気まぐれ日記 35 荘子の胡蝶の夢と古今集


[2017/6/9]

次のページに進む  前のページに戻る  古典文学に戻る  ホームに戻る

荘子の胡蝶の夢

机の周りを片付けていると、荘子に関する新書が出てきました。

山田史生 日曜日に読む『荘子』  筑摩新書 筑摩書房 2007年9月

最初の部分に、いわゆる胡蝶の夢の話が出てきます。

高校の漢文で習った記憶があります。以下は、引用では無く、要約です。

荘子が夢を見た。夢の中では蝶であり、ひらひらと気持ちよく飛んでいた。さて夢から覚めると自分は荘子である。さて、荘子が蝶になった夢を見ていたのか、逆に蝶の姿が本当で、蝶が荘子になった夢を見ているのか。

著者は中国哲学の研究者であり、この後、いろいろと議論が展開されます。

確かに、いろいろと考えるる余地はあります。

古今集

現在、私は古今集を勉強中で、一つ一つの歌を細かに詠んでいます。そこで、胡蝶の夢に近い歌を見つけました。

833 寝ても見ゆ 寝でも見えけり おほかたは うつせみの世ぞ 夢にはありける

834 夢とこそ いふべかりけれ 世の中に うつつあるものと 思ひけるかなる

835 寝るがうちに 見るをのみやは 夢といはむ はかなき世をも うつつとは見ず

942 世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ

943 世の中に いづらわが身の ありてなし あはれとやいはむ あな憂とやいはむ

表記は以下に従いました。解釈についても参考にしました。

新版 古今和歌集 現代語訳付き 高田佑彦 訳注 角川書店 平成21年6月25日初版発行

833番歌は、詞書きに「藤原敏行朝臣の身まかりにける時に、よみてかの家につかはしける」、とあるので、その亡き人の姿が、という事でしょう。寝ても見える、寝ていないときでも見える。はかないこの世は本当は夢だった、と。

この歌では、「現実も夢も違いはない」、つまり、「亡き人がどちらでも見える、全部夢なんだ」、と詠みます。もともと歌には誇張があり、まして亡き人を偲ぶ歌を、相手、たぶん遺族に送った、という状況なので、さらに誇張が加わるのでしょうが、「現実(うつせみ)の世が実は夢なんだ」、という述懐を述べます。

834番歌もこれと類似の発想で、「現実はあると思っていたけれど、夢だと言うべきだった」、と、これも、「この現実は夢だ」、と表現します。

835番歌ではすこし表現を変え、「夢というものは寝ているときに見るだけではありませんよ、この世は現実だとは思っていません」、と詠み、結局は、「この世も夢だ」、と言うのです。

この3首は続いていて、巻16の哀傷歌に収録されています。

すこし飛んで、巻18の雑歌下につぎの2首があります。

942番歌では、「この世のなかは、現実なのか夢なのかわからない」は今までの歌と似ていますが、その次に「有るようだが無いのだから」という、ここが新しいです。

上に挙げた「新版 古今和歌集 現代語訳付き」では、解説で、「存在と無は一つであるという、すぐれて哲学的な歌であり、多くの『はかなさ』を詠む古今集歌にとって、一種の思想的な支柱ともいうべき歌。天台の教理に基づくという説もあるが、限定する必要はあるまい」と書かれています。

「有るようだが無い」とは、仏教の般若心経でいう「色即是空」に通じるものがあります。

作者は「よみ人知らず」なので、仏教にかかわりがある人なのかどうかはわかりません。「色即是空」の「色」は"現実世界"に対応しますが、「空」は"夢"に直接的に対応するものではないように思います。

「色即是空」の「空」を表現するなら、"空し(むなし)"というのではないだろうか、と言う気もしますが、その一方で、「色と空」の関係を「うつつと夢」に対応づけるという発想はなかなか素晴らしい、とも思います。

943番歌では、ここでも「有りであり、そして"無い"」と歌います。「有るのであって、同時に無い」、「色即是空」の世界ですね。

最初は、「現実の世界と夢の世界との対比で、結局は夢だ」、といっていたものが、「有なのか無なのかわからない」、さらには「有であり、同時に無である」という見方にまで進んでいます。

再び荘子

再び「日曜日に読む『荘子』」にもどってすこし読んでみると、『荘子』の斉物論篇という箇所を引用しているところがあります。(同書 P.112~)

始めということが有る。始めということも始まっていないということが有る。その始めということも始まっていないということすら始まっていないということが有る。

(中略)

有るということが有る。無いということが有る。無いということも無いということが有る。その無いということも無いということすら無いことが有る。にわかに無が有る。その無は、はたして有るのか無いのか、ついにわからない。

うーむ、有るのか無いのかわからない。

私はこのような議論は嫌いでは無いです。このような議論に首を突っ込むほど物事を理解していないのですが、それでも興味が湧くのです。

物事には始めがある。始めがが始まる前がある。"始めがが始まる前"が始まる前がある。…

このように無限に続けて行く論法はいろいろあります。

最近、0.999…という無限小数の行きつくところでも、無限に続くことを記事にしました。

余談ですが、「ニワトリが先か卵が先か」という話があります。これについては私は考えが固まっています。卵が先です。最初のニワトリは卵から生まれました。その卵の親はニワトリではありません。"最初のニワトリ"といっているのですから、その親はニワトリでは無いのです。ニワトリではない鳥が創った卵ができたときに遺伝子が変化してニワトリになったのだろうと考えます。

有無について以前に考えたこと

以前に次のようなことを考えたことがあります。

「有るか無いか」について単純に考えると二つの事柄であるということになりますが、その考え方をすこし変えて、"有り"と"無し"についてYesかNoかを判定するものとします。

そうすると、"有り"ということについては、"有り"はYes、"無し"はNoです。同様に"無し"については"有り"はNo、"無し"はYesです。

すぐに気がつくことは、このほかに二つの状態がありえて、Xという何物かは、"有り"がYes、"無し"もYes、またYという別の何物かは"有り"がNo、"無し"もNoです。

先ほどの"うつつ"と"夢"に照らし合わせると、Xは"うつつ"であり同時に"夢"である、ということになり、Yは"うつつ"でなく同時に"夢"でもない、ということになります。(ちょっと拡大解釈がありますけど。)

状態の名前
判定 X Y
有りである Yes No Yes No
無しである No Yes Yes No

942番歌では「ありてなし」、これは「有りであって同時に無しである」と私は理解します。ですから上の表の"X"に相当します。

「色即是空」の「空」とはなにか、などと言い出すと、私なんかはとても口出しできませんが、一つの見方として、「なにも無い、のではなく、無いということそのものも無い」と書いたものを読んだことがあります。それは上の表での"Y"に当たります。


古今集の歌には、仏教の考え方(教えというものでは無い)や中国古代哲学の考え方に近づいた考え方が述べられているものがあり、その点でも大いに興味がそそられます。

追記 [2020/3/27]

上記の「有無について以前に考えたこと」の章に書いた「"有無"に関する状態を4種類に分ける考え方」について、これと似たことが書かれている例を見つけました。

伊藤邦武/山内志朗/中島隆博/納富信留編 世界哲学史I―古代I 知恵から愛知へ 筑摩新書 筑摩書房 2020年1月 第2刷発行

この「第6章 古代ギリシアの詩から哲学へ」の中の「ソフィストたち」というところに、他書を引用した部分を含んで、次のように書かれています。

―引用開始―

もし何かがあるとすれば、「ある」があるか、「あらぬ」があるか、「ある」かつ「あらぬ」があるかである。「ある」があらぬことはこれから証明されることであり、「あらぬ」があらぬこともこれから正当化されることであり、また「ある」かつ「あらぬ」もあらぬことも、これから証明されることである。(DK 82B3)

(改行)

ゴルギアスは「ある」も「あらぬ(ない)」も、どちらもないことを証明すると宣言している。そして、この引用につづくテクストでは、「ある」場合、「あらぬ」場合、「ある」かつ「あらぬ」場合のそれぞれに実際に証明が与えられている。

―引用終了―

(DK 82B3)という表記は、ヘルマン・ディールスが編集し、ヴァルター・クランツが改訂した『ソクラテス以前哲学者断片集』の整理番号82B3ということだそうです。

ここでいう「ある」、「あらぬ」が、私の記事の「有りである」、「無しである」と対応するのかしないのか、などはいまのところ疑問として残りますが、『「ある」かつ「あらぬ」』を待ちだしているところは、なにか共通する考え方があるようにも思えます。

『「ある」があらぬ・・・・、「あらぬ」があらぬ・・・・、また「ある」かつ「あらぬ」もあらぬ・・・・』というように、三つのテーマがすべて否定されているところは興味を引かれます。

大元の引用元である『ソクラテス以前哲学者断片集』はまだあたっていないので、機会があれば眼を通してみたいと思います。(正直なところ、私に理解できるとは思えませんが。)

なお、上の文で、『』と「」の使い方が通常と違っていますが、引用部分の表現に合わせたためです。



[ページの先頭に戻る]参考文献について