前書き・後書きの部屋 [2]


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11. わが非暴力の闘い
12. バガヴァッド・ギーター
13. JULIA ROBERTS
14. オヤジにならない60のビジネスマナー
15. 木に学べ
16. 量子力学 I  第二版
17. 漢字源 改訂第四版
18. 掃除道
19. 自省録
20. 長期投資でこ機嫌な人生を


11. わが非暴力の闘い

レグルス文庫
ガンディ著
森本達夫訳


訳者まえがきが15ページもある。あまりに長いので、これで終わりにする。


12. バガヴァッド・ギーター

岩波文庫
植村勝彦訳


13ページにもわたるまえがきは、ストーリーの概説だが、結果として人名(神の名というべきか)のオンパレードで、カタカナがすべての文字の60%を占める。

バガヴァッド・ギーターについては、別の記事がある。[2012/09/06 追記]


13. Julia Roberts

Frank Sanello著

Q: Whom would you rather wake up with?
A: Kate Winslet ? 3%, Camerom Diaz ? 11%, Uma Thurman ? 15%, Julia Roberts ? 56%

- Results of a 1997 readers' poll in exquire magazine

【試訳】

朝、目が覚めたときに隣に誰がいたら幸せか?

ケイト・ウィンスレット 11%, キャメロン・ディアス 11%, ウルマ・サーマン 15%, ジュリア・ロバーツ 56%

exquire magazine読者に対する1997年の世論調査

こういうところがジュリア・ロバーツのファンにはたまらないのだ。でも、誰についても、探せばどこかに有利な情報はある、というのは真実と思う。


14. オヤジにならない60のビジネスマナー

PHP文庫
中谷彰宏著

まえがき

誰もが「あんた、今カッコわるいことしているよ」とは言ってくれません。
だから、なかなか気づきません。
気がついていない人は、永遠に直りません。
誰かがおしえてくれるだろう、と思ったら大間違いです。
誰も教えてくれないのです。
「あの人、イヤなんだよね」と、べつのところで宣伝されてしまいます。
・・・・・・・・ 品性とは気づくことです。
言われて直すのではなく、気づいて直さないと直りません。

くわばら、くわばら。 中谷彰宏氏の著作はとっても多い。私の書棚をみてみると10数冊の本が並んでいる。

その中で「オヤジにならない60のビジネスマナー」は私の記憶ではこの著者の本の最初に買ったものだと思う。

この本が気に入って読み続けたのだろう。

ここに書かれた内容は、私には30%以上が心に響く。ほかの本は10%が心に響く。

誤解しないでほしいのだが、10%が心に響く、というのはすごいことである。だから30%以上というのは考えられないほどである。

氏の著作は、この本だけは例外として、私が読んだものを全般的にみると、文章の95%は無駄というのが正直な感想である。

読む必要はなく、読んでも何も得る所はない。

しかし残りの5%はひかり輝いている。

歩留まりは5%ということになる。

この5%というのはよくわかる。

私はかつて趣味は写真です、といっていた時があった。

そのときの経験では、36枚撮りのフィルムを何本か撮影したとき、本当に価値がある、と思えるものは平均して1本につき2枚程度である。

それは1枚の時もあるし、運がいいと3枚、まれに4枚という時もある。

0枚というのは不思議だがない。5枚、6枚というのもない。

平均すると2枚である。

2枚というのは約5%である。

私にとって5%はマジック・ナンバーというわけだ。

もっとほかの例をあげることができる。

私はあの「広辞苑」を持っている。第三版で、本文は2588ページある。

この本のいったいどれくらいを読むだろうか。新版を購入するにしても、要するにこの種の辞書のどのくらいを読むだろうか。

結局50ページも読むことはないだろうと思う。2パーセントである。そんなものだ。

もう一つ例を挙げる。

腕時計は一日あたり10時間はつけている。それで、腕時計で時間を見るのはどのくらいだろうか。多くても一日10回程度だろう。一回につき5秒程度だから、10時間につき1分程度。これはとんでもなく小さい。

5%に意味があれば十分と思う。

だから、よく、「このXXXXを使いこなせていない」という人がいるが、自分に必要なことができさえすればそれで十分であると思う。


15. 木に学べ

小学館
西岡常一著

後書き

私どもの、仕事に対する考え方や思い入れは、神代以来の体験の上に体験を重ねた伝統というものをしっかり踏まえて、仕事に打ちこんでますのがや。例えば、法隆寺伝統の大工には口伝というものがありますのがや、その中の一つに「堂塔の木組は寸法で組まずに、木の癖を組め」と言うのがありますけど、どんな建築の本を読んでも、こんな言葉にはお目にかかりまへんがな。寸法な形式・様式には詳しいことですが、建物を造営する根元である木の癖に触れた本には、いまだお目にかかっていまへん。

歴史の重さについてはなかなか実感できないが、飛鳥時代のすばらしい建築を今再現することは不可能なんだろうか、とふと考えることがある。

法隆寺の五重塔が幾多の大地震に耐えてきた原因は諸説あってわからないとも聞いた。

例えば、現在の彫刻家は運慶・快慶の彫刻のレベルに到達することができないかもしれない。

芸術の世界ではある種の天才が時代を超えた作品を作ることがある。

しかし建築は芸術作品であるよりも工業作品である。

多くの人が一つのプロジェクトの中で力を出しあって一つのものを作り上げる。

一人の天才だけで出来るものではない。

ある時代に多数の人が持っていた技術や知恵が伝わらずに消滅してしまった。

もちろん新しい技術ができている。

大きなダム、長いトンネルや橋、また人工衛星や超高速電子計算機など新しくて高度な技術が生まれている。

しかし、かつて確実に存在していた技術は消えている。

戦国時代に大いに進化した築城の技術などは現在には何も伝わっていないのではないか。

随分昔のことになるが、漫才師の、確かコロンビア・トップ・ライトさんだったと思うのだが(申し訳ないが確証はない)、誰かに「落語と漫才を比べると何が一番違いますか」と聞かれて、「落語には古典がありますが、漫才に古典はありません。新作だけです。落語家さんは芸に行き詰まったときは古典に戻る、ということが出来ますが、われわれ漫才師にはそれが出来ません」と答えていたことを記憶している。

私は電子計算機のソフトウェアという世界で働いてきた。そこでは5年前の話は大部分が用済みである。例えば、5年前に発行された本はたいていの場合は役に立たない。

パソコンの解説本が5年前のものではたいていは訳に立たないことを思えば分っていただけるだろう。

古典に学ぶことが出来る世界というものがこの年齢になって本当にうらやましいと思うことがある。


16. 量子力学 I  第二版

みすず書房
朝永振一郎著

第二版の序文

ここに「量子力学I」の第二版を世に送る。内容の大綱について第一版を改める必要は感じなかったが、第一版の中にあったいくつかの誤りを訂正し、また説明の不十分であった個所に加筆したり、あるいはそれを全部書き改めたりした。なお第一版中の誤植を再版の機会に訂正したことはもちろんであるが、この作業にあたっては、第一版をたんねんに調べ、ノート一冊にもおよぶ誤植を見つけだして下さった小林宇五郎氏のご協力に負ったところが多い。ここに同氏に対して厚く御礼を申し述べたい。

1969年11月
著   者

第二版は300ページ弱の本であるから、第一版も同様だろう。それでも誤植はたくさんあるんだな、と感心する。

ノート1冊か。チェックした人も大変だったろうが、出版社は驚いたろう。いや、案外こんなものだろう、という程度だろうか。

実は、序文(だから初版のものに対してだろうが)の一部に、このように書かれている。
・・・・・・・・
不幸な事情でこの「量子力学」の出版が中絶状態にあったのを、みすず書房によって装いを新たにしてして再び世に出ることになった。これを機会に誤植を訂正したほか、数カ所を書き改め、巻末に演習問題をつけ加えた。物質の波動論の章を第2巻に譲らねばならなくなったのは、まったく頁数の関係でやむを得なかった。この点読者のご諒解をお願いする。誤植や数式の誤りを丁寧に調べて下さった福田信之氏、およびみすず書房の松井巻之助氏にはここに厚く御礼を申し述べる。
・・・・・・・・

恐るべき誤植のしつこさ。

一度丁寧に調べた後で、さらによく調べるとノート1冊にもなる誤植が見つかるのだ。

ところで誤植は誰の責任だろうか。

一義的には出版社であろう。誤植とは著者が書いた原稿の通りに植字されなかったものだから。

この本文は、高度な数式、頻出するギリシャ文字、込み入ったグラフなどがあり、普通の編集部員では理解は難しい。

このような出版物の担当に当たった編集者も気の毒である。

しかし著者もチェックするはずである。大先生になると弟子がチェックしたのだろうか。


17. 漢字源 改訂第四版

学研
編者 藤堂明保・松本昭・竹田晃・加納喜光

編者のことば

.....などの方針が決定し、コンピュータ組版の能力を最大限に活用しつつ、鋭意本書は編集された。
........
さらに、コンピュータソフトの開発の面では、学研出版情報研究所大山治義氏、凸版印刷株式会社CTS開発部平山静雄・平田章・堀越誠司の諸氏、ならびに、学研情報処理開発事業部・スリーエーシステムズの皆さんには、多大のご尽力をいただいた。

辞書の編集で、ソフトウェアの関係者の名前が挙がることは非常に珍しい。

漢和辞典の編集の中心はあくまで漢字の専門家であり、ソフトウェア関係者はかなり補助的な役割になる。

それでも名前が挙げられたのは、辞書の完成までにソフトウェアが寄与する領域が無視できないほどに広がった証明である。

たしかに、漢和辞典の本文を見ると、例えば、英和辞典、日本語辞典などに比べて、単純な文字処理の拡張の範囲を大きくはみ出している。

そもそも異体字のようなものでは、漢字コードが割り当てられていないものが少なくないだろう。

そのような文字を一つ一つ作っていかなければならない。確かにやっかいだ。

昔、このような話を聞いたことがある。

大学の図書館ネットワークを作ろうとしたとき、ほかでは出てこない問題がいろいろでてきた、ということだ。

その一つが「新しい文字」である。

ある古文書を研究しているとき、今まで知られていなかった文字が出てきたとする。

例えば「め」の2画目が上に突き出ていない文字が発見されたとしよう。

この新しい文字が研究されると、その研究論分のタイトルは「"め"の研究」となるかもしれない。

ここで"め"は2画目が上に突き出ていない文字であり、過去になかった文字である。

(こう書いていても表現できていない。)

手書きなら問題なく、あるいは出版物としてなら印刷できる。

ネットワーク上で表示するには、標準的な文字コードで表さなければならない。

しかし、この場合、この世で最初に発見された文字であるから、文字コードは割り当てられていない。

このようなことで、大学の図書館ネットワークというのはやっかいな問題が発生するのだそうだ。

いずれにしても、大規模なプロジェクトを行うとき、計算機、あるいはソフトウェアの力を利用することは今後ますます増えるだろうから、このようにソフトウェアの関係者の名前がますますおもてに出てくることになるだろう。


18. 掃除道

PHP文庫
鍵山秀三郎 [著]
亀井民治 [編]

はじめに

戦後六十年間、世界に例を見ない経済発展を遂げてきた日本は、現在、ガタガタと音を立てて崩れ去り、大変な国に成ってしまいました。 財政破綻のみならず、人心は荒れ、世相は険しくなるばかりです。
・・・・・・・・
根本的な原因は、多くの人が心の余裕やゆとりを失っているからだとだと思います。
・・・・・・・・
私は、会社創業以来四十四年間、徹底した掃除の実践に取り組んで参りました。特に、すさ荒んだ人の心を落ち着かせ、穏やかにするためには、掃除をしてきれいにすることがもっとも効果的であることを実感してきました。

現在の荒れた社会の有り様を指摘する文章・発言はよく目にし、耳にする。しかし、具体的な提案となると、とたんにトーンが弱くなる。まして、実践の報告となると、本当にわずかである。

本書は、提案ではない。実践の記録である。提案して実践へと進んだものではない。実践だけが突然ポーンと出てきた。

日本人はいろいろなものに「道」を付け、精神性豊かなものに育て上げてきた。柔道、剣道に始まり、茶、花、英語......。

ここでは掃除道である。なぜ「道」か。私見では、「道」である必要はないのでは、と思う。ただし、そのほかに良い表現がないのも確かである。

いずれにせよ、「道」にこだわると、本書に書かれた「掃除道」の本質から外れる。四の五の言わない。実践だけがあるのだ。

この本に感動したのは、内容だけではない。

最近、街を歩いていて、あるいはバスの中から外を眺めていて、建物の内部、外部がきれいになっていることに気づいたのだ。

例えば、毎朝通勤で利用するバスからの景色だが、あるガソリンスタンドで、いつも二人の従業員が建物を掃除しているのが目に入る。

時刻は七時四十五分前後である。開店しているのか、開店前なのかはわからない。

しかし、いつも掃除をしている。そのおかげか、店内はとてもきれいである。

そう気がついてよく観察してみると、思いもかけず、いろいろな店でよく掃除が行き届いていることがわかってきた。

時々、従業員らしい人がゴミ袋を持ち、ゴミを拾っている姿を目にすることがある。

八時前なので、開店前であろう。

今まで、「掃除をしましょう」という運動について、特別気づいたことはなかったが、もしかして、多くの日本人の多くがこの「掃除道」を実践しているのだろうか。

別に「××運動」ということでしているのではなく、当然のこととしてしているのだろうか。それはそれですばらしい。

いずれにしても、町並みはいつの間にか、とてもきれいになっていた。

日本と日本人について、あまり悲観的になる必要はないのかもしれない。


19. 自省録

岩波文庫
マルクス・アウレーリウス [著]
神谷美恵子 [訳]

訳者序

もともと力不足のうえ、母親としての多忙な生活のほんのわずかな余暇をさいての仕事なので、意に満たぬことのみ多い。大方の御寛恕と御教示とを乞う次第である。

女性の著者ということで、これと良いコントラストの二人について書きたい。

一人は与謝野晶子、もう一人は長沼智恵子である。

与謝野晶子は岩波文庫から「与謝野晶子評論集」が出ている。

その中で「一隅より」と題する文章があり、与謝野鉄幹が「お化け帳」と呼ぶものを紹介している。

与謝野晶子は「雑記帳」と言っているが、「赤ん坊を抱きながら、背負(おんぶ)しながら、台所で煮物をしながら、病気の床で仰向きながら、夜遅く眠い目をして机に凭(よ)りながら、何かしら脳の加減で黙って泣きたくなり、またいらいらと独り腹立たしい気分になりながら」心覚えを書き留めていく。

晶子の執筆の多くは、このような生活の中で表現せられ、創出されていったのである。

これは、長沼智恵子の立場からすると、ある意味でうらやましい状況となる。

智恵子は画家を目指していた。それに挫折したことが狂死に至る要因の一つと言われる。

このあたりは下記が参考になる。

与謝野晶子の様な、細々としたことを書きとどめて、それを集めて一つのまとまった作品にする、ということは画家にはできない。

ある程度のまとまった時間が画家には必要である。

このことは、高村光太郎が明確に書いている。ちなみに、彫刻家はこの傾向が著しいとも書いている。

なんといっても、前日に鑿(のみ)を研ぐことから始まるのである。

文章を書くのは細切れな時間の積み重ねでもできるが、絵を描くのはそうはいかない。

これは分野は違うが私の実感でもある。今書いているこの文章は本当に細切れな書き付けの集まりである。

一方、私の唯一の趣味といえる風景写真においては、何をどのように撮るか、の計画抜きでは何もできない。

あるとき1時間の空きができたからといって、全く役にたたないのである。

私の理解は、これは一覧性(一目で見渡せることができるかどうかという性質)とでも言うべきものである。

絵画や写真は一応はひと目で全体をが眺めることができる。しかし文章は一定の時間をかけて少しずつ進んでいくことが必須である。

理解するときに少しずつ進んでいくものは、想像するときも少しずつ進んでいけるのである。

もう少し書きたいのだが、自省録から外れてしまったので引き返すことにする。別の翻訳がある。

講談社学術文庫

マルクス・アウレーリウス [著]

鈴木照雄 [訳]

自省録を読んだのはこちらの方が先だった。

行きつけの書店でこの題名が目に入った。

題名だけは記憶の片隅にあった。多分、世界史として、五賢帝とか自省録とかを覚えていたのだろう。

そのときはまだ買うところまでは行かなかった。

しばらくしてもう一度その本が目に入った。読んでみようかと思ったが、もう一つ決心できなかった。

さらにしばらくしてまたまた目についた。三度目の正直。これは読むしかないだろう、と思った。

「キリスト教が入る前の古代ローマ文明の精神のなんと健やかなことか。」

少しおそれつつも感じたことをそのまま表現すればこうなる。

例えば、「死」」について率直で前向きな感情の表現に感動する。

死に対して前向きという表現はおかしくはないか、という思いもあるが、誰にとっても、もちろんローマ皇帝にとっても不可避な出来事として死をおそれず、目をそらさず、皇帝の多忙な職をこなしていく。

そう、ローマ皇帝の職がそれほど多忙なものであることにも驚かされる。

神の存在なくしても死は昔から逃れることのできないものであった。

私は信じる神を待たない。無限の命は考えられない。死は恐ろしいものである。

しかし本書によって私は少し勇気づけられる。

2000年近くも昔のローマ皇帝の気持ちのあり方に親近感を覚える。

そして時間・空間・立場を越えて「死」という重大なものに対する考え方に共感できる幸せを思う。


20. 長期投資でこ機嫌な人生を

廣済堂出版
MONEYポケットブック001
澤上篤人 [著]

はじめに

日本の投資家は本格的な長期投資というものを知らない。こんな書き出しで、本書の前身となる『株安の今こそチャンス――成功する長期投資』を六年前の2001年に書いた。
・・・・
ちなみに、前書の「はじめに」を続けてみよう。
・・・・
以上が前書の「はじめに」だ。もうしばらく前書の「はじめに」を続けてみよう。
・・・・
本書の骨子は前書をかなり踏襲するが、それは仕方のないこと、長期投資の基本がそうそう変わるわけがないのだから。それでも、世界的なインフレ傾向など新しい局面への対応を含め、まったく別の書と言って良いものができあがった。
・・・・

(上記の引用で、"前書"とは前に出された版の本の意味である。このシリーズが"前書き"というタイトルなので紛らわしくなってしまった。)

結局、前書の「はじめに」から40行が再録された。

今回新しい内容は15行である。

辞書の場合によくあることだが、以前の版のまえがきの全文をそっくりと載せる場合がある。

その版の序が最初に有り、その後に第一版の序、第二版の序、などと続けるものである。

再版がいわば運命づけられた辞書であっては、しかもその間隔は長いのが通例だから、それは意味がある。

さて、本書の様な、ある事柄の基本的なことを解説する、という場合には、改訂版でまえがきに書くべき内容が初版とあまり変わらない、というのは確かにある。

ただ、これだったら、初版のまえがきをそっくり再録して、改訂版のためのまえがきだけを独立させた方がすっきりする。
ちなみに、本書にはあとがきもある。こちらには、初版との関係は何も書かれていないので、全く新しい内容なのだろう。初版にあとがきがなかったのかもしれない。この点はまだわからない。



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