気まぐれ日記 34 植林の始め-「後拾遺集273 なけやなけ」の歌に寄せて


[2017/6/9]

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植林の始め-「後拾遺集273 なけやなけ」の歌に寄せて

後拾遺集273 なけやなけよもぎが杣のきりぎりす過ぎゆく秋はげにぞ悲しき 曾禰好忠

「杣」というものが、建築材料としての木材を切り出す山であることを知りましたが、その杣がどのようなものなのかを調べると、いろいろと興味深いことが出てきました。

その中で、古代から中世において、木を切り出した後は植林をせずにほったらかしにしたため、山がはげ山になり、木材の供給ができなくなったこと、その結果、都の運営に支障がでて、新たな木材の供給地を求めたことが度重なる遷都の原因の一つである、というようなことがわかってきました。

そこで、植林が全く行われなかったのか、ということを調べていく中で、植林、なかでも建築材料の確保のための植林の始めはなにか、ということを探してみると、鹿島神宮に関する記事が最古のものである、といわれていることがわかりました。

ただし、実際の記録がどのようなものであるか、具体的な記載がなかなか見つかりませんでした。

このたぴ、その記録の文章がはっきりしたこと、それでもその内容には疑問が残るため、ここに記録しておく次第です。

日本三代実録の記事

日本三代実録 巻12 清和天皇貞観8年正月廿日の記事です。

《卷十二貞觀八年(八六六)正月廿日丁酉》○・・・・中略・・・・
常陸國鹿嶋神宮司言。
大神之苗裔神卅八社在陸奧國。菊多郡一。磐城郡十一。標葉郡二。行方郡一。宇多郡七。伊具郡一。曰理郡二。宮城郡三。黒河郡一。色麻郡三。志太郡一。小田郡四。牡鹿郡一。
聞之古老云。延暦以往。株大神封物。奉幣彼諸神社。弘仁而還。絶而不奉。由是。諸神爲祟。物恠寔繁。
嘉祥元年。請當國移状。奉幣向彼。而陸奧國。稱无舊例。不聽入。宮司等於外河邊。弃幣物而歸。自後神祟不止。境内旱疫。
望請。下知彼國。聽出入。奉幣諸社。以解神怒。其幣用大神封物。

又言。 鹿嶋大神宮惣六箇院。廿年間一加修造。所用材木五萬餘枝。工夫十六萬九千餘人。稻十八萬二千餘束。採造宮材之山在那賀郡。去宮二百餘里。行路嶮峻。挽運多煩。伏見。造宮材木多用栗樹。此樹易栽。亦復早長。宮邊閑地。且栽栗樹五千七百樹。椙樹四萬株。望請。付神宮司。令加殖兼齋守。

太政官處分。並依請。

上記のテキストは以下を参考にしました。
J-TEXTS 日本文学電子図書館 六国史全文 日本三代実録(www.j-texts.com/sheet/sandai.html)
国立国会図書館デジタルコレクション - 国史大系. 第4巻 日本三代実録(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991094)
読み下し 日本三大実録 上巻 武田祐吉・佐藤謙三訳 戎光祥出版 平成21年9月 復刻版発行

読み下し 日本三大実録 の助けを借りて読んでいきました。

常陸國鹿嶋神宮司が二件について太政官に訴えた、という内容です。その1件目は、鹿嶋神宮司等が奉幣のために陸奧国の鹿島神宮の末社に行こうとしたとき、関では前例がないという理由で通してもらえなかったので、通すように下知をしてもらいたい、という内容です。

2件目は、鹿島神宮大神宮には6棟の建物があり、20年ごとに建て替えているが、その材木は当地から200余里離れた那珂郡から運び出すもので大変な苦労であるので、近くの空き地に栗を5700株、椙(杉)を4万株植えており、もっとたくさんの木をうえ、かつ保全していくことを神宮司に命じてもらいたい、というとこです。

疑問点1

1件目ですが、大神の苗裔(すえ)の神、といっていますので、いわゆる末社でしょう。それが陸奥国に38社あり、そこに奉幣に行こうとした。なぜかというと、延暦から奉幣にいっていたが弘仁からは絶えてしまっていて、神のたたりのために物の怪がとても多い、ということのようです。で、奉幣のために関を通ろうとして止められてしまった、というのです。

磐城郡、曰理郡、宮城郡などの地名から太平洋岸の地域のようです。関といえば勿来の関でしょう。

延暦は782年~806年、弘仁810年~823年、嘉祥元年は848年。弘仁のいつまで行っていたのかはわかりませんが、中程とすると816年。問題になった嘉祥元年までは32年です。つまり、32年前にあったことを前例がない、という理由で関を通ることを拒否しています。

関には記録が残っているはずです。100年前とか200年前などというのであればともかく、数十年前の前例があるかないかはすぐにわかるのではないかと思うのです。

疑問点2

2件目は、文章の体裁が絡んでくるのですが、「常陸國鹿嶋神宮司言。・・・・又言。・・・・」とい文章ですから、鹿嶋神宮司が「神宮司に対して、これこれのことを命じてください」と言っていることになります。すでに自分で栗を5700株、杉を4万株植えており、もっとたくさん植えるようにという頼みです。

「且栽・・・・」の"且"は、読み下し日本三代実録では"且(しばら)く"、と読んでいます。漢字海では、意味の一つとして「ひとまず。しばらく <<動作・行為がとりあえずおこなわれることを示す>>」という記述があります。鹿嶋神宮司が自分の判断でそうした、ということでしょう。



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