日本語のあれこれ日記【43】

原始日本語の手がかりを探る[34]―12345678910を考える

[2018/11/18]


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1/2、3/6と4/8の倍数

前々回の記事で、3/6と4/8のペアについて書きました。

3と6、4と8の2組は、それぞれは先頭の子音が共通(mとy)で、母音の違いで区別される、というものです。

考えてみると、1と2は倍数の関係にある、と言うこともできます。

このことについて、もうすこし考えてみました。

以下は、完全な作り話です。ノンフィクションではなくフィクションの世界です。

1,2,3,…10という数え方の起源について、あまりに手がかりがないので、ある種の作り話をして、そこから考えてみようというものです。

ということを前々回の記事で書きましたが、今回も同じです。


ふたたび1,2,3,4,6,8

この6個の数字はすでに取り上げていますが、今回は少し見方を変えます。

まず大前提として、数を数える時には両手の指を使うだろう、ということは容易に想像できます。10進法の起源はここにある、と言われます。

そのうち、倍数のペアを、数字がダブらないように数えれば、次のようになります

1→2、3→6、4→8、5→10

8個の数字が現れ、残りは7と9です。

7と9

この二つの数は特徴があって、nana(tu)、kokono(tu) と、同音の返しがあります。

ここで"ここのつ"を考えてみます。

"の"は格助詞の"の"ではないだろうかか、と以前から感じていました。"ここのつ"というのは4音で、他の数字とくらべて長すぎるのです。

"9番目のつ"で、"ここのつ" 、9は"ここ"というわけです。

そうすると、7と9は、nana、koko となり、同音の並びです。

万葉集3794番歌は次のようになっています。

3794 愛(は)しきやし翁の歌に欝恒(おほほ)しき九(ここの)の児(こ)らや感(かま)けて居らむ

第4句の原文は「九兒等哉」であり、九は"ここの"に対応しています。九を"ここ"とすると7音になりません。ただし、九を"ここ"とすると、"9人の児"は"コココ"となってしまいますから、格助詞"の"を添えて、"ココノコ"と読むとも考えられます。

アクセントが"九(ここ)"と"児(コ)"で違っていて"コココ"でも混乱しない、という可能性もないわけではありません。そうすると第4句を7音にするために1音足してやる必要があります。アクセントについては何も分かりませんので、このあたりはなんともいえません。

5と10

いままでに何度か、5と10は見当が付かない、と書いてきました。

10は5の2倍である、ということを考えると、5はtu、10はtoではないか、という可能性を考えつくに至りました。

5は、なぜtuの前に"i"が挿入されて"itu"になったのか、はまだ想像が付きません。しかし、1~10までの数字で、ひとつだけ母音始まり、というのもなにか変だ、という印象があります。

また、10は"towo"であり、"wo"がなぜ付いたのか、という問題もあります。

とりあえず、ここまでの考えをまとめておきます。

表1 1,2,3,6,4,8,5,10

1 2 fito futa
3 6 mi mu
4 8 yo ya
5 10 tu to

1と2

こうしてみると、1と2はそれぞれが1音の方がしっくりきます。

今までは、たとえば、「ひとつ、ふたつ、たくさん」と数えた時の「ひとつ、ふたつ」であり、数としては「ひとつ、ふたつ」だけだった時代があった、というように考えてきました。

「みつ」が"たくさん"なのか、というと分かりません。もしそうなら、"みつ"は"満つ"という言葉に関わっている可能性もあります。

数としての"3"にあたる言葉ができた時代に比べて、"満つ"という"やや抽象的な"言葉ができた時代はかなり遅れるのではないか、とも思いますが、また一方、月の満ち欠け、あるいは海辺に住む人々にとっての"潮の満ち干"はとても身近なものである、とも考えられます。

べつの見方はできないでしょうか。

数える時に「ひい、ふう、みい」と言います。また人名で、「一二三」と書いて"ひふみ"と読む例もあります。

「ひと、ふた、みつ」、つまり、"fito, futa, mitu"です。構造としては、"fi+to, fu+ta, mi+tu"と考えることができそうです(あくまでも可能性です)。

数詞が"fi, fu, mi"、助数詞が"to, ta, tu"です。

助数詞が本当に変化するのか、というのも疑問ですが、いまのところ"そういうものだ"としかいえません。

ただし、助数詞が"to, ta, tu"と変化していくにしてもその数には限りがあります。残りは"ti"一つです。そこで、3以降は"tu"で統一されることになった、と考えることができそうです。

ここで、表1を書き換えます。

表2 1,2,3,6,4,8,5,10のバリエーション

1 2 fi fu
3 6 mi mu
4 8 yo ya
5 10 tu to

倍数という点ではこの8個の数字が取り出され、すべて1音で、倍数関係にある二つの数は子音が共通で母音で区別されることになります。

残るは7と9

倍数の8個の数字で使われた子音は、"f,m,y,t"です。

7と9にはこれとはダブらない子音にすべきと思われます。

そのような子音は現在の五十音図で見ると、"k,s,n,r,w"があります。

r行の音(おん)は語頭には現れない、という現象はかなり確実ですからこれを除くと"k,s,n,w"です。

ここから二つを使うとすると、7と9に対して"kとn"を使うということに不思議はありません。

ではなぜ"nana"、"koko"と同音を繰り返す形になったのか。それについては倍数の数ではないことを強調するためにそうした、ということくらいしか言いようがありません。

とりあえず、7、9 まで含めた表を載せておきます。倍数関係にある数とそうでない数を一つにまとめるのはおかしなことですが、1~10までの数字を一覧することはそれはそれで意味があると思います。

表2 1,2,3,6,4,8,5,10,7,9

1 2 fi fu
3 6 mi mu
4 8 yo ya
5 10 tu to
7 9 nana koko

振り返ってみると

大きな問題があります。倍数関係にある数値をどうしてこれほど重要視するのか、ということです。

3と6を取り立てて関係づける必要があるのか、4と8はどうなのか。想像がつきません。

さらに、1と2については、fi、fuと言う形を考えましたが、ひとたび、ふたたび、ひとり、ふたり、などの言い方を考えると、1と2はやはりfito、futaではないのか、という思いを強くします。

また、"ひたすら"は"一直線"のイメージがあり、これも"fi"ではなく"fita"と考えるのが妥当でしょう。

"ひたむき"という言葉も考えましたが、念のため"ひたむき"を辞書に当たると、日本古語大辞典には採録されず、精選国語大辞典では用例が一つ、20世紀の作品でした。新しい言葉なんですね。"ひた"という接頭語的な言葉を使った造語活動がまだおこなわれていた、ということなのでしょう。

日本古語大辞典では、ひた(直)の項の語誌は欄で「一(ひと)の交替系であろう」と記しています。

また、一人(ひとり)、二人(ふたり)、三人(みたり)という言葉を考えると、fi+tari、fu+tari、mi+tari という形を想像しますが、これも、fito+tariが縮まってfitoriになった、という可能性もあります。ふたりの場合はfuta+tariが縮まってfutariになったということです。

備考

この記事は11/13に書き上げ、さらにもう少し書き足す予定にしていましたが、書き足す部分が大きくなる見込みとなったため、書き足す部分は次の記事として独立させることにし、11/13までの分を11/18にアップしました。


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