気まぐれ日記 38 不思議な一致―方丈記と徒然草


[2021/12/10]

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方丈記の本を手に取る

終活の一つとして始めた本棚の本の整理がなかなかはかどりません。

一部はYahoo!オークション、Amazonの小口出品で処分しました。またスキャン入力してディジタル化し、この場合は本はページがばらばらになるので廃棄しました。

売りに出しても買い手がないだろうと思われるものは、少しずつ再生資源に出してきました。

それでも、現在、整理できなかった本がまだまだあります。

残ったものの代表は、興味のために買い集めた本です。

古建築の解説本、これは県内の神社、寺院の重要文化財を取材して写真の個展を開いたときに参考にしました。

万葉集を含む和歌集、和泉式部、高村光太郎に関するものは、特に興味を持って調べたときのものです。仏典、仏教の解説本もあります。

また、日本語文法の解説書は、すでにこのサイトでいろいろと書いてきた記事の基になったものです。

歴史物では、幕末から明治初期の政治史もあります。


しばらくほったらかしにしていたのですが、とにかく何とかしなければ、ということで、また処分に取り組もうと思い直しました。


方丈記、無名抄の本

そして最初に手にしたのがこれでした。

菊池良一 村上光憲 坂口博規編 方丈記 無名抄 双文社出版 1994年6月 4版

最初のページにある凡例の最初の文に、「本教科書は、大学・短期大学の教材用として編集した」と書かれています。まさしく教科書ですね。

方丈記はいろいろな形で読むことが出来ますが、それに比べて無名抄は出版がずっと少ないです。この本を入手したのは、たぶん無名抄を読んでみたかったからたとおもいます。というのは、方丈記は高校の古文の時間に習っており、もう一度読んでみようという気は起こらないだろうと思うからです。もし読もうと思ったら、図書館ですぐに借りられます。

古典の和歌集を読んでいて、無名抄にこれこれの記述がある、などという注記を読んで興味が出たのでしょう。

方丈記の一節

まず方丈記のページをぱらぱらっとめくっていきます。高校の時に習った、大火とか辻風の記述があります。また、福原遷都や鴨長明の方丈の家についての記述もあります。これも高校の時に目にしていたような気もします。

方丈の家自体の説明の次に、その方丈の家での生活ぶりを書いたところがあり、その一つに、「十一 外山にみずから心を養う」という章が目にとまりました。

そこには次のように書かれた一節があります。

念仏もの憂く、読経(どくきょう)まめならぬ時は、みづから休み、身づから怠る。妨ぐる人もなく、又、恥づべき人もなし。

これって、徒然草の一節で、このサイトで取り上げた内容によく通じます。

そこで書いた記事の文章を抜粋して引用します。

或る人、法然上人に、「念仏のとき、睡(ねぶり)にをかされて行(ぎゃう)をおこたり侍ること、いかがしてこのさはりをやめ侍らむ」と申しければ、「目のさめたらむ程念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。

鴨長明は、「念仏に気乗りがしない時や、読経に身が入らない時には、あきらめて休んで怠けてしまう。そのようにしてもとがめる人もいないし、そうやって怠惰な時間を過ごすときでも、我が身を恥じるような人もいない」、と、まあ、何にもとらわれない自由人の境地です。

今ふうにいうなら、「念仏や読経が"かったるい"ときには、怠けてズルしちゃうよ。なんといったって、周りに誰もいないんだから」というところですかね。

法然上人のエピソードの方は、「眠いんだったら、念仏を唱えることはしなくていいんだよ。眠くないときにすればそれでいいんだから」と、これまたおおらかです。

私はなんとなくですが、徒然草の方が成立が早く、方丈記はその後のような気がしていたのですが、調べてみると、方丈記の方がずっと早いんですね。

方丈記の成立は1212年3月、これは方丈記の末尾に自ら「建暦の二年、弥生の晦日(つごもり)ころ…(中略)これを記す」と書いていることにより分かります。一方、徒然草は1337年に完成か?、とされていて(下記の文学年表による)、100年ほどの違いがあります。

市古貞次 日本文学年表 昭和57年3月 第22刷 桜楓社

吉田兼好は方丈記のこの一節を頭に思い浮かべて、法然上人のエピソードとして書き残したのだろうか、と疑問がわいてきました。

法然上人の死は建暦2年(1212)正月25日(知恩院のサイトの「法然上人とお念仏」のページによる)ですから、方丈記の完成の2か月前になります。ですから、吉田兼好の視点から見ると、方丈記の著述と法然上人の人生はどちらも100年くらい前のことです。

徒然草のなかで鴨長明に言及しているところが一カ所見つかりました。第138段(「祭過ぎぬれば」で始まる段)の一節に「鴨長明が四季物語…」とあります。ですから、兼好が徒然草を執筆したとき、すでに鴨長明の方丈記を読んで知っていた可能性はあります。

「いと尊かりけり」

吉田兼好は法然上人の言葉をこう評しています。

ですが、方丈記の文章を読むと、当時は特別なことではないのかもしれない、という考えがわいてきました。

吉田兼好の時代は、念仏や読経に対して厳格に考えていたのに対し、100年くらい前はもっとおおらかで、眠いときには仏事はしなくていい、とか、気が進まないときには仏事なんて気にしなくていい、なとどという、ある意味でいい加減な態度が許されていた、という考えです。

日本仏教の歴史に詳しい人ならこのようなことは承知しているのでしょう。機会があったら教えてもらいたいと思います。

方丈記と徒然草の関連性

このような関連性は、徒然草の訳注本では、注として書いてあって良いように思いますが、手元にある3冊では取り上げられていませんでした。

もっとも、大学の文学部の講義の中ではちゃんと触れられているのかもしれない、とも考えられます。私は大学の文学部で勉強したことはないので単なる想像ですが、教師が、「この下りは、方丈記にこう書かれたことを踏まえていて、云々」などと解説しているのかもしれません。

いずれにしても、こういうことを知ると、徒然草を読んだとき、方丈記も読んでみようかな、などと興味が広がっていくのではないでしょうか。

(1)徒然草の作者は確定していないようですが、ここでは吉田兼好説を採っています。



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