日本語のあれこれ日記【42】

原始日本語の手がかりを探る[33]―諸言語の数詞の比較[その3]-123468におけるioua

[2018/11/6]


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1と2、3/6と4/8のペア

前回の記事で、3/6と4/8のペアについて書きました。

3と6、4と8の2組は、それぞれは先頭の子音が共通(mとy)で、母音の違いで区別される、というものです。

そこでは、「四つの数の母音はa,i,u,oの基本4母音を使い切っている」という特徴について触れています。

このことについて、もうすこし考えてみました。


以下は、完全な作り話です。ノンフィクションではなくフィクションの世界です。

1,2,3,…10という数え方の起源について、あまりに手がかりがないので、ある種の作り話をして、そこから考えてみようというものです。


1,2,3,4,6,8

1と2は音(おん)について良い対比を示しています。3/6と4/8のペアも音(おん)について対応性が見られます。

そこで、無理矢理ですが、1,2,3,4,6,8の6個の数を取り出して考えてみます。

この6個の数を取り出すことの意味づけについては、末尾の備考に少しだけ考え方を書いています。

いままでのローマ字的な書き方をすると、次のようになります。

表1 1,2,3,4,6,8

1 2 3 4 6 8
fito futa mi yo mu ya

1と2についてその母音を抜き出すと、"i o u a"となり、4母音を使い分けていること、さらに、3,4,6,8 についてその母音を抜き出すと、再び"i o u a"となることはすでに書きました。

どうして、このように、"i o u a"が使われるのでしょうか。

現代では、基本4母音と言う時、多くの場合「アイウオ」と書きます。

原始日本語の時代の人々は、「イオウア(ioua)」と感じていたと想像することが可能です。

そこで、原始日本語の第1期は「1,2」について、"i o u a"を使って、母音をできるだけ分散させて、"fito,futa"ができ、続く第2期では「3,4,6,8」について再び"i o u a"を使って、"mi yo mu ya"が出現した、と考えてみます。

繰り返しますが、あくまで想像です。"ファンタジー"の世界です。

その後の第3期についてさらに想像を膨らませると、「3,4」のあとに「6,8」という2ずつまとめて数えるやり方では不足で、もう少し厳密に数える必要が出てきた、と考えてます。

もともと、手の10本の指で、1~10を数える事ができるのですから、「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10」と数えるまで進歩するのは当然の流れです。

そこで、もれていた「5,7,9」を追加した、これも単なる想像です。

その結果、5:itu、7:nana、9:kokono という数が現れてきた。

その特徴は、第2期では3,4,6,8,がそれぞ 1音であったのに対し、第3期では 5:itu、7:nana、9:kokono と2音または3音になった、ということに現れていると想像します。 

ここまで来ると、10 まで進めたいところですが、10(towo) についてはまるで見当が付かないので、10については手つかずのままにしておきます。

備考 1,2,3,4,6,8の6個の数を取り出すことの意味付け

数の数え方について、1と2は特別の関係にある、という印象があります。

そこで、たとえば、原始日本語では、「1,2,たくさん」という数え方をしていた時期があったと仮定します。

しかし、物々交換が盛んになるなどの理由で、数え方を進歩させないと困る状況になって、3以上の数え方を作り出す必要に迫られた。

それで、1,2,3,4までを考え出した。それ以上はどうするか。4以上は"とっても大きな数"なので、2ずつまとめて数えようとした。

1,2,3,4,6,8 という訳です。

「そんなむちゃくちゃな」、と考えるのが普通でしょう。でも、大きな数を数える時に、「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,20,30,40,50,60,70,80,90,100,200,300,…」という数え方はどうでしょうか。

これだったら、私なら、少しは"共感"できるような気がします。

「1,2,たくさん」という数え方をしていた(これ自身が仮定ですが)なら、5,6,7,8などは"とっても大きな数"に感じた、ということはそれほど不自然ではないように思われます。

そこで、1,2,3,4,6,8 という数えかたをしたのかもしれない、という想像です。


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