日本語のあれこれ日記【71】
[2024/12/5]
ここでちょっと、今までの経過を振り返ってみます。
いままで、漢字がどのような問題を持つのか、漢字を廃止したらどういうことになるのか、などのことを考えてきました。
このシリーズの3回目の記事のなかで、「自分の中で内部検討をすっ飛ばして、思いついたことを書き並べています。これには次の理由があります」と書きました。
このシリーズの記事も、すでに16回をこえましたので、少し、世の中を見てみようと考えました。
漢字をやめて、ローマ字表記にする、という主張をしていた公益社団法人「日本ローマ字会」が、2023年3月に解散した、という記事がありました。本拠地が京都にある、100年以上の歴史をもつ組織が解散したということです。
その記事の名で、「東京の『日本のローマ字社』は公益財団法人として活動を続けている」という表記があったので見てみると、活動は"X"(元Facebook)で報告されているようで、私は"X"のidを持っていないので、読む事ができませんでした。
今、漢字廃止の活動はほとんど消えてしまいました。
私自身、ここでいろいろ書いていますが、漢字廃止は不可能と言っていいレベルであることは、はっきり認識しています。
ただし、予想に反して、かな書きは「なかなかイケル」と感じたので、私なりに考えてきました。
医学や法律などの専門分野以外であれば、かなり「イケル」と感じたのです。
そうかと言って、一斉に回れ右をして、漢字廃止に向かうか、というと、それはとても無理、といとうことです。
「我輩は猫である」という小説があります。この小説の書き出しが、まさにこの文章になっています。
この英語訳は、私が目を通した本(*)では、"I AM A CAT."でした。全部大文字なのは、書き出しの1文は大文字で書く、ということにしたためでしょう。なお、表紙では、"I Am a Cat."という表記でした。
(*)NATSUME, SŌSEKI; translated by Aiko Itō and Graeme Wilson I Am a Cat. Rutland/Vermont & Tokyo/Japan CHARLES E. TUTTLE Co. 1991 21st printing
漢字かな表記、かな表記、英語訳の3種類をならべてみます。
「我輩は猫である」
「わがはいは ねこである」
"I am a cat."
私が受ける印象は、かな表記は、漢字かな表記よりも英語表記の方に近い、というものでした。
「わがはい」とすると、「我輩」という、「自信満々にふんぞりかえった」、いかにも「オレ様は いいか、猫なのだぞ」とでもいうようなニュアンスが、きれいさっぱりに抜け落ちてしまっています。
英語表記では、単に「私は猫です」という理解しかできません。
「わがはいは ねこである」と書くと、「私は猫です」という印象に近いものになる、と私は感じます。
つまり、かな表記とは、夏目漱石の小説は、原文を読むのはとても無理であり、現代語訳で読むしかない、というようなことになります。
たとえば、平安時代の文学作品は原文で読むのは難しいので、現代語訳で読む、というのが少なくありません。世の中には、現代語訳の本がいろいろとあります。
とくに平安時代の文学作品をじっくり読んでみよう、と思う人は、原文に対して注釈がついた本を選ぶでしょう。
注釈付きの原文と現代語訳は、かなり違うと思います。
ですが、すでに、平安時代に生きた人々がこの様な作品を読んで感じるのと、現代人が注釈付きの原文を読んで感じるのとを比べたら、これまた大きな違いがあると思われます。
同時代に生きた人々が感じる内容は、時代が変ってしまったら、たとえ原文を読んでも感じ取れないことがいろいろと出てくるでしょう。
そのような落差は受け入れる以外に方法はありません。
夏目漱石の小説をかな表記で読むと言うことは、このような事になってしまうのだ、と思います。
それはさみしい、とか、情けない、とか言う人もあるでしょう。
でも、年月が過ぎると、理解度はどんどん低下してしまいます。
外国文学を日本人が日本語訳で読むとき、「我輩は猫である」を、"I am a cat."というレベルでしか理解できないのです。
ですが、それなりに、作品のすばらしさは通じます。
随分昔のことですが、トルストイの「戦争と平和」の英語版を何ページか読んだことがあります。
ロシアの貴族たちの会話がフランス語で書かれていると聞いたことがあったからです。その本は英語訳でしたが、その貴族の会話の部分はフランス語になっていました。その部分に英語訳が付いていたかどうかについては記憶がありません。
フランス語で書かれた会話部分を読んでわかる人には、貴族たちの会話は、より"生き生きとした"イメージを感じとることができるでしょう。
著者の思いは、文字にした時点でかなり抜け落ちます、それを同時代人が読むと、さらに一部が欠けて理解されます。ずっと後の時代の人が読めば、伝わる内容はさらに小さくなります。外国語訳にすると、さらに伝わる量が減ります。
"抜け落ちる"とか"減る"と書きましたが、実はそれだけでなく、異物が混入します。
それでも、素晴らしいと感じられるものが名作となるのです。
夏目漱石の「我輩は猫である」という作品を"かな表記"で読んだとしたら、理解する内容がどれだけ損なわれるだろうか、と考えても、答えは分りません。
"かな表記"に慣れたら、読むスピードはそれほど違わないのではないか、とは思います。
タイトル、そして冒頭の1文である「我輩は猫である」を「わがはいは、ねこである」とした場合の違いですが、大きな違いは「我輩」と「わがはい」の違いでしょう。
実際に読んでみると、「我輩」という"えらそうにふんぞりかえった"イメージは、ないといっていいくらいなのです。そのように私は感じます。
実に身軽にあちこち出かけて、人間を観察します。時々、「われわれ猫属と比べて人間どもはしょうがない生き物だ」というようなことを言ったりしますが、それほど重要な位置づけではありません。
人間観察が主体なので、猫との比較は大きくはないと思います。ですから、かな表記しても、名作であることには変わりがないでしょう。
では、川端康成の「雪国」はどうでしょうか。
「雪国」という漢字2文字から受ける印象として、冷たい、とか寒い、というイメージは、「ゆきぐに」と書いた時点でかなり薄まりそうです。
ですが、全体的に"柔らかな"表現は、かな表記でも十分伝わるような気が、私には、感じられます。
ここで茶々を入れるようなことになりますが、初めから仮名表記であったなら、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という書き出しで、「国境とは"くにざかい"と読むのが正しい」という論争などは起こらなかったでしょう。
「国境をコッキョウという無粋な読み方は川端康成が思うはずがない」、とか、川端康成に近い人が「国境をコッキョウと読んでいるんだよ、イヤになるよ」と本人が言っていた、などと書いた文章を目にしたことがあります。
この読み方の問題は、漱石の場合、もっとひどくて、ふりがなをどうしましょうか、という相談のハガキのやりとりが書簡集に数多く残っています。
漱石自身が「どちらでもよい」と伝えているケースも少なからずあります。最初からかな表記なら、このような問題は起きなかったでしょう。
今回の記事は、これから書くことが主題のはずでした。かなり脱線してしまいました。
私がかな表記に抵抗が少ないのは、主にふたつの要因があるのです。
ひとつは、37年間の会社員としての業務に関わることです。
私は広く言うと、エンジニアという分類に入ると思います。
そこで読んできた文書、書いた文書は、たとえば製品の仕様書、実験とか試験の結果報告書、研究に関する論文、会議議事録、出張報告書などなど、いわゆる実用文書です。
それらは、伝えたい内容が伝わるかどうか、ということが最大の問題です。文学作品のようなイメージの広がりとか、言葉の"香り"とか、微妙なニュアンスというものは、排除すべきことです。
ですから、文字というものは、それが具体的に何を示すのか、ハッキリさせなければいけません。読み手にどのような印象を与えるのか、ということは、最初から確定しています。想像力を必要としてはいけない、想像力を発揮する余地を残してはいけない、のです。
「我輩は猫である」=「わたしはねこです_」="I am a cat."である必要があるのです。
川端康成の「雪国」は英文では"Snow country"だったと思いますが、その場合、「雪国」=「ゆきぐに」="Snow country"であるべきなのです。
現実の問題として、このような実用文書は、日本人全体として考えると、文書全体の90%から95%になるのではないかと思います。
つまり、日本語の文章は、"文学"に属する物はきわめて少数なのではないか、と思うのです。
日本語は、"文学"の領域から、人と人とのコミュニケーションの道具という位置づけに変わったと思うのです。
もう一つは、私自身が、過去に、結構長い文章をかな表記で書いていたことがあったからです。
それは幼児向けの童話です。
今から35年くらい昔のことですが、我が子が幼い頃、子どもを寝かしつけるということをやっていた時期がありました。
時々、子どもがなかなか寝付かないことがあり、その原因は、絵本を読み聞かせるときに、蛍光灯スタンドを使っていて、その明るさのためではないか、と考えたのでした。
そして、自分は今までいろいろなお話を聞いているから、絵本を読まなくても、そらで憶えている話を聞かせればいいだろう、ということにたどりつきました。
実際にやってみると、とんでもない勘違いであることがわかりました。話して聞かせるレベルまで知っているお話というのはほとんどないのです。
浦島太郎の話は知っています。かぐや姫(竹取物語)も話せます。
桃太郎はすこしあやふやです。金太郎はまったく分りません。かちかち山もまるで分りません。シンデレラも話して聞かせるほど知っているわけではあリません。
イソップ物語はストーリーをきちんとしないと面白みが出ません。グリム童話、アンデルセン童話も断片的に知っているだけで、語ることができるほど知っているわけではありません。
行き詰まったので、いっそ、自分で新しいストーリーをつくってお話にした方がいいのかもしれない、と思って、やってみたところ、想像以上にうまくいったのでした。
自分に、ストーリー・テラーの才能があったのかと、おどろいたくらいです。
ただし、即興で話すのですから、今まで聞いた話を取り混ぜてアレンジして聞かせる、という傾向が強いです。それても、いくつかの話はある程度まとまりが付きました。
それから、しばらくして、話した内容をまとめて残しておきたい、と思うようになってきました。
当時の文章の記録を見ると、下の子が7歳の頃に文章化しているので、下の子に聞かせてその後に文章としてまとめたようです。
小さい子にきかせる話なので、最初からひらがなで書きました。
それから約20数年後に書き直しているのは、孫ができて、こんどは孫に聞かせよう、読ませよう、という意識だったのではないかと思います。そのときもひらがなで書くということは当然のことでした。
現在、残っている童話は6編です。
このように、ひらがなで書くことになれていたのです。
400字詰め原稿用紙で5枚から20数枚くらいのお話を、全部ひらがなで書いていたので、ひらがな表記にかなりなじんでいたのです。
ただし、分かち書きにはしていません。漢字かな表記の漢字の部分を単純にかな書きした、というものです。
いま、この文章をすらすらと読むことができるのは、もともと自分で書いた文章であること、その後何度か読み直して誤字脱字などを修正しているからでしょう。
かな表記でも誤字はあります。たとえば、「ここでみていましょう」と書くべきところを、「ここでみてしましょう」と書いたところがありました。書くといっても、キーボードをたたくので、キー入力ミスということですね。
次の記事で、ここに書いた童話のような、幼児向けのお話を乗せようと思います。
この"日本語と漢字"のシリーズ記事で、実践の試みとして3編の記事を書きました。その続きです。
このように、私は、個人的な体験から、かな表記に抵抗をさほど感じないのであり、絶対的に多数の人は、かな表記に反対することは当然でしょう。
ただし、そのような人々は、漢字を習っていたときの苦痛を忘れていると思います。
漢字は、よく言われることですが、習熟してしまうときわめて便利な表記法です。
私は、今回、自ら学んだ時以来、はじめて小学生用の国語の教科書に目を通しました。
1年生用の教科書は、ほとんどがひらがなです。これが4年生用となると、漢字がかなり多くなっています。ずいぶん難しい文章を習っているんだな、と感心する一方で、気の毒にもなります。
文部科学省が、小学生が習う漢字を学年ごとに分類して、学年別漢字配当表という名称で公開しています。それを見ると、1年生から6年生までそれぞれ、80、160、200、200、185、181という数になっています。
3年生と4年生のときが最も多く、1年間に200文字です。およそ、学校に通う毎日1文字ずつ新しい漢字をおぼえる必要がある、ということになります。
その結果、4年生で、すでにかなり高度な文章が教科書に出てくるのです。
漢字はやめられない、ということは、疑う余地がないといえます。
とんでもない袋小路に入り込んでしまった、という印象です。