日本語のあれこれ日記【44】

原始日本語の手がかりを探る[35]―神楽歌における5,6,7,8,9,10

[2018/11/21]


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神楽歌(かぐらうた)

神楽歌の中に数を数えるところがある歌を見つけました、

見つけた、といっても、小学館 古語大辞典の"九つ"というときの"ここの"の項に例文として出ていたのに気づいた、というだけです。

次を参照しました。

土橋寛・小西甚一校注 日本古典文學大系 3 古代歌謡集 岩波書店 昭和44年9月 第13刷

これは、第1刷が昭和32年7月ですから、内容的には1957年、つまり61年前に発行されたものです。神楽歌のテキスト、注釈書には新しいものが見つかりませんでした。

神楽歌というのは、同書の解説に、「狭くは、宮中で奏される特定形式の神事歌謡をさす」とあり、それが収録されています。もともと、あちこちの神社に特有の神楽(里神楽)があり、それを集め、適当なものを選んで、宮中で奏する神楽、いはば"宮神楽"にしたてた、というものとされています。

その時期は、実のところそれほど古くはなく、貞観年間のものが記録として最古、ということですので、859年が貞観元年であることを考えると、平安時代初期ということになりますが、文献の古いものの記載内容に疑いが有り、実はよく分からない、というのが実情であると書かれています。

とにかく、古い時代のものとはいえないのですが、神に奉納するうた、という点から、古い時代の言葉がそのまま残っているのではないか、と期待しているのです。

我妹子

神楽歌のなかに"我妹子"という題名の歌があります。


我妹子に や 一夜肌觸れ あいそ 誤りにしより 鳥も獲られず 鳥も獲られず や


然りとも や 我が夫の君は あいそ 五つ獲り 六つ鳥獲り 七獲り 八つ鳥獲り 九(ここの)よ 十は獲り 十は獲りけむや

解釈はいくつかあるようですが、同書では、つぎのようにとるのが"穏当"である、としています。

(男から)あなたと契って以来、万事夢中の態で、ご自慢の鳥もさっぱり(獲れない)です

(女から)そんなことをおっしゃるけれど、十羽やそこらはお獲りになったんでしょ

上記の文章は、同書の原文から一部で言葉の追加をしています。

"鳥を獲る"と言うことについては、この一つ前の歌で、「網を張って鴫(しぎ)を獲る」と歌っているので、鳥を捕獲することを生業にしている男についての歌であると思われます。

5 6 7 8 9 10

ここには、5,6,7,8,9,10の六つの数が登場します。

歌は本来的には漢字で表記され、それに対して読み仮名がつけられて伝えられている、ということなので、漢字表記を見てみます。

数に関わる部分だけを抜き出すと次のようになります。(読みと漢字表記を並べます)

表1 「神楽歌 我妹子」において数を読み込んだ部分

五つ獲り 六つ鳥獲り 七獲り 八つ鳥獲り 九(ここの)よ 十は獲り
五津止利 六津止利々々 七止利 八津止利々々 九古乃与 十乎波止利

"鳥"、"獲り"という同音について漢字では"止利"が共通に用いられています。そこで数詞の部分だけを抜き出すと次のようになります。

表2 「神楽歌 我妹子」における5,6,7,8,9,10の数の部分

五津 六津 八津 九古乃与 十乎

気になる点は以下です。

(1) 助数詞"つ(津)"は5,6,8に使われ、7,9,10には付かない

(2) 9は"ここの"あるいは"ここ"と書かれている

(1)について

10はもともと"とお"であり"つ"は付かないのでこれは問題外です。また9については(2)で論じます。

"五津止利"、"六津止利"からすると、"七津止利"となって当然ですが、"七止利"ですので、"イツツトリ"、"ムツトリ"、"ナナトリ"と発声することになります。

つまり、5:"イツツ"、6:"ムツ"、7:"ナナ"となり、7は"ツ"が付かない、という不規則性が見られます。

前回の記事で、「1-2, 3-6, 4-8, 5-10という倍数について子音を共通にして母音で区別する、というやり方をとっていて、残った7, 9については"なな、ここ"と同音を並べている」、という見方をした(これは"可能性がある"、というだけのものですが)のですが、"なな"が1-2, 3-6, 4-8, 5-10とは別の作りになっている、という例がここに現れているのではないか、と考える余地はありそうです。

(2)について

九古乃与(ここのよ)の"よ"は助詞(間投助詞)ととってよいでしょう。

それでは、9について"ここの"が相当するのか、あるいは"の"も助詞なのかはちょっと引っかかります。

また、9だけが"鳥"、又は"獲り"という言葉が使われない、というのも不思議です。

私の受けた感じでは、「五羽か六羽獲った、いえ七羽とか八羽獲った、いやいや、きっと九~十羽は獲ったでしょ」という気がします。

「五羽か六羽、いえ七羽か八羽」、と言ったあと、それを否定し、「九~十羽」と結論づけるというものです。

九に対して助数詞"つ(津)"を使っていないことについても、「九~十羽」という表現である、という考え方で整合性がとれます。

したがって、"ここ(の)"が純粋に9という数だけを表しているという考えかたになります。

7と同様に、9も5,6,8と異なる扱いを受けている、という印象です。

それでは、9は"ここの"でしょうか、"ここ"でしょうか。通常は9="ここの"と考えるのでしょうが、9="ここ"という可能性はないのでしょうか。

9を意味する"ここの"における"の"について

9="ここ"とみるなら、その後に続く"の"とどのように考えればいいのでしょうか。

日本国語大辞典精選版の"の"の項目(ただし間投助詞の項目)には、「言い切りの文を受け、あるいは文中の文節末にあって、聞き手を意識しての感動を表わす。間投助詞「な」に近い」とあり、上に挙げた神楽歌の中の一つが例文として獲られています。

"我妹子"という歌の少し後の磯良崎という歌です。


磯良が崎に 鯛釣る海人の 鯛釣る海人の


我妹子がためと 鯛釣る海人の 鯛釣る海人の

この表記は日本古典文學大系 3 古代歌謡集 から引用しました。

"の"に対応する漢字表記は"乃"で、最初に引用した"我妹子"と同じです。

この歌は、上記に続いて、少し言葉を補ってそれを繰り返した後に、囃子詞(はやしことば)の"あいし"を4回繰り返して終わります。

"あいし"の繰り返しの直前は"海人の"で終わっています。

このような"の"は、日本国語大辞典精選版の"よ"(ただし間投助詞)の項目にある

「感動をこめて聞き手に働きかけ、また念を押すのに用いられる」

に相当するように感じます。

私が子どもの頃、土地柄、常磐炭坑節をラジオで聞いたことがあります。

出だしは「朝も早よからヨーオー カンテラ下げてナイ」というもので、カンテラは携帯用の照明器具だとはわかりましたが、それを「下げていない」とわざわざ否定するのは一体どういうことなんだろう、と不思議に思ったことを憶えています。

後になって、「ナイ」は単なる囃子詞、あるいは間投助詞のようなものと知りました。

「カンテラを下げてネ」とか「カンテラを下げてヨ」という意味合いでしょう。

上記の神楽歌でも、「鯛釣る海人の」は「鯛釣る海人ヨ」という、感動を込めて呼びかける言葉と感じられます。

上記した日本古典文學大系 3 古代歌謡集のこの部分の頭注でも、"海人の"における"の"について、「間投助詞にとりたい」と書いています。

それで、"ここのつ"の"の"も同様に、"とうとう9番目まで進んだヨ"ということの、感動の気持ちを込めた"の"であることが考えられる、と思うのです。


こう書きましたが、ずいぶん無理をした推論だ、と感じているのも事実です。

9="ここ"とするならどのような説明が可能か、という点から考えてみた、というのが真実です。


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