前書き・後書きの部屋 [3]


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21. 被写体
22. 和英併用 新修広辞典 第4版
23. SANSEIDO'S GEM DICTIONARY
24. バガヴァッド・ギーター
25. バガヴァッド・ギーター=2=
26. 新古今和歌集 上下
27. 年金がアッという間にわかる本  11訂版
28. 古今和歌集
29. 角川 全訳古語辞典
30. 古典の読み方


21. 被写体

マガジンハウス
三浦友和 [著]

あとがき

・・・・・・・・
私は本業の物書きではないから、書くスピードは極めて遅い。また、それだけが理由でもない。この過去を振り返る作業が重苦しかった。楽しい思い出ではない。書きなぐりのその当時の文章を見るたびに、そのときの感情が呼び起こされ、ついでに自分の愚かさもさらけ出され、机には向かってみるものの、数行も進まず席を立つということを繰り返していた。

・・・・・・・・

気を取り直し、また読み返し、書き直し、書き足した。

読んでこれほど切なくて、憤りを覚える本はそれほどあるわけではない。

一組の夫婦が、マスコミに追いかけられ、生活を脅かされる。

一組の夫婦と書いたが、そうであることを切に望む。

二人のお子さんに悪影響が大きくはないことがせめてもの救いである。もっとも今の時点ではお子さんとはいえない年齢になっているのだが。

この本が最初に出たとき、書店で立ち読みした記憶がある。しかし、購入して読む気にはなれなかった。

あまりにもいたたまれなかった。

初刷りから8年が過ぎて、今回読むことになった。

多分、書店で手に取ったとしたら今でも購入には至らなかったのではないか。

今回はインターネットで通販で購入したのである。

決して許されることではないが、こういうことはあるのだろう。やっている側が罪を犯していると認識していることは、人権擁護局に訴えたとたんに取材が急におとなしくなった、ということからもわかる。しかし、英国の元プリンセスがマスコミに追いかけられ、交通事故を引き起こして命を落としているくらいなのである。

世の中に理不尽なことは山ほどある。しかし、たった二人の人間が一方的に理不尽な扱いを受けるというのはあまりにもひどいことである。

書名は「被写体」であるが、「虐待」と言っても過言ではない。


22. 和英併用 新修広辞典 第4版

集英社
宇野哲人 [編]

今回私はこのような、読仮名・字音・字訓・わけ・英語・草書と、縦に並べた辞典を、一般の方々、学生諸君のために作りました。国語を表す文字は漢字と仮名がありますが、その漢字はおよそ五万もあって、これを皆読み書きすることは到底できません。そこで、昭和二十一年に当用漢字として千八百五十字が定められ、各官庁以下新聞・雑誌その他では当用漢字を用いることになりました。

・・・・・・・・

漢字にはまた楷書・行書・草書と、書体がいくつもあります。これらがうまく書ければ実用にもなり、美しさもあります。本書にはこれをあわせて載せました。どうぞ、日常この辞典を座右において、正しい読みとわけと、正しい使い方になれてください。

この辞書をどうして購入したのかは記憶にない。

辞書としては縦長のコンパクトなものである。ただし、辞書用の薄い用紙を使ってはいないので本として厚みがあり、あるページを強く開くと開き癖が残る。

この種の辞典は数種類出ている。

父の机の上にこの種の辞書があったのを覚えている。ただし開いているところは記憶にない。

田舎の農家に育った父は、高等小学校を卒業するとすぐに、近くの町に住む叔父を頼って家を出たそうである。

字を書くのが好きで、近くの寺で塔婆を書くことを、今の言い方ではアルバイトだろうか、していたそうである。

このようなことを本人は決して口には出さなかった。

おきまりの、「知人の保証人になったばかりに、家と土地を処分して町に出てくることになつた」、と聞かされていた。

もちろん子供たちは作り話だとは承知していたが、どのような事情なのか、どのような経緯なのかは知らなかった。母と結婚する前の話であるから母も知らない。

父の死後、しばらくして、父の弟、したがって私の叔父から聞かされた。

初めて聞いたことだ、と言うと、「そうか、兄貴は話していなかったのか。話したっていいことだよな」と叔父は言った。

父の生き様を知る点で、叔父が偶然この話をしてくれたことを感謝している。

父が漢字に、あるいは字を書くことに思い入れがあったことはうすうす感じていた。

父が私に何かを教えてやる、とか言って私の勉強に立ち入ってきたことは、覚えている限りたった一度だけである。

何かの本を元にこの漢字はこういう意味で、というようなことを言い出したのだ。

突然なので驚いたことを記憶している。

だから、例えば広辞苑のような大きな辞書を持っていて当然だと思うのだが、机の上にはなぜかこの種のコンパクトな辞書がこじんまりと立てかけられていた。

「自分にはこの辞書が分に合っている」と父が思っていたのだろうか、と思い出すことがあり切ない気持ちになる。

父にとって勉強したくてもできない環境だったことは事実である。

この辞書の序にあるように、「日常この辞典を座右において、正しい読みとわけと、正しい使い方」を確認するためにこの辞書を引いていたのだろうか。

何かの折に、「広辞苑にはこう書いてあるそうだぞ」と言ったことがあった。広辞苑は絶対的な基準で、またそれは自分には手の届かないもの、というニュアンスを感じたことがある。

だから手にしようとはしなかったのではないのだろうか。

広辞典、広辞林、そして広辞苑と、一字違いの辞書がある。それぞれ個性の強い、印象深い辞書である。


【追記】父の思い出として、一回だけ漢字を教えてやる、と言われたことを書いたが、そのほかに二つほど記憶していることがあるので書いておこうと思う。

一つは、格言の話になって、「衣食足りて礼節を知る、というが、本当にそうだなあ」と言ったことである。突然なのでびっくりした。

「衣食が足りないばかりに礼節を全うできなかった」という悔しい経験があったのだろうか、とその時に思った。

もうひとつは、父が子供のころに、その父に、「こぼれた米粒なんかひろうな、そんな時間があるなら字を一つでも多く覚えたほうがいいぞ」と言われたというのである。

そして、「おじいさんは考えが開(ひら)けていたよなあ」と言葉を続けた。

「考えが開(ひら)けていた」とは、「進んだ考えかたをしていた」、つまりは、「考え方が合理的」ということだろう。

父の生家は農家だが、コメ農家だったのかはわからない。

いまでは「常陸秋そば」ですっかり有名になった金砂郷村(現在は常陸太田市と合併して常陸太田市になっている)である。

そばがとれる、ということは多くの場合、米を作れるような肥沃な土壌に恵まれていないことを意味する。

痩せた土地でも作れる"そば"を作っている、ということである。

コメ農家ではないと思うが、米がどのような意味を持っていたのかはわからない。

考えてみると、私にとって亡き父の思い出というのは、小さなことはいくつかあるが、強い印象として残っているものは少ない。

私の子供にとって、父としての私の思い出は、やはり少ないだろう。それでいいと思う。


23. SANSEIDO'S GEM DICTIONARY

三省堂
三省堂編集所 [編]

はしがき

超小型で簡便、しかも実際に役に立つ理想的な小辞典であるこの辞書が初めて世に出たのは今から40数年も前の1925年(大正14年)の秋であった。

・・・・

その間、時勢は太平洋戦争から終戦への歴史的大変革を経験し、幾多の試練を経て今日のような宇宙時代へと推移したが、一方世界的な距離のせばまりとともに、日本における英語界の発展はまた著しいものがあった。

・・・・・・・・

編者はこのような時代の移り変わりのなかにあって、常に資料蒐集の努力を怠らなかったが、ここに再び稿を改め、第5版を世に送ろうとする。第5版を編集するに当たっては、前回改訂以後の米英両語の動きを見守りつつ、常に当初の編集方針を堅持して、より精緻な辞書の完成を目指した。和英編では新たに、

.........

なお、今回の改訂に当たって、成蹊大学教授芦川長三郎先生、電気通信大学助教授伊東富士麿先生の適切な助言と長期にわたる多大のご援助を賜わった。ここに厚く感謝の意を表するものである。

1969年8月

三省堂編集所

この辞書は英和辞典と和英辞典を1冊にしたもので、表(おもて)が英和辞典、裏が和英辞典である。

表と裏は逆と考えてもかまわない。表紙、はしがき、など、ちょうど対象的に並んである。

ただし奥付は英和の部の最後にのみあるから、厳密には英和の部が表(おもて)なのだろう。

前述のように、まえがきは表側、裏側の両方にあり、上記に示す本文は、英和辞典の側のものである。

和英辞典のまえがきはどうかというと、上記の様に段落が六つあり、そのうちの五つは全く同じで、六番目の段落だけが、「和英編では新たに、.........」という書き出しで、その部分だけが違っている。当然と言えば当然だが。

最後の段落に、協力者二名が挙げられていて、これは英和編、和英編ともに全く同じ文章である。

最近の辞書では、シリーズものになっている英和辞典と和英辞典の編者は異なることが多いが、この辞書では、編者は英和、和英の両方に関与していたようである。

コンパクトな辞書であり、同じメンバーで英和、和英の両方を編集できたということであろう。

この辞書では、第三の段落で、「常に資料蒐集の努力を怠らなかったが」とあり、英和、和英の両方を同時に作業していたことになる。つまり、英和辞典と和英辞典を1冊に合本するという形態が前提になっている。

このサイズ(実に「手のひら」サイズ))は海外旅行をターゲットにしたものか。現在では電子辞書がその役目を果たしているはずである。

そこで調べて見ると、書籍の形でも発行されているが、電子辞書としても販売されている。

厚さ7mmで、本のしおりにもなります、ということで、超小型の電子辞書のようである。

製品名に「しおり」という言葉が入っているが、厚さ7mmではしおりにしたら本がいたむのではないだろうか。

「英語界」という表現には驚く。

英語に関する出版業界ということか。要は英語で飯を食っている業界。関係者の間では、英語界という表現で特定のイメージがわくのだろうか。

昔聞いた漫才のネタで、こういうのがあった。

「僕の結婚式はすごかったで。ザイカイから多くのお祝いをいただいて」

「きみの結婚式に財界からお祝いがあるのかいな」

「経済界(ケイザイカイ)やない。漫才界(マンザイカイ)や」

そういえば経済界という言葉もすごいな。それには、大学の経済学の研究者は含まれていない。

辞書の片隅に、「財界の指導者」に対して、business leaderと出ていた。

経済とは、economicsとbusinessの両方の意味があるのか。

政治は政治界とはいわず政界という。

政治界をインターネットで検索すると、数は少ないものの、政治界もある。

政人、政治人はないな、と思い、インターネットで検索すると、政治人はないが政人は多数ヒットした。

よく見たら、人の名前だった。なるほど、「まさひと」、「まさと」、などはあるね。

そういえば、野球界、野球人というのもあったな。でもサッカーについては余り聞かないな。これもインターネットで検索すると、サッカー界もサッカー人もあるが、サッカー人はサッカー界の1/20ほどだった。

「××人」というのはかつて、はやったもののような気がする。サッカーはそれが下火になったときにブームになったのだろう。


24. バガヴァッド・ギーター

講談社学術文庫
講談社
鎧 淳 訳

まえがき

「私利私欲を離れ、執着なく、なすべき行為を果たす」という教えにいたく感動した。
・・・・・・・・

私が「バガヴァッド・ギーター」に心惹かれるのは、ひとえにこの部分にある。ただし疑問付きである。「なすべき行為」とは何か。意外に何も書いていない。一番近いと思われるのは、神に対する祭祀である。しかしそれでは、ヒンドゥーではない私には取り付くことができない。いろいろと探して手がかりを探したのだがわからない。一人一人が捜し求めるのだ、という"悟り"にすがることはしたくない。私はあくまでも論理的に考えたい。


25. バガヴァッド・ギーター=2=

講談社学術文庫
講談社
鎧 淳 訳

まえがき

ギーターを手にしてから、すでに半世紀余が経過した。この間、内外のギーター研究に関心を注ぎつつ、ここに拙訳を作成し了えて、おもい半ばを過ぎるものがある。なお本書は、さきに中公文庫に収録されていたものであるが、この度、旧訳注の誤記、誤植をできる限り正し、また訳注部については、若干の訂正と補足を施し、改めて本学術文庫で読者に供することとした。
・・・・・・・・

まえがきのこの部分を読まずに本文を読みすすんだのだが、本書の全体に新しいイメージに比して、文章がなにか古くさい感じがした。

新しいイメージとは、例えば、活字の読みやすさ、文字の大きさ(新しい文庫では文字サイズが全体に大きいように思う)、行間が比較的広い、などである。

読みやすさの点で改良が続けられていると理解している。

古くさいとは、「縁(えにし)ゆかりの徒輩(ともがら)」とか、「殿ばら」とか、の表現である。

そこで例によってインターネットで検束すると、「完訳 バガヴァッド・ギーター」が上記のとおり、中公文庫の一冊として刊行されていることがわかった。

ただし、1998年の出版とある。多分初版はもっと古いのではないか。

それで本書は、体裁としての新しさと、文章の古くささが入り交じって、ちぐはぐな印象を与えるに至った。

もっとも、宗教の教典であるから、表現の古くさいのはがまんすべきかもしれない。


26. 新古今和歌集 上下

角川文庫
角川書店
窪田 淳 訳注


この本自体には、前書きのようなものはない。ただし、原文にある「序」と「仮名序」が含まれているので、それについて書くことにする。

「序」は原文が漢文で、その読み下し文と現代語での訳文が添えられている。「仮名序」には現代語での訳文がある。この本の目次では、「序」は「真名序」と表現されているが、「仮名序」と対応させてわかりやすくしたものか。以下でも、「真名序」という表現をする。

私は、漢文を判読することも、漢文の読み下し文でも古文でも理解するのは難しいので、もっぱら現代語訳に頼らざるを得ない。ただし、「真名」が仮名に対応する漢字を意味することは知っている。つまり、高校で学ぶ古文・漢文のレベルである。

真名序と仮名序は、ほとんど同じ内容である。違っているところの代表は、修飾表現である。

たとえば以下のようである。

真名序・・・・崑嶺の玉は、これを採れども余りあり、鄧林の材は、これを伐れども尽くること無し

仮名序・・・・伊勢の海清き渚の玉は拾うとも尽くることなく、泉の杣繁き宮木は引くとも絶ゆべからず

真名序の書き下し文と仮名序の原文は、なんとなく意味が伝わるので、現代語訳を載せなかった。このほうが対応関係が明らかになるからである。

崑崙とは崑崙山脈のことかと思ったが、念のため辞書を引くと、中国の伝説上の山、という意味もある。玉を産出するということなので、こちらだろうか。しかし、崑崙山脈方面の旅行記とか旅行ガイドブックでは、よく、「崑崙の玉」と書かれているので特に区別する必要はないだろう。「鄧林」は伝説の柚の木で、材とは秀歌の比喩と注にある。また、「伊勢」は言うまでもない。「泉の杣」は大和国の歌枕と注にある。要は、漢文である真名序では中国を引用し、仮名序では日本を引用した、ということである。このように表現が異なっている場合でも、文の型が同じになっている。


全体の構成は以下のようになっている。
(1) 和歌の歴史の概観(特に七代集)
(2) 今回の新古今和歌集の位置づけ
(3) 編集の基本方針
(4) 最終的な編者となる後鳥羽上皇の編集方針
(5) 編集方針の詳細

これは、「真名序」も「仮名序」もほとんど同じである。

全体として、書かれた文章全体が非常に明哲であることに感動する。

日本語でこのように簡潔に、そしてわかりやすく表現された文章はなかなか遭遇することがない。

私が最も多く目にしてきたのは、いわゆる技術文書であり、しかもその半分ほどは英文である。しかし、この新古今集の序文の明哲さは、まるで技術文書の手本になるくらいである。

その理由を考えてみた。

・構成が整っている(論旨の展開が合理的)
・文章(表現)がわかりやすい
・無駄がない
・表現が格調高い

表現が格調高いことが技術文書に求められるか、と疑問をもたれる方がいらっしゃるかもしれないが、やはりあると思う。

たとえば技術者同士が話をする場合、相手について「一目置く」べきと感じることがある。この人はなかなかの人物だ、と感じるのだ。

逆になめてかかる気持ちが生じることがある。もちろん、なめられているな、と感じさせられることもある。

これは現実であり、重要なことである。

そういうときに、格調ということが感じられる。

必要なことを明快に述べ、かつ、つつましく添えられた修飾語は彩をそえるだけでなく、その意味がこころに響く。

明哲という言葉は、ずいぶん考え末の言葉だが、これ以上の言葉は思い浮かべることができなかった。

よい文章に出会えてすがすがしい気分だ。


27. 年金がアッという間にわかる本  11訂版

住宅新報社

はしがき

本書は革命である。
....
軽く読み流すだけで、これまでどの書物を読んでも理解出来なかった年金の仕組みが、魔法のように理解できることをお約束する。なぜ、これまで本書のような書籍が存在しなかったのか。答えは簡単である。日本広しといえども、本書を執筆できるのは筆者以外存在しないからである。筆者は長年の社会保険労務士試験受験指導の経験の中から、年金を理解するための絶対的な理論を編み出した。この理論は筆者独自のものであり、他のだれもそこに気づいていないこと(若しくは、気づいていても、体系化していないこと)を確信している。

本書では、この革命的な新理論を余すことなく紹介した。一読することで、あなたは、新理論の絶大な価値を実感されることであろう。
・・・・・・・・

私は年金制度を理解しようと、数年前から解説書を何冊か読んできたが、最新の情報を確認するために今回これを求めたものである。

書店で立ち読みして、もっともわかりやすいのでこれを選んだ。

この本が異様にといっていいほどわかりやすい理由はすぐにわかった。

どうしてわかりやすいのか。

こま込ました規定が絡み合っているのが、よく整理されているからである。

よく整理されているとはどういうことか。なぜそうなっているか、という理由付けがきちんとなされているからである。

不思議なことに、どうしてそうなっているか、ということについて書かれた本はほかにない。

他の解説書では、現状の規定を説明するだけでせいいっぱいと感じられた。

書店での立ち読みの時には、さすがに、このはしがきまでは読まなかった。

家に帰って、ゆっくりと読み出して、この意気盛んな、自信満々のはしがきを読んだ。

この部分を読んで、ますます、この著者は本当に年金制度を理解しているのだ、と確信した。

他の本について、不満はいろいろある。

まず第一に、索引がないものが結構多い。大雑把に言えば、半分は索引がなく、残りのさらに半分は索引の項目が足りない。

これは手抜き以外の何者でもないだろう。

それから、これは大事なことだが、本書は少数派の横書きである。

他の本では、なぜ、このように数字があふれる文章を縦書きにするのだろうか。

また、年金であれば年金額の計算式が出てくるが、計算にあたって参照べき一覧表が省略されていることも少なくない。著者はわかっていないのではないか、と疑ってかかりたくなる。

年金制度は、それほど難しいわけでもないのに、どうしてこんなに説明できていないのか、といままで腹立たしい思いをしてきた。

ようやくまともな解説書に出会った感がある。

本書のはしがきは、「はしがき」というタイトルから続く文章(それほど長くはない)に続いて、3訂版はしがき、4訂版はしがき、というように続いて、本書の11訂版はしがきまで、それぞれ短い文が続いている。

なぜか3訂版の前の改訂版(2訂版に相当する)はない。

なお、奥付けを見ると、初版が平成10年、8訂版が平成16年となっている。本書は平成19年の刊行で11訂版である。最初の数年の間は年毎に改定したというわけではないようだ。

備考:この「はしがき」では、赤字や太字で強調された部分がある。序文ではまれなケースで、このことからも著者の意気込みが感じられる。


28. 古今和歌集

角川ソフィア文庫
角川学芸出版
高田祐彦訳注


新古今和歌集の序文に感動したので、それでは古今集の序文も、と考えた。こちらは新古今和歌集から300年ほどさかのぼる。新古今と同様に、仮名序と真名序があり、内容がほぼ対応している点も同じである。

驚くのは、その内容の過激さである。

和歌の歴史を述べ、また、分類などをおこなった後、歌人の評価にかかる。

昔の歌人として柿本人麿と山部赤人が上げられ、どちらも飛びぬけてすばらしいと評される。

次に、近頃の名高い歌人として6人が上げられる。

僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大伴黒主で、これがいわゆる「六歌仙」。

ただし、評価は手厳しい。次のような有様である。

僧正遍昭は、歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば絵にかける女を見て、いたづらに心をうごかすがごとし。(歌の姿は備わっているが、真実味に乏しい。たとえば、絵に描かれた女を見て、むなしく心を動かすようなものだ。)

在原業平は、その心あまりてことばたらず。しぼめる花の色なくてにほひ残れるがごとし。(歌に詠みたい思いがあふれすぎていて、ことばの方が及ばない。)

文屋康秀は、ことばはたくみにて、そのさま身におはず。いはば、あき人のよき衣(きぬ)着たらむがごとし。(ことばの用い方は上手であるが、その歌の姿が歌の中身と釣り合わない。いわば、商人が上等な服を着ているようなものだ。)

宇治山の僧喜撰は、ことばかすかにして、はじめをはりたしかならず。いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。・・・・詠める歌おほく聞こえねば、かれこれを通はして、よく知らず。(ことばがっきりせず一首の初めと終わりが明瞭ではない。いわば、秋の月を見ていて、暁の雲に隠されてしまったようである。

小野小町は・・・・いはば、よき女のなやめるところあるに似たり・・・・ (いわば、美しい女が病を得た風情に似ている。)

大伴黒主は、そのさまいやし。いはば、薪(たきぎ)おへる山人の花のかげに休めるがごとし。(その歌の姿がいやしい。いわば、薪を背負った山人が花の陰に休んでいるようなものだ。)


真実味に乏しい、ことばが不十分、着ている服が上等なだけ、一首の初めと終わりが明瞭ではない、美しい女が病を得た風情、歌の姿がいやしい、などと、悪口と言っていいようなことばが並ぶ。

僧喜撰については、詠んだうたが多く知られていないので、とまで言っている。

「詠んだうたが多く知られていない」人を取り上げて、なぜあげつらうのだろうか。

ただし、この6人がぜんぜんだめかというと、そうではなく、「このほかの人々で、その名が知られていている人は、野辺に生えている葛が這い広がるように世に広まり、林に繁っている木の葉のように多くいるけれども、詠めばそれが歌だとばかり思っていて、歌の『さま』というものを理解していないにちがいない」と、身もふたもない。

その後、天皇が、「紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑らに仰せを下して、「万葉集」に入っていない古い歌やその者たち自身の歌をも献上させて」、と続く。

つまり、柿本人麿と山部赤人が第一等で、次に編者、次に六歌仙、その下にその他の歌人、という序列か。

それにしても、特定の歌人の名を上げて酷評する、というのはまったく理解できない。一体、何なんだろうか、この序文は。


29. 角川 全訳古語辞典

角川書店
久保田 淳
室伏信助 編

この辞典のねらい

この辞典は高等学校の古文学習に役立つように、無駄な言葉を省き、必要なことは懇切に説明するということを念頭において編纂されました。
(途中略)
いたずらに語数の多い辞典を使って神経を擦り減らすよりも、必要なことばかりを要点を絞って親切に解説した辞典かで勉強するほうが効率よく勉強できるでしょう。

この文章を読むと、この辞書は、収録語数は少ないが、一つ一つの言葉の解説は懇切丁寧であることを特長にしているように思われる。

ところがである。

外箱の帯を見ると、ひときわ大きな文字で、「最大語数の全訳版古語辞典」、とある。

それで、外箱の裏側をみると、本書の特長というタイトルで、4項目が書かれているが、その最初の項目には、「全訳版では最大の三万一千語を収録」、とある。

一体なんなんだ、と思わざるを得ない。

すでに書いたが、最近、新古今集を読み出した。

文学に疎い私のようなものにとって、新古今集を原文で読めるわけがない。注と現代語訳を読みながらの悪戦苦闘である。

しかし、これはなかなか面白く、次に和泉式部日記を読んだ。角川ソフィア文庫にあって非常に読みやすいと思ったからである。

しかし、これがまた強烈で、古典の魅力的なことに初めて気づいた。

少しでも原文で読みたいものだ、それなら古語辞典が必要だ、ということで、書店で品定めとなった。

有明(ありあけ)というのは古典ではありふれたもので、これを立ち読みで、いろんな古語辞典を読み比べてみた。

「有明のつれなくみえしわかれより暁ばかり憂きもはなし」という壬生忠岑(みぶただみね)の歌を覚えていたのだ。

「有明」とは後朝(きぬぎぬ)の別れ、ということと切り離せない(と思っていた)ので、これを引用しているかと思ったら、ほとんどの古語辞典に書かれていなかった。

その中で、この古語辞典は、後朝(きぬぎぬ)の別れ、に言及していた。

編者が、最近読んで感動した角川ソフィア文庫の新古今集(上)(下)の編者である久保田淳氏であることもあり、これを選んだ。

その時点で、この辞書がめざしているという、「語数を誇らない」、という編集方針には気づかなかった。

しばらくして、外箱の帯、外箱の宣伝文句、前書きに相当する巻頭の「この辞典のねらい」などを読み出して気づいたのである。

出版社と編者の思惑の違いだろうか。

出版社にしてみれば、売れ行きは最大の関心事で、それには、収録した単語数は、大きな"うたい文句"になる。

一方、編者にとっては売れ行きは二の次で、その辞書のでき具合を問題にするだけであろう。

そういうものかな、と思った。


30. 古典の読み方

講談社学術文庫
藤井貞和

はじめに


「古典」という名にふさわしい何ものか、その「何もの」かを、われわれ現代人はいったん、情報としてひきうけ、処理しなければならないということだ。何が「すぐれている」かはそのような情報処理の中で見えてくる。
・・・・
本書では、古典文学を趣味として読むのではなく、本格的に学ぶ読者のために参考になるような意見を提供することにした。
・・・・
「人生上の岐路に立って古典文学に触れてみようと思い立つ多くの読書家に読んでほしいように思う」

ここでは、「古典文学を趣味として読む読者」と「古典文学を学ぶ読者」というものが対照されている。

本文ではさらに、「一般読者の読書」と「研究者の読書」の比較についても書かれている。

結局は、古典文学を「趣味として読む読者」、「学ぶために読む読者」、「研究として読む読者」の三つのカテゴリーになる。

「研究として読む読者」とは、「職業として」というニュアンスが感じられる。プロである、ということであろう。

「学ぶために読む読者」という存在はどんなものか。

これは、同様にまえがきにある、「人生上の岐路に立って古典文学に触れてみようと思い立つ」ということか。

典型例としては、定年退職して、以前から興味があった古典文学を学んでみよう、という悠々自適派であろう。

前書きとしては、それほど惹かれるものではない。できるだけ著作の趣旨を丁寧に、かつ誠実に表現したもので、前書きの一つの典型である。

それで、肝心の本文はというと、非常に面白い。研究者の熱い想いが伝わってくる。古典文学の多くの側面が満遍なく取り上げられているのではなく、筆者が特に伝えたい項目をピックアップして解説したものである。

繰り返すが、非常に面白い。

前書きからそれが伝わらないので、前書きを立ち読みしただけでは、本書の面白さはわからない。ちょっともったいないと思うのである。

もっとも、前書きに注目するような人は少ないだろうから、なにも問題はないというなら、そのとおりである。

ついでだが、タイトルが、「古典の読み方」となっているが、「日本の」という限定がぬけている。

実際は海外古典ものは本書の対象外である。

どうも、日本文学、あるいは国語教育にかかわる人は、「日本」ということを当然としているようだ。

ちなみに、私の高校時代の現代国語の教師は、現代国語の授業に対して、「現代」と言っていた。

学生は漢文、古文、現国(げんこく、 現代国語の略)と言っていた。「

現代」と言えば、現代美術、現代建築、などあり、また歴史区分としての現代もある。

国語の専門家にとっては、「日本語」という限定は無条件につけられるもののようだ。

ソクラテス(本人の直接著作はないのでプラトンと言うべきか)やキケロを始めとして、海外の古典も心引かれるものか多いから、古典すなわち日本という暗黙の了解を期待するのはやめるべきではないだろうか。

「国語学会」が最近(2004年に)「日本語学会」に改称した、ということである。ただし賛否両論があり、相当な議論がされたようだ。



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