気まぐれ日記 37 不思議な一致―自省録と徒然草


[2020/2/21]

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木村耕一氏の「こころを彩る徒然草」(1万年堂出版)の新聞広告

徒然草の意訳本として、木村耕一氏の「こころを彩る徒然草」(1万年堂出版)があり、その広告が朝日新聞の2020年2月19日版(13版)に載っていました。

この本は以前にも広告を見たような気がして、「この本の広告は前にも見たことがあるな」と思い、さっと読み過ごしそうになりましたが、そこに徒然草の一節が意訳されて紹介されていて、「あれっ」と驚きました。

出ていた文章は第38段の一部で、次のような内容でした。

悪口を言われたら、(改行)「悔しい」「恥ずかしい」と思いますが、言った人も、聞いた人も、すぐに死んで行きますから、気にしなくてもいいのです。

著者のブログ"木村耕一BLOG"があることがわかり、見てみると、2010-08-09の日付で、徒然草の教訓「悪口を言われても気にしない、落ち込まない」という記事が見つかりました。

このブログの内容は、新聞の広告の文章に対して、もう少し詳しいです。

上で引用した新聞広告の文章に相当するところは、次のような内容でした。

(前略)人から「よく思われたい」「ほめられたい」という気持ちは、誰にでもある。
ところが、ほめてくれる人も、悪口を言う人も、ともに長くこの世にいるわけではない。
また、ほめたり、けなしたりした話を伝え聞く人も、たちまちのうちに、この世を去っていくのである。(後略)

この著書にどう書いてあるのかは未確認です。

徒然草のこの次の段である第39段は、このシリーズの「きまぐれ日記 2 徒然草 2」で取り上げたことがあります。

ですが、この第38段については特に記憶はありません。


それで、「あれっ」という驚きですが、これとほとんど同じ内容の事を、マルクス・アウレリウスの「自省録」で読んでいたからです。

マルクス・アウレリウスの「自省録」

この本は、このサイトの前書き・後書きの記事 No.19 で取り上げたことがありましたが、ここで取り上げようとしている文章には触れていませんでした。

改めて「自省録」を読み返してみました。これと似たような事が言葉を変えて何度も書かれています。

ここでは、神谷美恵子訳の第4巻19の一節を引用してみます。

死後の名声について胸を時めかす人間は次のことを考えないのだ。すなわち彼を憶えている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え上がっては消え行く松明(たいまつ)のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにはその記憶全体が消滅してしまうことを。

じつは私が記憶していた文章はちょっと違っている。

「賞賛を送られている人」もいつか死に、「賞賛を送っていた人」も死に、「ある人がある人を賞賛していたということを記憶していた人」も死に、ついには「ある人がある人を賞賛していたという事実」さえも消え去ってしまうのだ。

私の記憶していたこの表現は、下記に記した2冊では見つけることができませんでした。

「自省録」の第7巻9 には次のような一節があり、これを合わせて憶えていた可能性もあります。

昔さかんに讃めたたえられた人びとで、どれだけ多くの人がすでに忘却に陥ってしまったことであろう。そしてこの人びとを讃めたたえた人びともどれだけ多く去って行ってしまったことであろう。

要は、「ほめられるにせよ、けなされるにせよ、一時的なもので、そのようなことに心を奪われてはいけない」ということでしょう。

マルクス・アウレリウスと兼好法師

マルクス・アウレリウスが自省録を書いたのは、おおむね西暦2世紀後半とみられています(岩波文庫版の訳者解説による)。

徒然草の執筆は、おおむね14世紀前半とみられています。

つまり両者は1000年以上も時代が離れた作品です。

二人の作者の間に全く交流がなかったのは疑いようがないですから、洋の東西で1000年以上も時代が違っている二人が"同じことを書いている"という、なんという不思議さ。

参照した資料

鈴木照雄訳 マルクス・アウレリウス著 自省録 講談社学術文庫 2006年2月 第1刷発行

神谷美恵子訳 マルクス・アウレーリウス著 自省録 岩波文庫 2007年2月 改版第1刷発行



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