今までの経験では千葉県立図書館にはたいがいの本が見つかりましたが、この本はなし。栃木県立図書館にもなし。ようやく、神奈川県立図書館と横浜市立図書館にあることがわかりました。何となく栃木県の宇都宮市立図書館で検索すると、おもいがけず見つかりました。茨城県の筑波大学図書館でも見つかりましたが、大学の図書館の場合、研究室に置いてある、というケースが結構あり、大学が夏休みの今の時期では見つかるかこころもとない気がします。宇都宮市立図書館であれば高速で1時間半くらいで行けますので、こちらにしました。栃木県民ではないので本の借用はできず、館内での閲覧のみとなりました。児童向け解説本の方は茨城県内にもありますが、宇都宮市立図書館にもありますので、あわせて閲覧しました。

山をどう訳すか

このシリーズの最初の記事でこの件に触れましたが、今回は以下に述べる「いなばのやま」の1件以外には進展はありませんでした。

「いなばのやま」については、"Mt. Inaba"と訳されていますが、これは「いなば山」という固有の山の名前ではなく、「因幡の国の山」ではないかと思ったのでした。今回、大図鑑において、「鳥取県の稲葉山」という記述を見つけ、他の百人一首の解説書を見ると、「稲葉山」という記述がありました。この件について明解に述べてありました(*4)部分を引用します。

現代語訳:あなた方と別れ、因幡の国へ行きますが、稲葉山の峰に生えている「松」という言葉どおり、私を待っていると聞けば、すぐにでも私は帰ります。

注の「いなばの山」の項:単に因幡の国の山という説もあるが、今は鳥取県(因幡)にある稲葉山とされている。「往く」の変形「往なば」もかけられている。

これによると、「いなばの山」とは「稲葉山」という具体的な山の名前、とするのが現在の主流の考え方のようです。私が目にした解説文は古いのでしょうか。

ただし、マックミラン訳において、Mt. Inabaが「稲葉山」とすると、「因幡の国」が出てきません。「稲葉山」という説をとる本でも、私が見た2冊はともに「因幡の国」という言葉が入ります。"Mt.Inaba in Inaba Province"といわなくていいのかが疑問です。因幡の国に赴任する際に見送りに来た人に歌った歌とすれば、「因幡の国」ということは言わなくても分かる、ということでしょうか。

「いなばの山」であれば「因幡の国」と「稲葉山」の両方を連想することができますが、"Mt. Inaba"では「稲葉山」しか連想できないのではないでしょうか。

cascadeとfall

進展なし

15 君がため春の野に出て

原著と大図鑑からは進展なし。「百人一首鑑賞」(*5)では、「この歌は、現在若菜を摘んでいることとして詠まれている」と書かれており、現在のできごとを表現した歌、という解釈です。マックミラン訳で過去形とした点については進展なし。

17 ちはやぶる神代も聞かず

進展なし

23 月見ればちゞにものこそかなしけれわが身一つのあきにはあらねど

進展なし

52 明けぬれば暮るゝものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな

新しい情報は見つかりませんでしたが、マックミラン訳を何度も読んでみると、新しい読み方が浮かびました。

訳文はこうです。

As the sun rises
I know that when
it sets at night
I can see you again.

これを次のように理解するとスムーズに意味が入ってきます。

As the sun rises
I know that
when it sets (and)
at night I can see you again.

"and" を補っていますが、"when it sets" で切り、"at night" は次の "I can see you again." にかかる、と考えるのです。こうすると、「日が沈むのがいつなのか(夕方である)」と「夜になればまたあなたに会うことができる」ということを「私は知っている」ということになります。ただし、この解釈にそれほど自信があるわけではありません。

60 大江山生野の道のとほければまだふみもみず天の橋立

進展なし。

63 今はたゞ思ひ絶えなんとばかりを人づてならでいふよしもがな

進展なし。

74 うかりける人を初瀬のやまおろしよはげしかれとは祈らぬものを

大図鑑に解説の文章がありました。以下の引用において振り仮名は 便宜上(*○○*)のように表記しました。

初瀬(はつせ)[Hase]
奈良県桜井市初瀬(*はせ*)のことで昔は「はつせ」と呼ばれていました。観音菩薩像をまつる長谷寺(*はせでら*)で有名な土地です。英訳では「Hase(初瀬(*はつせ*))」としています。

訳文はこうです。

At Hase, I prayed to Kannon...

Haseとしてしまうと、長谷の観音に祈った、という意味は伝えたことになりますが、「初瀬の山おろしよ」の「初瀬」がなくなってしまいます。長谷の観音は「初瀬」という土地にあるわけですが、「初瀬(はつせ)の山おろしよ」と呼びかけている、その対象がうたわれないことになってしまいます。「初瀬」という固有名詞が訳されていないことはどうしても理解できません。この訳は原文にこだわらずに、その意味を伝えることに重きを置いている、ということなのでしょうか。

ここで26番の歌を思い出しました。

小倉山峯のもみぢ葉心あらば
Mt. Ogura,
if you have a heart,

元歌では「小倉山の峯のもみぢ葉よ」と呼びかけているのですが、マックミラン訳では「小倉山よ」という呼びかけになっています。「小倉山の峯のもみぢ葉よ、おまえに心があるのなら」というのが、「小倉山よ、おまえに心があるのなら」と変わっているのです。呼びかける相手が「小倉山」なのか「もみぢ葉」なのか、という違いは、翻訳という点からは同一視できないと思うのですが、これも"意を伝える"ことに重きを置く、ということの表れなのでしょうか。

参照した資料

(*1) 英詩訳・百人一首 香り立つやまとごころ マックミラン・ピーター著 佐々田雅子訳 集英社新書 集英社 2009年3月

(*2) One Hundred Poets, One PoemEach -- A Translation of the Ogura Hyakunin Isshu PETER McMILLAN Foreward by Donald Keene Columbia University Press Paperback Edition, 2010

(*3) 英語でよみとく百人一首大図鑑 監修 ピーター・ジェイ・マクミラン 監修・翻訳協力 マクミラン・オフィス, ショーン・バーク 古典監修協力 原田香織(東洋大学文学部教授) ほるぷ出版 2015年3月

(*4) 知識ゼロカラの百人一首入門 有吉保監修 幻冬舎 2007年11月

(*5) 百人一首鑑賞  窪田章一郎編 東京堂出版 1976年12月



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