言葉遊び トップ 10
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今までに目にしたり、聞いたりした言葉遊びです。
特には書いていませんが、この文章を日本語で書いているように、日本語の言葉です。英語だったら・・・・できませんね。ただし、今回のトップ10では、ひとつだけ海外のものがありますが、その言語を知らなくてもおもしろさがわかる物です。
世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなしブンブ(文武)というて夜も寝られず
松平定信の寛政の改革を皮肉った狂歌です。高校の日本史の時間に教えられたと思うのですが、これを読んで、うまいこと言ったもんだなあ、と感心してしまいました。
蚊ほど、という言葉の裏に、かほど(これほど)ということばを隠し、蚊の羽音の"ブンブ"という音がうるさいと読んでいる裏に、文武振興の強制に反発する気持ちを隠しています。
いや、「隠して」、と書きましたが、ここまであからさまだと、わざとわかるように当てつけた、というレベルですね。
この世の中で、こんなにうるせいものはないぜ、文武だ、文武だ、と騒ぎやがって、夜もおちおち寝られやしねえじゃねえか。江戸の町の人々の声が響いてきます。もっとも、文武と言っているので、対象は武士でしょうね。町人に対して文武を勧めるはずがありませんから。
またまた定信の寛政の改革です。田沼時代から寛政の改革へと大きく時代の振り子を揺り戻した変革は、それほど大きな影響を及ぼしたのでしょうか。
狂歌から二つをとるとすると、江戸時代に限らずに探しても、これになリました。もっとも、私が知らないものでうまい、というものもほかにあるのでしょう。
どちらも寛政の改革を皮肉るものなので、それがよほど嫌われたのか、偶然、できの良いものが二つできただけなのか、わかりません。
田沼時代に対して、これを否定して正反対の政策をとった定信が白河藩主であることから、田や沼の濁った水のイメージに対して、きれいな水が流れるイメージの"白河"を対比させるうまさが光ります。こんなにきれい一辺倒はいやだ、昔の濁っていた田沼時代が良かった、と。
当時であれば、白河と言い、田沼と言えば、松平定信と田沼意次とすぐにわかってしまいますから、あからさまに皮肉った、という感じがします。
年号の語呂あわせはたくさんありますが、ダントツに良い、と思うのがこれです。
「以後よく来る宣教師」の部分は「以後よく広まったキリスト教」とか、「以後よく学べキリスト教」いうものもあるようです。
年号の語呂あわせではほかに、1192年に頼朝が幕府を開く、ということに対して、「いい国作ろうと頼朝幕府を開く」、また794年の平安遷都について「泣くよ坊さん平安遷都」を覚えています。
1192年は、昔は鎌倉時代の開始という意味合いで考えられていたのですが、最近は、守護地頭を置いた1185年を鎌倉時代の始まりとする考え方が強くなって、ちょっと重要度が低くなってきています。「いい国」というのは悪くないですが、征夷大将軍となって幕府ができたとしても、実質的には全国の支配者としてすでに権力機構が確立してしまったあとで、朝廷が頼朝政権の実力を後追いで認めた、というだけであり、1192年に「いい国を作ろう」と事を起こしたものではないですから。
また、794年は、昔は、奈良の都が仏教勢力が強くなっていたのを嫌って平安遷都した、という説明を受けていたのですが、その間には長岡京があり、桓武天皇はいったん長岡京に移り、その後平安京に移った、という事を考えると、平安京について「(平城京の)坊さんが都が平安京に移って泣く」という表現に物足りなさを感じます。
こんなことにムキになってもしようがないですけど。
漢字の書き方の語呂あわせでは、これしかありません。
戀(恋)について、"いとしい、いとしい、という心"と表現するのはぴったりです。
この種のものでは、櫻(桜)についての「二階(二貝)の女が気に(木に)かかる」も有名ですが、櫻に対して「二階の女が気にかかる」という文章が直接に対応するものではありまません。
√(2)を「ひとよひとよにひとみごろ(一夜一夜に人見頃)」とか、√(3)を「ひとなみにおごれや(人並みにおごれや」などどいう苦心作がありますが、やはり、√(2)、√(3)との関連性がないのでここでは選びません。
辞書(dictionary)に対して「字引く書なり」は、意味合いがきちんと合っていてなかなか良いできだと思いますが、「いとしいとしと言う心」にはかなわないと思います。
フランスの小説家ビクトル・ユーゴーが新作本の売れ行きについて出版社に問い合わせた時の手紙とされています。
?:今度の作品の売れ行きはどうだろうか?
!:売れ行きは絶好調!
英語のサイトで検索してみようと思い、"Victor Hugo shortest letter"のキーワードで米国を対象に検索すると、この逸話がたくさん見つかります。その一つの記事を読んでみると、「実は私も夫に「?」と一文字だけのメールを送ることがあり、「いまどこ?」とか「いつ帰るの」という意味なんだけど、いつも通じているみたい」というようなことが書かれていました。
このような省略した言い方はどこにでもあるようです。
私が昔小学校時代に習った国語の時間に、方言を取り扱ったものがあり、その中で、「どさ」「ゆさ」というものがありました。「どちらに行くのですか」「湯(銭湯)に行くところです」という会話です。寒い地方では長い会話は避けるのでこのように短くなっている、という説明だったような記憶があります。日本語では最も文字数の少ない会話の一つでしょう。場合によっては「どう?」、「だめ」なんていうこともあり得ますね。入学試験の結果発表を見に行った人に対して、「結果はどうだった?」、「ダメだった」というものです。
最も短い英語の文章は、"Fire!"だと聞いたことがあります。「火事だ」と叫ぶ場面です。感嘆詞なら、"Oh"とか"Alas"とかがありますが、そういうものを除いた"文章"としてはこれだということらしいです。
これを読んだときに、まあ、なんてうまいことを、とすっかり感心してしまいました。完成度が高いのです。無理がないのです。
5句のすべてに来(く)という動詞を入れて、しかも意味がすっと通る。
この歌はすごく気に入っていて、今私のサイトを検索してみると、すでに3つの記事で使っていました。もっとも、2番目と3番目はシリーズの記事ですが。
このたぐいの歌でほかに私が知っているものの代表作は、和泉式部と伊勢大夫との歌のやりとりです。和泉式部集930/931にあります。
930 思はんと思ひし人と思ひしに思ひしごとも思ほゆるかな [和泉式部]
931 君をわが思はざりせばわれを君思はんとしも思はましやは [返し 伊勢大夫]
930番歌の第5句で「思ほゆる」は"思う"の活用形ではなく、別の動詞のようですが、語源としては"思う"から変形したものですから、この歌では"思ふ"という動詞が5句のそれぞれに使われている、といっていいでしょう。931番歌では"思う"は3句に使われていて、残りの2句、第1句と第3句では"君をわが"と"われを君"を対比させています。
これはこれですごいと思いますが、それでも万葉集527番歌の"無理のなさ"には追いつけないと思います。
"甲府ぃ"という落語の落ちの所に出てきます。まさにこの言葉で噺が終わります。
この物語は、甲府に住む男が江戸に行って一旗揚げようと考え、身延山に願掛けをして江戸に出てきて、いろいろな事があってめでたく豆腐屋の主となれたので、甲府の親類に嫁を紹介するとともに身延山に願をほどきに行こうと旅立つ朝のこと、近所の人から"どちらへ"と聞かれて、いつもの豆腐とがんもどきを売りに行くときのかけ声の「豆腐、ごま入りがんもどき」に引っかけて「甲府、お参り願ほどき」といって落ちになる、というものです。
"とうふ"と"こうふ"、"ごまいり"と"おまいり"、"がんもどき"と"がんほどき"、と、3つの言葉がそれぞれ1文字だけ違っていて、全く別の言葉になっていて、それで全体としてちゃんと筋が通っている、というものです。単なるだじゃれが落ちになっている落語はいろいろとあるのですが、3つの言葉がきれいにそろって掛詞になっている、というのは珍しいと思います。
そして、ポイントは、言葉のつながりがスムーズだということです。
これは三題噺でしょうか。たとえば、願掛け、ごま、豆腐屋という三題が与えられて作ったという感があります。願掛けから身延山が導かれ、豆腐屋とごまがつながらないところは"がんもどき"にごまを入れる、という事でつながりを持たせ、願掛けをして江戸に出てきて最初に豆腐屋に奉公する(偶然ですが)、さらに豆腐から甲府、甲府から身延山に持っていく。ごまと豆腐屋をつなげるのに、ごま入りがんもどき、というところはちょっと強引な気がしますが、全体としてはとてもうまいと思います。
この記事の最初の二つの系列になります。同様に日本史の時間に教わったものだったと記憶しています。
ある人の家系をたどると元は草履取りだった、という、豊臣秀吉の事を題材にした一見何でもないような作品ですが、"さる"が信長の家来になってまもなく"猿"とあだ名をつけられた、というエピソードを盛り込んでいるのだそうです。
こういうさりげないものもいいですね。この記事の最初の二つとか、7番目のように、練りに練った、という印象があるのと正反対の行き方です。
これも難しい言葉に対して、その特徴を見事に捉えた良いできです。
どういうことかというと、フルトヴェングラーというドイツ系指揮者がいました。20世紀3大指揮者の一人です(ほかの二人はトスカニーニとワルター)。
この人の指揮棒の振り方に特徴があって、曲の始めの音のときにはオーケストラの各メンバーが同時に音を出せるように気をつけて指揮棒を振り下ろす必要があるところ、この人は指揮棒をブルブルふるわせていていきなりドーンと振り始めるので、音の出だしがそろわないという定評があります。
そこで、フルトヴェングラーが指揮棒を振ると(フルト)、オーケストラのメンバーが面食らう(メンクラウ)という訳です。
フルトヴェングラーという日本語になじみがない言葉に対して、その人の特徴をよく捉えながら言葉としてうまく語呂あわせしています。
最近の作品ではダントツだと思います。
レーガン米大統領の政策であるレーガノミクスになぞらえて、アベノミクスと言い始めると、誰なんでしょうか、"安部のみクス"と、つまり、安倍総理だけが喜ぶ政策という訳ですかね、うまくやじりました。