やらないという選択
[2020/11/28]
【41】やらないという選択
このサイトの一つに、「創作ことわざ」の部屋があります。
その一つに「山の頂に登ると次の山の頂が見える」を書きました。
記事を書いているときに、昔聞いた歌の一節を思い出しました。
クレージー・キャッツのホンダラ行進曲という歌です。
その歌詞の中で、「だから越さずにホンダラダホイホイ」という部分です。
これだけでは意味が通じないので、もう少し詳しく書くと、次の様なものです。
一つ山越しゃホンダラダホイホイ
も一つ山越しゃホンダラホダラダホイホイ
越しても越してもホンダラダホイホイ
だから越さずにホンダラダホイホイ
全歌詞となると、引用の問題が出てきますので、これだけにします。
実は問題があって、どうもこれは正しい歌詞ではないのです。
ネット上で歌詞を検索すると、このような文章はありません。
でも、私の記憶では、こうなのです。
ネット上で"だから越さずに"で検索すると、いくつか見つかりました。
部分的には違いがあります。
最も近いものの一つは、「ぎょぎょーむの部屋」というサイトの中の「ぎょぎょーむ日記」の"2000/06/21 (水) の記事"にありました。
リンクFree と書かれています。(念のため)
私が書いた"ホンダラ・・・・"というかけ声の部分だけが少し違いますが、そのほかは同じです。
あちこちのサイトを見ると、少しずつ違った表記があります。
何より私が書いた歌詞が違います。
【違っている理由】
もともと、昔の歌で、おそらく記憶をたどって書かれたものと思います。それで、自分なりに理解した歌詞を書いていると思います。
そしてもう一つの理由は、もしかしたらクレージー・キャッツ自身が私が書いたような歌詞で歌っていた可能性もあるとおもいます。
テレビの歌番組はいまではほとんどなくなってしまいましたが、昔はいくつかありました。
その場合、歌詞の全部が歌われることはまずありません。
1番だけ、あるいは1番と2番だけ、などというように省略して歌われることがほとんどでした。
一人の歌手の持ち時間の制限なのでしょう。
この歌の正しい歌詞では、1番は上に書いた様に、「一つ山越しゃ」です。一番だけが「山を越す」ということについて語っています。
問題は、「だから○○せずに」ですが、これは3番と4番の歌詞に出てきます。
3番の歌詞は「どうせどこでも・・・・だから行かずに・・・・」、4番の歌詞は「何をやっても・・・・だからやらずに・・・・」です。
「山を越す」ということは1番の歌詞に出てきますが、その終りは「どうせこの世は・・・・だからみんなで・・・・」です。
それで、私の想像では、一番の歌詞だけしか歌えないという場面で、1番の歌詞を変形して、「越しても越しても・・・・だから越さずに・・・・」と歌ったのではないだろうか。
つまり、クレージー・キャッツは、私が上に書いた様な歌詞で実際に歌っていたのではないか、ということです。
「創作ことわざ」の部屋の記事の「山の頂に登ると次の山の頂が見える」のなかで、「問題が一つ解決すると、次の問題が控えている」ということを書きました。
目標とする山の頂と思った所は前山で、その後ろに本当に目指す山がある、という状況と重ね合わせると、「越しても越しても」という言葉が印象的です。
「いくらやっても切りがない」状況です。
これは色々と議論されています。
私は今まで、"ひきこもり"とは、"努力することが足りない"、あるいは"簡単に諦めてしまった"というような、否定的なとらえ方をする傾向にありました。それがこのところ変わってきたのです。
苦労して問題を解決した、という時、通常は問題を解決した喜びを感じます。そしてそれは、そこに至るまでの苦しみより"大きな"ものと考えがちです。
それは私にとっての実感でもあります。苦労が大きいほど、報われたときの喜びは大きいということが言えます。
ですから、それを繰り返すと、喜びがどんどん増えていくのです。
しかし、そうでは無いこともありそうです。
問題を解決した喜びより、それに至る苦しみのほうが大きい場合、それが繰り返されると、苦しみがどんどん大きくなっていきます。これはつらい。
問題を解決した喜びと、それに至る苦しみのどちらが大きいか。これは「人と場合による」でしょう。簡単に決められるものではありません。
山登りをしていたときの経験を思い出します。
私は、山登りの直後は「山に登ったときの喜びと、それに至る苦しみ」については、苦しみのほうが強かったのです。それが現実です。ですから、「もう二度と山まには行くまい」と、いつものように思うのです。
私はいわゆる"雨男"で、山に行くと雨が降りやすいのです。山に行く理由は主に山の写真を撮ることなのに、雨が降ったらまず写真は撮れません。
そのことが大きな原因でしょう。
しかし、しばらくすると、今度はあそこの山に行きたいと思うのです。
山に行った直後は「苦しみの方が大きい」のですが、かろうじて「時間がたてば苦しみの記憶が薄れる」のでしょう。
私の場合の山は、「気が向いたとき」に行けばいいのですから、問題は少ないです。
仕事とか日常の人付き合いでは、「気が向くまでやらずにいる」のは許されません。
次からに次へとやってくる仕事とか人付き合いに関して、苦しみのほうが大きいと感じるのでは、これはやっていられません。
"ひきこもり"の状態になったのは、「自分を守る」、という本能である、とも思えます。
「もう、耐えられる限界まで来てしまった」ということです。
その時に、「やらないという選択もある」、という考え方は、大いなる救いでしょう。
「だからやらずに」とか「だったらやらずに」と考え方を切り替えるのは一つの道です。
そしてその選択は自分自身でやるしかありません。他人がとやかく言う問題ではないのです。
本人がした判断について、まずそれを尊重する、ということが先決です。
その上で、特に助言を求められたら、その時には自分の考えを言う、という順番になります。
「本人の判断を認める」ということが大事なことだと、最近になって身にしみて感じるようになってきました。
「(正当と)認める」あるいは「(正当とは思わないが)許す」ということについて、夏目漱石が武者小路実篤に出した書簡について別の所に書きました。その言葉が胸にしみます。
武者小路さん。氣に入らない事、癪に障る事、憤慨すべき事は塵芥の如く澤山あります。それを清める事は人間の力で出来ません。それと戦ふよりもそれをゆるす事が人間として立派なものならば、出来る丈そちらの方の修養をお互にしたいと思ひますがどうでせう。