日本語のあれこれ日記【53】

日本古典文学における発話の引用表現

[2020/1/13]


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土佐日記で発話の引用表現が気になる

土佐日記を読んでいて、発話の引用表現がなにか"ぎくしゃく"していることが気になりました。

こんな感じです。

ある人の子の童なる、ひそかにいふ。「まろ、この歌の返しせむ」といふ。

揖取のいふやう、「黒鳥のもとに、白き波を寄す」とぞいふ。

揖取、船子どもにいはく、「御船より、おほせ給ぶなり・・・・綱手はや引け」といふ。

カギカッコ(「」)は原文にはもちろん無いので、句読点とともに取り払うとこうなります。

ある人の子の童なるひそかにいふまろこの歌の返しせむといふ。

揖取のいふやう黒鳥のもとに白き波を寄すとぞいふ

揖取船子どもにいはく御船よりおほせ給ぶなり・・・・綱手はや引けといふ。

他の比較的古い作品ではどうか

古い作品として、竹取物語、古事記、日本書紀を当たってみます。

【竹取物語】

翁言ふやう、「われ朝ごと夕ごとに見る・・・・子になり給ふべきだなめり」とて

かぐや姫の言はく、「なんでふさることかし侍らむ」と言へば

かぐや姫言はく、「よくもあらぬかたちを、深き心も・・・・となむ思ふ」と言ふ

【古事記】

天皇詔りたまはく、「朕聞く、『諸家の・・・・多に虚偽を加ふ』・・・・」といへり

詔りたまはく、「稗田阿礼が・・・・献上れ」とのりたまへば

【日本書紀】

日はく、「底下に豈国無けむや」とのたまひて

対へて日はく、「吾が身に一の・・・・有り」とのたまふ

引用部分の前後に"いふ"が現れます。最初の"いふ"は、場合により"いはく"だったり"いふやう"だったりします。

この時代はこうだったのですね。

どう考えても"いふ"がダブっています。


このようなことは平安時代中期の女流文学が栄えた時代にはありません。


年代の古い順に並べると次のようになります。(成立順は確定していないことがあり、あくまで参考情報です。)

712 古事記
720 日本書紀
888~923 竹取物語
935 土佐日記

(市古貞次 日本文学年表 昭和57年3月 22刷 桜楓社 を参考にまとめた)

語順の問題

一般に、"日はく"は漢文の訓読に由来する、とされます。

漢文では基本的に、主語+動詞+目的語の語順です。

たとえば論語ではこうなります。漢文表記、読み下し文、現代語訳を並べました。

(論語 巻第一 学而第一より)

子曰、不思人之不己知、患己不知人也

子の曰わく、人の己れを知らざるを患(ウレ)えず、人を知らざる事を患(ウレ)う

先生がいわれた、「人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、人を知らない事を気にかけることだ」

金谷治訳注 論語 岩波文庫 岩波書店 1990年4月 第42刷

先生がいわれた、と言って、その内容を続けます。その内容がどこまで続くのかは明示的には示されません。文脈から判断すると言うことでしょう。

先生が + いわれた + 「・・・・」という構文です。

英語なら、Confucius said, "・・・・"でしょうか。

「孔子は・・・・と言った」、というぶっきらぼうな表現ですが、英語では敬語表現はあまり使わないので、仕方が無いですね。

これに対し、日本語では、先生が + 「・・・・」と + いわれた

という語順になります。

日本語の文章を書き始めた人たちは、中国語を読み書きできたのです。

逆の言い方をすれば、中国語を読み書きできた人だけが日本語の文章を書くことができた。

それまでに読んだ文章はほとんどが中国語で書かれた文章です。それをベースに日本語の文章を書くには、「誰々が言った」、とまず書かざるを得ない。

でも、最後に"・・・・と言った"をつけないと日本語の文章にならない。

目的語の後に動詞を続けなければならないのです。その結果がこうです。

誰々が言った「・・・・」と言った

古事記では

上にあげた4冊の作品の内、成立が一番古いのは古事記ですので、上にあげた古事記の文章の最初のものについてもう少し細かく見てみます。

次の4冊を取り上げます。

角川ソフィア文庫、日本古典全書、日本古典文学大系、日本思想体系版

まず原文です。漢字だけで書かれています。

於是天皇詔之朕聞諸家之所賷帝紀及本辞既違正實多加虚偽當今之時不改其失未経幾年其旨欲滅斯乃邦家之経緯王化之鴻基焉故惟撰録帝紀討覈舊辞削偽定賓欲流後葉

古事記という作品はこのように書かれているだけなんですね。

句読点がないので文の切れ目が分りません。引用している部分がどこなのか、それも明示されません。

すべて、内容から判断するほかに手はありません。

なお、上記4種の本で、原文の違いは見つけられませんでした。

また、文字については"賷"が問題でした。上記の4種の本では、"賷(も)てる"、または"賷(も)たる"という訓です。これが手元の漢和辞典に収録されていないのです。

私が使っているかな漢字変換システムatokの手書き入力では正しく変換の候補として出て来ます。音は"セイ"、訓は"もたらす"とあります。

それで、手元の漢和辞典、その他の辞典を見ると、"もたらす"については"齎"が見つかります。この文字は漱石の三四郎でも例文があるようです(精選版日本国語大辞典)。

"賷"と"齎"はどう違うのか。諸橋の漢和大辞典を見ると、"賷"は"齎"に同じ、と書かれ、"齎"の意味としては、「もたらす、持つ、あたえる、・・・・」などの意味が示されています。ここにおいて、"賷"は"持つ"と考えて良いと見ました。


それにしても、この書き方はなじめません。耳で聞くイメージでは棒読み状態です。仏教の経典はまさにこれですね。

少しわかりやすく書き換えてみます。

於是天皇詔之、「朕聞『諸家之所賷帝紀及本辞既違正實多加虚偽』。當今之時、不改其失未経幾年其旨欲滅。斯乃邦家之経緯王化之鴻基焉。故惟撰録帝紀討覈舊辞削偽定賓欲流後葉」。

内容をきわめて大まかにまとめると、次のようになるでしょう。

ここにおいて天皇はこういわれた「私はこういうように聞いた『帝紀、旧辞には正しくないことが書かれていたり、間違ったことが書き加えられている』。今の時点で修正しないと、数年の内にわけが分らなくなってしまう。これらは国家の基本である。内容を精査し、間違いは削除し、正しい内容を定めて後世に伝えたいと思う」

構文は次のようなものですね。

天皇詔之(天皇はこういわれた)「私はこういうように聞いた『・・・・』。それでは・・・・になってしまう。そこで・・・・のようにしたいと思う。」

なかなか複雑な構文ですね。

古事記より以前に書かれた文章は何かと思い、上述の「日本文学年表」を見ていくと、次のようなものが上げられます。

記紀万葉その他の和歌
碑文
憲法十七条
近江令
宣命
金石文(露盤銘、造像記)
三経義疏(経典の注釈書)

なにしろ大昔のことなので、現在まで伝えられた数も少なく、由来に疑問がのこるものもあります。

数が少なく、かつ時日を淡々と述べる、という内容がほとんどなので、ここで問題にしている引用文の取り扱いに就いて、参考にはなりそうもありません。

三経義疏はその例外ですが、これは私が踏み込める世界ではありません。


そこで、やはり古事記に留まって、上記の読み下し文を見てみます。以下、改行は読みやすいように変えています。

角川ソフィア文庫

是(ここ)に天皇(すめらみこと)詔(の)りたまはく、
「朕(あれ)聞く、『諸(ものものの)家(いへ)の賷(も)てる帝紀(すめらみことのふみ)と本辞(もとつことば)と、既(すで)に正実(まこと)に違(たが)ひ、多(さは)に虚偽(いつわり)を加ふ』といへり。
今の時に当たり、其(そ)の失(あやまり)を改めずは、幾年(いくとせ)を経(へ)ずして、其の旨(むね)滅びなむとす。
斯(こ)れ、邦家(くにいへ)の経緯(たてぬき)、王化(みおもぶけ)の鴻(おほき)基(もとゐ)なり。
故(かれ)惟(こ)れ帝紀(すめらみことのふみ)を撰(えら)ひ録(しる)し、旧辞(ふるきことば)を討(もと)め覈(あなぐ)り、偽(いつはり)を削(けづ)り実(まこと)を定(さだ)め、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ」とのりたまふ

日本古典全書

是(ここ)に天皇詔りたまはく、
「朕(われ)聞く、諸家の賷(も)たる帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。
今の時に当たりて、其の失(あやまち)を改めずば、幾年を経ずして、其の旨(むね)滅びむ。斯(こ)れ乃(すなは)ち邦家の経緯、王化の鴻基なるを。」
故(かれ)、惟(こ)れ帝紀を撰録し、旧辞を討覈し、偽を削(けづ)り実を定めて後(のち) の葉(よ)に流(つた)へむとしたまふ。

日本古典文学大系

是に天皇詔(の)りたまひしく、
「朕(われ)聞く、諸家の賷(もた)る帝紀(すめらみことのふみ)及び本辞(もとつことば)、既に正実に違(たが)ひ、多く虚偽を加ふと。
今の時に当たりて、其の失(あやまり)を改めずば、未だ幾年をも経ずして其の旨(むね)滅びなむとす。
斯れ乃ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。
故(かれ)惟(こ)れ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽(いつは) りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。
」とのりたまひき

日本思想体系(かな表記での甲類/乙類の区別を明示している(甲類とその区別がない文字は平仮名、乙類はカタカナ))

是(ココ)に天皇(すめらみコト)詔(ノ)りたまひしく、
朕(あれ)聞く、諸家(モロいへ)ノ所賷(も)てる帝紀(すめロきノひつぎ)ト本辞(さきつヨノコトば)乃(ト)、既に正実(まコト)に違ひ、多く虚偽(いつわり)を加へたり。
今之(ノ)時(トき)に当たりて、其(ソ)の失(あやまり)を改メ不(ず)は、幾年(いくトせ)モ経未(へず)して、其(ソ)の旨(むね)滅ビなむト欲(す)。
斯れ乃(すなわ)ち、邦家(みかど)之(ノ)経緯(たてぬき)、王化(おもぶケ) 之(ノ)鴻(おほき)基(モトゐ)なり。
故(かれ)、惟(おもひ)みれば、帝紀((すめロきノひつぎ))を撰(えら)び録(しる)し、旧辞(ふるコト)を討(たづ)ね竅(きは)メ、偽(いつはり)を削(ケづ)り実(まコト)を定メて、後葉(ノちノヨ)に流(つた)へむと欲(おモ)ふ
トノりたまひき。

長々と引用したのは、読み下し文ではそれぞれ微妙に違ってくることを書きたかったからです。編者の考え方が微妙に異なります。

このことは、それぞれの解説の文章のところで触れられています。

中でも、日本古典全書版では、この記事のテーマである引用文の表現について、次のように端的に述べています。

ところで、古事記に訓をつける学者は、宣長以来、先づ「(誰某)が言つた」(或は「歌つた)と前置きして、次にその言つた(歌つた)文句を載せ、そのあとに又、「・・・・と言つた(つった)」と添へるならはしになってゐいる。数年前までは筆者もこれが正しいやり方で、さうしなければならないものだと思ひい込んでゐいた。だが、前述の如く、原文に飛鳥層の「告」「白」「言」「云」と白鳳層の「詔」「奏」「曰」「謂」とがダブつてゐることがわかりだしてからは、会話や歌謡の前後の「言つた(歌つた)」は、前か後か、どつちかを省略した方がいいのではないかと思ひ出した。前と後と両方につけるから、文勢が、だれてしまふ。さう考へて本書は、後置の「・・・・と言った(歌った)」を全部省いた。

実際、「是に天皇詔(の)りたまはく」という書き出しに対して、日本古典全書版以外の3種は、最後を「のりたまひき」で結んでいます。

詔りたまはく「・・・・」とのりたまひき

という表現にしているのです。

日本古典全書版では、「是に天皇詔りたまはく」で始まり、「・・・・王化の鴻基なるを。」で天皇の言葉を一旦終えています。「詔りたまはく」に対応する後置の「のりたまひき」の様な言葉はありません。

次の文は「後(のち) の葉(よ)に流(つた)へむとしたまふ。」と、古事記の作者である太安万侶の言葉としてとらえています。天皇の事績ですから、「したまふ」と敬語表現になります。

原文では、引用部分がどこまで続くかが明示的には示されていません。そこで、解釈にこのようなバリエーションが生れます。

古事記の訓

既に書いたように、古事記は漢字のみで書かれた作品です。

これをどう読むか。これが問題になるのですね。

これを正面切って、大々的に取り上げたのが本居宣長です。

それで、問題の引用表記ですが、宣長以来、「天皇のりたまはく・・・・のりたまひき」と、"言う"という表記を2回繰り返しています。

この繰り返しの読み方がいつ始まったのか、私はまだその情報がありません。

最初に書いたように、竹取物語、土佐日記のような"かな文学"においても同様の表記がなされていることから、平安時代前期には既に繰り返しての訓読が広く行われていた、と考えて良さそうです。

"言う"の繰り返しの克服

平安中期のかな文学には、このような"言う"の繰り返し表現はなくなっています。

私が「表現がぎくしゃくしている」と感じ、日本古典全書版の校注者が「文勢が、だれてしまふ」と書いた様に、それは適当ではない、と、当時の人に感じられたのでしょう。

このような引用表現の変化は、どのようにして起こったのか、私には分りません。しかし、平安中期のかな文学(それは主として女性が進めた)では、ほとんど完全に変わってしまっています。

一つの例として、枕草子の「大進生昌が家に」の段を見てみます。清少納言と大進生昌との会話の部分です。話者をそれぞれ(清少)、(生昌)と略記します(引用元の表記通り)。

引用元:石田穣二訳注 新版 枕草子 上巻 角川ソフィア文庫 平成18年2月 34版

(清少)「されどそれは、目馴れにてはべれば、よくしたててはべらむにしもこそ、驚く人もはべらめ。さても、かばかりの家に車入らぬ門やはある。見えば笑はむ」など言ふほどにしも、(生昌)「これ、まゐらせたまへ」とて、御硯などさし入る。(清少)「いで、いとわろくこそおはしけれ。など、その門はた、狭くは造りて住みたまひける」と言へば、笑ひて、(生昌)「家のほど、身のほどにあはせてはベるなり」と答ふ。(清少)「されど、門の限りを高う造る人もありけるは」と言へば、(生昌)「あな恐ろし」と驚きて、(生昌)「それは于定国がことにこそはべるなれ。古き進士などにはべらずは、うけたまはり知るべきにもはべらざりけり。たまたまこの道にまかり入りにければ、かうだにわきまへ知られはベる」と言ふ。(清少)「その御道も、かしこからざめり。筵道敷きたれど、皆おちいり騒ぎつるは」と言へば、(生昌)「雨の降りはべりつれば、さもはべりつらむ。よしよし、またおほせられかくることもぞはベる。まかり立ちなむ」とて、去ぬ。

構文だけを取り出すと、次のようになります。

(清少)「・・・・」など言ふ
(生昌)「・・・・」とて、御硯などさし入る。
(清少)「・・・・」と言へば
(生昌)「・・・・」と答ふ
(清少)「・・・・」と言へば
(生昌)「・・・・」と驚きて、「・・・・」と言ふ
(清少)「・・・・」と言へば
(生昌)「・・・・」とて、去ぬ

「・・・・」と言う、「・・・・」と答ふ、「・・・・」と驚き、などという表現で、実にムダのない、引き締まった文体であると思います。
(備考2も参照のこと)

平安中期の女流かな文学では、主語の省略が広く行われます。

そのため、「是に天皇詔(ノ)りたまひしく」の部分がなくなります。

主語の省略により、「いはく・・・・いふ」の様なダブった言い方が自然になくなっていったのか、そのあたりは私にはまったく分りません。

備考1 引用元

倉野憲司・武田祐吉校注 古事記祝詞 日本古典文学大系 岩波書店 昭和49年11月 第19刷(初版は昭和33年)

神田秀夫・太田善麿校注 古事記 日本古典全書 朝日新聞社 昭和49年9月 第8刷(初版は昭和37年)

青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注 古事記 日本思想体系 岩波書店 1982年2月 第1刷

中村啓信訳注 新版 古事記 現代語訳付き 角川文庫 角川学芸出版 平成22年5月 再版(初版は平成21年)

この角川文庫版ですが、この記事の引用元表示以外では角川ソフィア文庫と表記しています。角川ソフィア文庫は角川文庫の一部の古典文学その他の学術書をカバーしたシリーズです。奥付は角川文庫としていますので、引用元表示では奥付の表記に従いました。

備考2 枕草子の「大進生昌が家に」の段における清少納言と大進生昌との会話について―余談

上にあげたように、清少納言と大進生昌との会話は、「など言ふ――とて」、「と言へば――と答ふ」、「と言へば――と驚きて」、「と言へば――とて、去ぬ」というように、同じパターンが繰り返すことなく続き、会話がどんどん進んでいく様子が明瞭に表現されています

このスピード感、テンポ感は心地よいですね。

また、会話は、清少納言が何か言い、大進生昌がそれに反応する、というかたちで進んでいきます。中宮にじかに仕える女房と、大進という地位・立場の違いがあるのでしょうが、女性がこんなに生き生きとしていた時代は他になかったのではないでしょうか。

和泉式部なども、いわゆる男勝りの印象があります。

平安末期の建礼門院右京大夫の場合は、言動がずっと控えめです。もっとも、個性の違いもあるのでしょう。


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