気まぐれ日記 28 百人一首のマックミラン訳 その2


[2015/7/14]

次のページに進む  前のページに戻る  古典文学に戻る  ホームに戻る
このテーマの次の記事に進む  このテーマの前の記事に戻る

はじめに

一つ前の記事で、この英語訳の本(*1)について、主として山や丘といったものに関して書きました。今回はその続編で、前回取り上げなかった内容を取り上げます。繰り返しますが、以下は、私が今後、解決していくべきことを記録するために書いておくものです。

cascadeとfall

私はいままで、日本語の"滝"に相当する英単語として、"fall"と"cascade"があり、前者は日光・華厳の滝や那智の滝などのように、水が一筋に落ちるもの、後者は傾斜が大きく岩がごつごつしている表面を滑るように流れていくもの、たとえば尾瀬の平滑の滝や群馬県の吹割の滝のようなもの、と教わりました。したがって、"滝"といえば、"fall"であるか"cascade"であるか、のどちらかであると。

ところが、この英語訳では、その二つが同じ歌の中に組み込まれています。次の2首です。

13 筑波嶺の峯より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりける
Like the Minano River
surging from the peak
of Mt. Tsukuba,
my love cascades
to make deep ponds
below the falls.


55 滝の音は絶えてひさしくなりぬれど名こそ流れてなほきこえけれ
The waterfall, dried up
in the distant past,
makes no sound at all,
but the fame
of the cascade
flows on and on,
can still be heard today.

13番の歌では、"cascade"は動詞ですが、"fall"(水が落ちる)のではなく、"cascade"のように水が滑るように流れる、というものでしょう。"falls"の下に滝壺を造る、というところで、"cascade"が"fall"に変わっています。英語ネイティブの世界では、"fall"と"cascade"は厳密に違ったものというわけではなく、言い換えもできる、というものなのでしょうか。

55番の歌では、まず、訳のうまいことに感動します。前半で"makes no sound"としながら、後半では"can still be heard today"など、原作に忠実でありながら、歌意がよく伝わって来ます。

ただし、よくわからないのは、前半では"waterfall"が後半では"cascade"になっているのです。ここでも、"cascade"と"fall"は言い換えができるような印象です。

15 君がため春の野に出て

15 君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつゝ

最後は"つゝ"ですから、今雪が降りかかって来ています、ということだと思うのです。つまり、若菜を摘んでいる最中のこととして読んでいる。

しかし、英語訳では、

For you,
I went out to the fields

となっています。この歌は「摘んできた若菜を差し上げる」際に詠んだ歌、とされています。英語訳も、「さきほど野に行って若菜を積んでいた時に雪が降りかかってきたのですよ」と、過去の事象を詠んだようになってしまいます。もちろん、時間軸を変えて訳してもいいのですが、そうする効果が分かりません。原歌は、若菜を摘んでいる時に詠んだ、という形になっているので、たとえば、

I came out to the field

のように、「今、この野に出てきて」というようになるのではないでしょうか。"field"として複数形にしなかったのは、「さきほど野にでて若菜を積んできた」、というのだったら、「あちこちの野を回って良い若菜を選んで採ってきた」、のかもしれませんが、歌を詠んだ瞬間はある特定の野にいるのだから、単数形になるのではないか、と思ったのです。ランダムハウス英和大辞典(*2)の "field" の項には、「a wheat field 小麦畑」、a rice field 稲田」、「an open field 広々とした野原」などと、特定の範囲の原のような場所を単数形で載せています。

17 ちはやぶる神代も聞かず

the almighty
gods of old

この部分については、読んだ瞬間に、「あっ、これはないでしょう」とおもいました。日本の神は、"almighty gods"ではありません。そもそも、一神教ならalmightyということもあるでしょうが、almightyの神が複数いる(godsと複数形)というのもおかしい。複数の神を全部を合わせるとalmightyである、とするのも無理でしょう。"三人寄れば文殊の知恵"でしょうか。日本の神は時に失敗します。失敗してやり直したりします。病気になったり、嫉妬したり、と、almightyではないのです。

たとえば、"age of gods"とすれば、ギリシャ神話やローマ神話の神も想像する人々に対しては、少し日本の神に近づくでしょう。

英語圏の読者に伝わるように、ということでalmightyを入れたのでしょうか。何かの意図があるのでしょうが、私にはわかりませんでした。

23 月見ればちゞにものこそかなしけれわが身一つのあきにはあらねど

Looking at the moon,
thoughts of a thousand things fill me with saddness―
but autumn's dejection
does not come to me alone.

上三句は「月を見ていると、悲しい思いがいろいろとこみあげてくる」と、平凡な内容です。これに対して、下二句でそれをさらりとかわして、「その悲しみをもたらした秋は、自分ひとりに来たわけではないけれど」とまとめます。「秋は、自分ひとりに来たわけではない」というのは、意味としては当たり前すぎていますが、それがかえって悲しみを誘います。「あらねど」というところで余韻が続くのです。直接的な意味としては、上下を入れ替えて、「わが身一つのあきにはあらねど、月見ればちゞにものこそかなしけれ」ということでしょう。

英訳では、第三句までをダッシュ(―)で結んで下二句につないでいますが、"but"ではうまくつながらないような気がします。

「秋は、自分ひとりに来たわけではない」は、「もちろん、『秋は、自分ひとりに来たわけではない』ということは私はわかっているけど・・・・それでも悲しさがつのるんだよ」、と、上三句を回想します。あるいは「もちろん、『秋は、自分ひとりに来たわけではない』ということはわかっているよ」と付け加える感じです。"but"では、「『秋は、自分ひとりに来たわけではない』、だから、『そんなに悲しむのはおかしいね』」というつながりになってしまうのではないでしょうか。これでは前三句で言ったことが否定されてしまいます。

"however"なら、「たしかに、『秋は、自分ひとりに来たわけではない』のだけれど」というニュアンスは出ますが、でもまだ物足りない。ここは、逆説の表現ではなく、"Of course"が一番いいように思います。もちろんわかっているのだけれど」というわけです。さらに"I know"とも言いたい。"Of course I know autumn's dejection does not come to me alone." これでは文章が単純すぎますかね。

52 明けぬれば暮るゝものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな

As the sun rises
I know that when
it sets at night

上三句の部分ですが、二つの点でどうにもわかりません。 "when" と "at night" です。

"when" ですが、どうしてここにあるのでしようか。夜の"いつ"日が暮れるのか知っている、というのはおかしい。多分考え方が違うのでしょうが、どうにも分からない。"when" がなければ、「夜があければ、やがて日が暮れる(あの人が来てくれる)、という事はわかっています」と理解できるのですが。

もうひとつ、"at night" です。「evening と night は、単純に夕方と夜、ということではないよ」と教わってきました。たとえば、「夜遅くまでパーティーが続いた時、その間はずっと evening ですよ」ということです。"it sets at night."は書き変えれば、"The sun sets at night." です。日が沈むのは "evening" ではないのでしょうか。手元の辞書を引くと、少しずつ違いますが、おおむね以下の様な感じです。

"evening" とは、日が沈んだとき、とか、仕事を終えたとき、から、寝るまで、または夜遅い時間まで、つまり "night" の前まで
"night"とは、基本的に寝ている間

ですから、日が沈むのはどう考えても "at night" ではありません。

では、"暮るゝ"は男の来訪を期待できる時を示しますが、それは"evening"なのか、"night"なのか、これは私には判断が付きません。が、遅い場合には"night" に及ぶのは確かのようです。髪に霜が降りるまで待っていた、とか、月が西に傾くまで待っていた、などの表現がありますから。

60 大江山生野の道のとほければまだふみもみず天の橋立

How could my mother
help me write this poem?

このような掛け言葉が詰まった歌を訳するのは本当に大変だとは思いますが、それとは別のところで、一つ分からないことがあります。

"this poem"。これは何のことでしょうか。この歌は歌合せに提出する歌を母に作ってもらう、あるいはヒントをもらう、ということに対して反論しているという趣の歌ですが、"this poem"では、小式部の内侍のこの歌ということになってしまうのではないでしょうか。想像をめぐらすと、歌合せに提出する歌を、いま短冊か何かを左手に持って書いているところで藤原定頼にからかわれたので、その反論として歌われた、とすると、"this poem"はここにあらわれた「大江山」の歌ではなく、そのときに書いている途中だった歌、と考えることはできそうです。が、書いている途中でからかう、ということがあるのでしょうか。その時の言葉として、「歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしてけんや、つかひまうでこずや、いかに心もとなくおぼすらん」(歌はどうなさいますか、丹後へ人を使いにやりましたか、使いが帰ってこないのですか、どんなにか心配でしょうね)、という言葉からは、歌を書いている途中、という可能性は少なさそうです。おそらく"うかない"顔をしていた小式部内侍を見て藤原定頼がちょっとからかった、というくらいではないでしょうか。

"this poem"ではなく"the poem"であれば、"(ほかでもない、あなたもご存じの)今度の歌合せに提出する歌"というように感じられるのですが。

(注)この歌の番号を誤って63 としていましたので 60 と修正しました。(2015/8/4)

63 今はたゞ思ひ絶えなんとばかりを人づてならでいふよしもがな

I want to tell you myself―
we can never meet again!

英訳は最後のところです。「私の口から直接言いたいのです。私たちはもう二度と会うことができません」というニュアンスと感じます。

そのところで言いたいことは、「私たちはどういう状況にあるのです」なのでしょうか。「私は」ではないのでしょうか。「私はあなたのことはあきらめましょう」と、"私の決心"を言いたい。もちろん、意に反してのことですが、周囲の反対には抗しがたく、あきらめるのです。わたしなら、"I will never see you again!"(私は二度とお会いしないと決めました)とか、"I can never see you again!"(私は二度とお会いすることはできません) などが浮かびます。どうでしょうか。これでは品が下がるでしょうか。最初の"I"はできるだけ強調したいですが、"I"という細長い1文字だけなのでどうやっても目立ちませんね。

74 うかりける人を初瀬のやまおろしよはげしかれとは祈らぬものを

At Hase I preyed to Kannon

"Hase"。"初瀬"ではなかったかしら。句の区切りを入れると「うかりける/人を初瀬の/やまおろしよ」となります。長谷観音のあるところは、「初瀬」、「長谷」などとかかれ、さらに、「初瀬」と書いて「はせ」とよんだり(*3)、「長谷」と書いて「はつせ」と読んだりするようです。倭名類聚抄(*4)では、「大和国城上郡」に「長谷」の記載がありますが、その下に「波都勢」との書き込みがありますから、読みとしては「はつせ」でしょう。また「初瀬」を"はせ"と読んでしまうと第二句の文字が足りません。「うかりける/ひとをはせのや/まおろしよ」にはなりませんから。句の先頭以外に母音がある場合には1文字多くなってもいい、という、規則とまでは言えないかもしれませんが、数多くの例があります。しかし文字が足りない、というのはありません。ですから、ここは"はつせ"で動かないと思います。

参照した資料

(*1) 英詩訳・百人一首 香り立つやまとごころ マックミラン・ピーター著 佐々田雅子訳 集英社新書 集英社 2009年3月

(*2) ランダムハウス英和大辞典(→参考文献について)

(*3) コンサイス地名辞典 -日本編- 三省堂 1975年1月

(*4) 中田祝夫解説 倭名類聚抄 元和三年古活字版二十巻本 勉誠社 1996年3月31日 第四刷

その他 新版 百人一首 島津忠夫=訳注 角川ソフィア文庫 角川グループパブリッシング 2008年7月 各歌の解釈について参照



[ページの先頭に戻る]参考文献について