前書き・後書きの部屋 [6]


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51. 筑摩書房 9条どうでしょう
52*. さりげなく思いやりが伝わる大和言葉 常識として知っておきたい美しい日本語


51. 筑摩書房 9条どうでしょう

ちくま文庫
筑摩書房
内田樹、小田嶋隆、平川克美、町山智浩

前書きにかえて―「虎の尾アフォーダンス」と「脱臼性の言葉」

(ほぼ中ほどまで略)

 人間はそこにドアノブがあると回したくなり、ボールが転がっていると蹴りたくなる。この趣向性のことをジェームズ・ギブソンは「アフォーダンス」と呼んだ。「水平な固い地面」は「歩くこと」をアフォードし、「腰の高さの水平面」は「座ること」をアフォードする。

 その語法で言えば、「虎の尾」が「踏むこと」をアフォードする種族がこの世には少数だが存在する。

(以下略)

この本は、久しぶりに入った書店でなにか面白そうな本はないかと歩き回っていて(フロアが広い書店だった)、立ち読みしていた時にある個所が気に入り、購入して帰宅してから読み始めて前書きの上記の部分を見つけた。

だから、前書きの話の前に、そもそも気に入った個所の話から書き出すのが良いと思う。

「私が今改憲を呼号する人々に共感できないのは、彼らが戦後六十年の疾病利得を過小評価していることを不安に思うからである。」

このたった1行の文章である。

私(このサイトの管理人)は憲法を"書き換える"べきところがある、と考えている。

"憲法の改正"と書くのは控えたい。改正は「正しくないところを正しくあらためる」ということになるだろう。何が正しいか、正しくないか、というのは人によって考え方が違う。従って"改正"といった時にその意味するところは人によって違ってくる。そうなると議論がかみ合わない

たとえば私は、自衛隊は軍隊として認めるべきだと思う。

今自衛隊をなくすと東アジアの軍事的なバランスが崩れて国際的な緊張が高まり、戦争が起こりがちになる、という消極的な理由からではない。

どうも、人間というのは目の前のもの、隣のものと共存するには、絶えず圧力を加え続けて、そのダイナミック・バランスを常に保つ、という形が一番安定しているのではないか、と思うようになってきたからである。

では改憲派であると宣言するかというと、それは誤解を招く恐れが高いのでできないと思うのである。

改憲に賛成する人々の意見はほとんどが、現憲法はアメリカ合衆国に押しつけられたから自分の手で憲法を決め直すのだと言う。

現憲法は戦前の憲法と比べて良くなかったのか、悪くなったのか、ということを議論しない。あえて避けているように私には思える。

私は、「現憲法は戦前の憲法に比べてとても良くなった、さらに良くしよう」、という考えである。

だから、たとえば、憲法の初めには現在の第十一条~第十三条を第一条~第三条にし、さらにこの三つの条文は憲法改正ができないように規定すべきと私は考える。

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

引用元は"電子政府の総合窓口 日本国憲法"である。

ところで、著者は「現憲法は戦前の憲法に比べて良くなった」という書き方はしていない。だから私と意見が一致しているとはいえない。

ただ、原憲法の評価はどうなの、と問題提起しているところに共感を得るのである。


前書きからずいぶん外れてしまったが、この本を読むきっかけになったことなので、あえて書いた。


さて、前書きである。

「人間はそこにドアノブがあると回したくなり、ボールが転がっていると蹴りたくなる。」

人間はそういうものだ、ということを読んですこし安心した。(少なくとも、そういう人が少数だがいる、ということだ。)

ずいぶん前のことだ。20年くらい前のことだろう。勤め先の会社で、ある時、会議を今まで行ったことのない会議室でやる、というので、場所を知っている人に案内してもらった。

教室風の建物で、それ以前は社内教育で使っていたところが使わなくなり、会議室にした、という印象だった。廊下を進んでいくと、廊下の所々に水道の蛇口がある。手を洗うのにちょうどいい高さだが水を受けるボウルの部分がない。使わなくなったので取り外したのだろう。水道の蛇口は簡単に取り外すことができなかったのでそのままになっている、という感じがした。

ちょうどいい位置に蛇口のハンドルがある。

回るのかなぁ。

少し回したら水が出てきたので慌てて閉めた。廊下が少し濡れてしまった。

同行の人が行った。「それ、回すかなぁ」

そうか。普通の人は回そうとはしないのか。

自分の反応に苦笑するほかはなかった。

昔からそうだった。ネジがあれば回す。バネを見れば押す、あるいは引っ張る。戸があれば空ける。スイッチがあれば入れてみる。

子供の頃、電球が切れたので交換するように親に言われた。白熱電球である。電球を回して取り外すと、ソケットの内部が見えた。周囲に丸ネジが切ってあり、その奥には板バネがある。電球に流れる電気は、一つの電極がその板バネ、もう一つの電極は丸ネジであることは分かっていた。

板バネは人差し指で押すとちょうどいい具合に輝いていた。(何がどのように"いい具合"なのかはよく分からない)。

実際の所、この板バネは押されることで本来の役割を果たすのである。板バネは「押してちょうだい」と言っているように感じられた。

人差し指を伸ばして板バネを押そうとした。そこには100Vの電圧がかかっているので、指が触れた瞬間にいきなり「ビリビリビリ」ということになった。

アフォード力が異常なのだろうか。

「"虎の尾"を見つけたら、踏んでみたいと思って抑えが効かなくて踏んでしまう」、という人がいるという。

私は度胸がそれほどないので、そこまでは行かない。妻や子、孫に迷惑をかけるわけにはいかない。

でも自分がもし結婚せず、従って子供がなく、当然ながら孫もいない、という状況なら、と考えてみる。

おそらく、自分一人ならもっと大胆なことをしていたに違いない。もちろん、法を犯さない、という範囲だが。

"虎の尾"。確かに魅力がある。気のせいかもしれないが「踏んでください」と言わんばかりの姿をしている。

踏んだらどうなるのだろうか。

虎がいきなり頭を上げて飛びかかってくるのだろうか。それなら逃げる準備をしておけばいい。

隠れる建物がないならどうする。いや、虎だっていきなり飛びかかってくるのではないだろう。まず相手を見極めてそれから飛びかかってくるのに違いない。それならこちらは踏んだらすぐに逃げることに決めていれば、虎が一瞬判断に迷っている間に逃げればいい。

あるいは、尾を踏んだらすぐに身をかがめて息を潜めたら気がつかないかも。幸いにもこちらは風上にいる。


どうしてこんなに"虎の尾"を踏みたいのだろうか。"虎の尾"を見つけた時を想像したときのその高揚感はいったい何なのだろうか。


ああ、踏んで見たい。

52*. さりげなく思いやりが伝わる大和言葉
常識として知っておきたい美しい日本語

上野誠
幻冬舎
2015年6月 第2刷発行

はじめに

大和言葉を大切にする

(途中略)

私たちの祖先は外国の言葉を取り入れてきました。だから、日本語を「大和言葉」と「外来語」の二つに分けることもできます。

▲大和言葉…もともとあつた日本語
△外来語…中国から来た言葉
    …ポルトガルから来た言葉

(中略)

私はよく学生に言います。「紙切れをポルトガル語では『カルタ』、ドイツ語では『カルテ』、英語では『カード』という。しかし、ポルトガルから来たカード遊びで遊んだ人々は、その紙切れを『カルタ』と呼び、ドイツで医学を学んだ人々は診療記録紙を『カルテ』と呼んだわけだよね。私たちはみごとにこれらの言葉を使い分けているではありませんか?」。

(中略)

だから、何がなんでも、日本人なら大和言葉を使わなくてはいけないというのは、言葉というものの性質をよく知らない人の言い分です。

それは、大和言葉のセンスをみがくことが、現代においては、たいそう難しいからです。そこで、なるべく大和言葉のもっている微妙な言い回し(ニュアンス)をうまく使いこなせるように、センスをみがくことができたらよいなぁ、と思いつつ、本書を企画しました。

 だからといって、外来語を排除するようなことはしません。大和言葉と外来語を区別することは大切かもしれませんが、区別したからといって、言葉の使い方がうまくなるなどとは思わないからです。

(以下略)

この本では、上記で参照した前書き("はじめに"で始まる文)に続いて目次があり、その後に、272の言葉を11の章に分けて解説している。

"さくいん"に収録された言葉の数は272である。一つの項目に複数の言葉が説明されているところもあり、項目の数は215である。

"ねぎらう"、"いたみいる"、"思いのたけ"、"たたずまい"、"奥ゆかしい"などの言葉がちりばめられている。

それで、最初の項目は何かというと、"ちょうだいする"である。

あれっ、"頂戴する"なの?たしか、この本の題名は「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉」のはず。最初から中国由来の言葉が出てきている。

二番目の項目は"もったいない"。あれっ、"勿体ない"、これも中国由来の言葉だ。

その後は"お招き"、"おいでいただく"、"一入ひとしお"などと大和言葉が並ぶ。

巻末に"さくいん"のページがあるので眺めると、"宴たけなわではございますが"、"往生際"、"黒文字"、"極楽とんぼ"、"古式ゆかしく"、"事と次第によっては"、"言葉を飾る"などの中国由来の言葉が含まれる項目がある。

ここで整理しておこう。

本の題名は、「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉」で、「常識として知っておきたい美しい日本語」という副題が付いている。

前書きでは、「外来語を排除しない」という方針が述べられている。

本文では、大和言葉の項目が大部分だが、中国語由来の言葉を含む項目も少なからずある。

要は、副題と前書きと本文は一致していて、題名がずれているのである。だって、「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉」だったら、「大和言葉」だけを対象にするはずだから。

すこし考えてみた。

そういえば、このシリーズでも、これと似た状況を書いている事を思い出した。

過去の記事をチェックすると二つ見つかった。

一つは、「29. 角川古語辞典」、もう一つは「47. 人生に必要な知恵は幼稚園の砂場で学んだ」である。

前者では、外箱の帯のキャッチフレーズ的な文章と前書きが一致せず、後者では、邦訳の題名と内容、あるいは邦訳の題名と原著の題名が一致しないというものである。

具体的には次のようなことである。

角川古語辞典

外箱の帯には、"本書の特長"として第一に収録語数が多い、という事を挙げているのに対し、前書き("この辞典のねらい"という見出し)では、「無駄な言葉を省き、必要なことは懇切に説明するということを常に念頭において編纂されました」、「いたずらに語数の多い辞典を使って神経を擦り減らすよりも、必要なことばかりを要点を絞って親切に解説した辞典で勉強するほうが効率よく勉強できるでしょう」などと書いていて、収録語数が多いことを否定している。

人生に必要な知恵は幼稚園の砂場で学んだ

原著の題名では"幼稚園の砂場"ではなく単に"幼稚園(Kindergarden)"である。また本文は、原著でも邦訳でも"砂場"という言葉はほとんど出てこない。

この二つの例では、著者(訳者、編者)と出版社の意見の違いではないかと想像している。

売れ行きを伸ばすために、なるべく人目を引く言葉を押し出しているのだろうと。

そもそも、題名と副題の関係がちょっと変わっている。

多くの場合、副題は題名がわかりにくいときにそれを補足するような言葉にするものである。

たとえば、このシリーズで取り上げた例でいうと、「フリー <無料>からお金を生み出す新戦略」がある。題名が単に「フリー」であったなら、何の本なのか見当がつかない。そこで「<無料>からお金を生み出す新戦略」という副題が付けられているのだと思う。

題名が「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉」、副題が「常識として知っておきたい美しい日本語」では同じような言葉が並んでいるだけである。


出版社の意向が働いた結果このようになったのではないか、と想像する。次のようなことである(もちろん、勝手な想像である)。

著者は「常識として知っておきたい美しい日本語」という題名を考えた。

出版社側は、"日本語"よりもインパクトが強い"大和言葉"を使うべきと考えた。さらに"さりげなく"、"思いやり"という二つの言葉をいれた。確かにこの二つは大和言葉の代表としてふさわしい。「常識として知っておきたい」は"月並み"という印象を受ける。

ちなみに、この二つの言葉は本書には収録されていない。

その結果、題名は「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉」とし、著者の案である「常識として知っておきたい美しい日本語」は副題という扱いにした。

残念なことに、「大和言葉に限らない」という本書の方針と内容に矛盾した題名になってしまった。


題名と内容が不一致になることを出版社側は気づかなかったのか、知っていて無視したのか、それは分からない。


さて、このように書いたところで、ふと思った。

私はお金を出してこの本を買ったのではない(図書館で借りたのである)。そういう立場で、本の題名と内容が一致しないと文句をいえる立場にあるのだろうか。

こう、思い直した。

私は題名が"大和言葉"ということからこの本を選んだのである。ところがいざ本を読み出すと、大和言葉ではない言葉が取り上げられている。

だまされた、とまでは言えないが、がっかりしたのは間違いない。

題名が"大和言葉"ではなく"美しい日本語"だったら借りなかった可能性がある。ちょうどいま、漢字が入ってくる前の言葉、つまり大和言葉について調べているので。

ということは、"大和言葉"という言葉に惹かれて借りたのであり、これは出版社がまさに期待した(と私が勝手に想像している)ことが起きたという事になる(買ったのではないが)。出版社のもくろみは当たったのである。なるほどね、と思った。


ここで実感したのは、前書きを読むと、著者の考え方、著作の方針といったことがじつによくわかる、ということである。

著者が伝えたかったのは"美しい日本語"であり、その中核は"大和言葉"だろうが、決して外来語、外国に由来する言葉を排除する考えではない。

想像をたくましくすれば、題名が「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉」になると出版社から知らされた著者は、やむなく、「外来語を排除するようなことはしません」、という文言を挿入して強調した、という可能性もある。

真実は定かではないが、"よい前書き"はこの例のように、「大事なことを語っている」、ということを再確認した。


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