気まぐれ日記 4


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[2012/5/2] 古文での動詞「来(く)」 -続-


一つ前の記事で、次のように書きました。

万葉集(527) 来(こ)むといふも来ぬ時あるを来じといふを来むとは待たじ来じといふものを
もっとも、こんな込み入った例文は辞書にのせるわけにはいかないですね。


そのあとで、図書館に行く機会があり、「来(く)」について古語辞典を見ると、実に、この歌が例文としてのってました。

それだけで驚きですが、それだけではありません。その取り扱い方に食い違いがあるのです。

「来(く)」について、現代語での「来る」にあたる第一の語義と、現代語で「行く」に当たる第二の語義をあげているのは共通しています。
そして、この歌について、現代語で「来る」という語義の例文とする場合と、現代語で「行く」という語義の例文とする場合の両方があるのです。


こういう具合です。

●角川古語大辭典  中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編

第一の語義として、現代語の「来る」をあげ、「空間的にこちらに近づく」、と説明し、この歌を例文としています。

●古典基礎語辞典  大野晋編

第一の語義として、現代語の「来る」をあげ、次に、第二の語義として、「話題の中心となるところに接近する。話し手がそこにいるのに準じた表現・・・・」をあげ、その例文としてこの歌をのせています。

この辞書には、現代語の訳語が書かれていません。しかし、次にあげる辞書の説明のように、これが「行く」に相当することは明らかです。

●角川 全訳古語辞典  久保田淳・室伏信助編

第二の語義として、「(視点を相手側において、自分がそちらに)行く」とあります。


この歌には、「来」が5回出てくるので、そのどれに着目するかでこのような食い違いが出るのでしょうか。
あるいは、歌の解釈が異なるのでしょうか。

いずれにしても、これを読んだ人は、5回の「来」の何番目のことなのか理解に苦しむでしょう。

私としては、やはり、 "こんな込み入った例文は辞書にのせるわけにはいかない" ですね。


考えようによっては、例文とは、その語の理解を助けるという効果だけでなく、例文を通じてその作品に対する興味を呼び起こす、という効果を期待するものなのかもしれません。
それなら、このような(わかりにくいかもしれないが)"魅力的"な文を載せることに意義があるでしょう。



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