日本語のあれこれ日記【75】

別日本語―その1―日本語の別の形

[2025/3/26]


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浅はかで、無謀で、破天荒な試み

このところ、ずっと、漢字の導入は、よかったのだろうか、という疑問を抱えながら、記事を書いてきました。むしろ、記事を書きながら、そのような疑問が徐々にわいてきた、というのが正確なところです。

もちろん、漢字の恩恵がどれほどあったか、という事は忘れてはいません。これははっきり書いておきます。

なぜ漢字が日本に入ってきたのか。

文字を持たなかった日本にとって、漢字という文字を持ち、先進的な文明が花咲いた国が、人が日本との間を往復することが不可能ではない位置にあったからです。

それはある意味で、理想的だったと言うことができます。

日本という国が、周囲を海に囲まれているところから、外国から直接的な侵害、圧迫を受けにくく、その一方で、人の往来によって文化を導入することが可能であったからです。

朝鮮では、中国と陸続きであるため、大人数の軍隊の流入が可能であり、直接的な侵害、圧迫を受けやすいのです。常ににらまれている状態が続きました。

日本はこの点で有利でした。

ここで、別の見方をすると、日本にとって、中国が近くにあったということについては、日本は何も寄与していません。中国にとって、日本があろうとなかろうと、近代以前においては、大きな影響は受けていません。中国の歴史は日本の存在に関係なく進んできていました。

日本にとっては違います。日本の近くに、偶然、中国という国があって、日本は大きな影響を受けたのです。

現実の歴史を離れて、空想の世界へ

中国の存在が偶然だったのですから、偶然、日本の近くにギリシャ・ローマ文明があったなら、日本という国はかなり違ったことになっていただろう、と考えることも不可能ではありません。

日本が海に囲まれているということを前提にすれば、ギリシャ・ローマ文明から直接的な侵害、圧迫を受けにくい、ということは変りません。

文化の流入については、現実の歴史において、中国の場合のように、日本に対して起こったのではないでしょうか。

ギリシャ・ローマ文明における文学、美術、哲学、宗教、言語などが日本にもたらされ、また文字も、漢字とまったく異なる表音文字が流入したことでしょう。

この場合、日本はどうなっていたか、ということを考えるのは、まるで、見当違いで、ばかげていて、実用的な意味がなく、浅はかなことです。

たとえば、文字については、漢字が中国から入ってこなかったらどうなっていたか、という事を考えるのは、漢字が日本にもたらされて以来の1500年ほどの日本の歴史を無視していることになります。

このことは重々わかったうえで、それでも考えてみようという気持ちが、どういうわけなのか分りませんが、わき上がってきたのです。

そうかといって、文学、美術、哲学、宗教、言語などの緒分野がどうなっていたか、などということは、どんな初歩的な範囲に限定しても、私の手に負えることではないということは当然です。

ですから、文字にしぼって考えてみたいと思います。

現実的にどうするか

いくつかの前提を想定します。

(1)漢字が流入したのは、1世紀とか3世紀とか5世紀とか、説がいろいろあります。このころに日本に、ギリシャ・ローマの文字がもたらされたとします。

(2)文字が流入したときには、日本では、口語に限ってですが、かなり整備されていた、と考えます。まとまった文字の記録は、古事記、日本書紀という歴史書と、万葉集がありますが、すでに、動詞・助動詞・形容詞の活用とか、助詞の使い方、果ては係り結びや枕詞などの修飾機能が、かなり安定して使われていることが認められます。これらは漢字があってはじめて出現したものではなく、漢字が入ってきたときにはすでに成熟していたはずです。

(3)文字が流入したときに、どのような言葉が話されていたのか、という事については、なかなか分りません。名詞については古辞書を参考にすることができるでしょうが、動詞、形容詞、助動詞、助詞などは記載されていません。最大の問題は、余りに大量の言葉を扱うのは、私の手に余ります。そこで、あまりにも滑稽かもしれませんが、現代語の基本語を、漢字の影響を除いて考えてみることにします。そしてその基本語を、中学生用の和英辞典に収録された単語、とします。

これは、あまりにも極端なやり方だと思うのですが、実現可能であるという点を最大限に重視した結果です。大体において、現代語が使われている時代に、はじめて文字がもたらされた、というのは、ムチャクチャな設定です。

とりあえず、やりやすいことから手始めににやってみよう、というものです。

(4)流入する言語は、漢字が流入した時代のギリシャ・ローマの言語のはずですが、私がそれについて、わずかでも知っているはずがない、と開き直って、現代英語と接した、とします。これもムチャクチャですが、英語の多くの言葉の語源をたどると、この時代の言葉に行き着くだろうから、「当たらずとも遠からず」だろうという期待に頼っています。

新しいシリーズ

以後は、いままでと記事のつながりが変るので、新しいシリーズとして、「別日本語」というタイトルで記事を書いていくことにします。


まるっきり仮定の話であり、どのような効果も期待できません。勝手に妄想の世界を進んでいきます。

あくまでもお遊びと割り切っています。


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