印象的な言葉のフレーズ トップ 10 (3) さらに余話 詩集「道程」改訂版


[2019/6/15]

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● 印象的な言葉のフレーズ トップ 10 (3) さらに余話 詩集「道程」改訂版

「道程」改訂版

前回の記事で、高村光太郎の「根付の国」という詩が、最初にスバルに発表されたものと、後に詩集「道程」に収められたものとで、細部に違いがあることについて書きました。

年譜を見ると、詩集「道程」は大正3年(1914年)10月に刊行され、昭和15年(1940年)11月に改訂版が、昭和20年(1945年)1月に再訂版が刊行されています。

そこで、「道程」改訂版を見たくなりました。

例によって、オンラインショップで見つかり、入手しました。

「道程」改訂版の中身

一番の興味は「根付の国」がどうなっているか、なのですが、結果は驚きでした。

収録されていないのです。

そのあたりのいきさつが、巻末の「編纂者の言葉」に書かれていました。

「高村先生は」と書き出し、大正3年(1914年)10月に「道程」を出版した後は、

「厳として詩集の出版を拒絶されて来られたのでしたが、幸ひに今日、編著として我々の熱気の列に応えて下さいました」

とし、さらに、一部の詩が収録されなかったことに関して

「ただ残念なのは(中略)次に列記した作品を、先生の御注意もあり、編者としても今日的な意味から誤解を蒙ることあるを慮って割愛したことです。」

光太郎自身が今回は収録しないことを指示し、編者も了解した、ということだと思います。

「収録しない」というより、「除外する」ということでしょうね。初版では収録していたのですから。

続いて、その対象となった詩として40編の題名が、作成年ごとにまとめられて、リストアップしてあります。

一番古い年次は明治43年で、「生れるもの」、「根付の国」で、最後は大正3年の「群衆」、「淫心」です。

前回の記事で、

「"激情"をぶつけたような作品」という点では、"根付の国"と"淫心"が代表的なものとしてあげられるでしょう」

と書きましたが、この2編共に除外されています。

「道程」改訂版の時代背景

「道程」改訂版が刊行された時期は、光太郎にとって大きな変化がありました。

戦後になって刊行された詩集「典型」の中の「暗愚小伝」の「蟄居」の中の一編に「おそろしい空虚」という詩があります。

先頭の部分は次のようになっています。

母はとうに死んでゐた。
東郷元帥と前後して
まさかと思つた父も死んだ。
智恵子の狂気はさかんになり、
七年病んで智恵子が死んだ。
私は精根をつかひ果し、
(以下略)

時系列的に書いてみます。

昭和 6年 1931年 智恵子に精神分裂の徴候が現われる。
昭和 7年 1932年 智恵子、自殺未遂。
昭和 8年 1933年 智恵子の症状は悪化。
昭和 9年 1934年 智恵子を九十久里浜に転地させる。父光雲没。このころ、家事と看病に追われ彫刻も詩も作らず
昭和10年 1935年 智恵子、入院(2月)
昭和11年 1935年
昭和12年 1935年
昭和13年 1938年 智恵子没(10月)
昭和14年 1935年
昭和15年 1940年 「道程」改訂版刊行(11月)。同月、中央協力会議議員となる。
昭和16年 1941年 「智恵子抄」刊行(8月)。
昭和17年 1942年 詩集「道程」により第一回芸術院賞をうける(4月)。

昭和6年(1931年)から昭和13年(1938年)までの8年間、光太郎は看病に明け暮れていたのでしょう。

第一回芸術院賞

第一回芸術院賞ということが気になります。

詩集『道程』により」、とありますが、最初のものなのか、改訂版なのか。

文学賞の世界というサイトに、「日本藝術院賞受賞者一覧」というページがあります。

それによると、第1回の昭和16年(1941年)から第3回の昭和18年(1943年)までの3年間は「帝国藝術院賞」で第4回の昭和22年(1947年)以降は「日本藝術院賞」と名前を変えています。

以下、「帝国藝術院賞」での年次は、対象作品に関する年次で、受賞者の発表はその翌年です。

戦中の3年間の「帝国藝術院賞」受賞者と受賞対象を見てみます。

第1回 昭和16年(1941年)

洋画 小磯良平 「娘子関を征く」
文学 高村光太郎 詩集『道程』(改定)
文学 川田 順 歌集『鷲』ならび『国初聖蹟歌』

第2回 昭和17年(1942年)

洋画 宮本三郎 「山下パーシバル両司令官会見図」
彫塑 古賀忠雄 「建つ大東亜」 工芸 吉田源十郎 「梅蒔絵飾棚」
文学 野口米次郎
音楽 井口基成

第3回 昭和18年(1943年)

文楽 豊竹古靱太夫

「道程」改訂版の方が評価されて、帝国藝術院賞を受賞したのですね。

ただし、「帝国藝術院賞」は基本的に年度賞ですから、受賞のタイミングの前年、あるいはその前後に発表された作品が対象でしょうから、改訂版が出ていなかったら、受賞にはならなかったでしょう。

(昭和16年(1941年)を対象とした受賞者の決定・発表は翌年の昭和17年(1942年)です。)

さて、この時期は日本は戦争一色です。

昭和12年(1937年)7月に盧溝橋事件があり、その後日本は中国の広い場所を侵略していきます。

昭和16年12月には米国との間に太平洋戦争が始まります。

高村光太郎の受賞は昭和17年(1942年)4月です。

他の受賞者を見てみると、光太郎と同時に受賞した小磯良平の「娘子関を征く」は中国戦線が題材です。

翌年には、洋画部門の宮本三郎・「山下パーシバル両司令官会見図」と、彫塑部門の古賀忠雄・「建つ大東亜」があり、いずれも戦意高揚の作品です。

このような戦時体制という時代背景を考えると、「根付の国」での

「猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人」

という日本人を罵倒する内容は、いかにも"具合が悪い"。("具合が悪い"というのは表現が難しいのですが)

また、「淫心」に見られる「エロスを全的に解放し」(駒沢喜美 高村光太郎)た詩もまた慎むべき時代であったろうとは思います。

しかし、そうかといって、都合の悪いところを改訂版で修正していくことが、その時期に本当に必要だったのか。

詩人にとって、過去に"真実"を歌ったのであれば、それは尊重しなければならないと思うのです。

文章を書き直してはいませんが、詩集の編集でどの詩を入れてどの詩を外す、という作業は「過去において真実であったものをねじ曲げている」のではないか、と思ってしまいます。

なぜ改訂版

このような中で、高村光太郎はなぜ改訂版を出したのか。

戦争に対して、ある種の積極的な態度で関係していった光太郎です。

海外研修から戻って、絶望的な日本でデカダンな生活にひたっていた時代と、今の自分とは考え方・感じ方がずいぶん違っている、と感じたのでしょうか。

この時代の光太郎の考え方は、詩集「典型」の中の「暗愚小伝」の一連の詩でたどることができます。

その中で、「二律背反」というタイトルの下に、「協力会議」という詩があります。

昭和15年(1940年)、「道程」改訂版刊行(11月)発行と同月に、中央協力会議議員に推薦されて、それを受けた時のことを書いています。

協力会議といふものができて
民意を上通するといふ。
かねて尊敬してゐた人が来て
或夜国情の非をつぶさに語り、
私に委員になれといふ。
(中略)
民意が上通できるなら、
上通したいことは山ほどある。
結局私は委員になつた。
(中略)
一人一人の持つてきた
民意は果して上通されるか。
一種異様な重圧が
かへつて上からのしかかる。
協力会議は一方的な
或る意志による機関となつた。

中央協力会議議員になったのは「道程」改訂版刊行と同月ですから、改訂版発行に関する作業はもう光太郎の手から離れているはずです。

改訂版発行の作業が終わった後で中央協力会議議員になったのです。

実は、この詩の直前の詩が、この記事の最初に取り上げた「おそろしい空虚」です。

千恵子の病気のために自分の創作活動がでできない、という空虚、そして光太郎のすべてに深く関わってきた千恵子の死によってもたらされた空虚。

千恵子の死は

「戦争詩へのなだれ込みを一層容易にした」、「後になってみれば、その芸術生涯にとって、戦争詩も「空虚」な作品だった。(日本の詩歌 10 高村光太郎 脚注(p.355))

千恵子の死の後の空虚さに、気持ちのベクトルを"戦争協力に方向転換"したのではないとしても、"加速化"する力があったと考えるのは、どうも時期が合いません。

上に引用した「協力会議」では、「民意を通したい」という思いであったと書かれています。

積極的に国家権力に飲まれているものではありません。

では、戦争を遂行する国家権力に一体化していこうとするのはいつなのか。

「協力会議」の次の詩にそれがあります。「真珠湾の日」です。

宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランピキにかけられ、
昨日は遠い昔となり、
遠い音が今となつた。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
(中略)
身をすてるほか今はない。
陛下をまもらう。
詩をすてて詩を書かう。
(中略)
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただしんけんにさう思ひつめた。

光太郎は、このとき初めて身を捨てて、国家に尽くす決心をしたのだと思います。

昭和16年(1941年)12月です。

「道程」改訂版の刊行は、この約1年前なのです。

「道程」改訂版の巻末の「編纂者の言葉」にふたたび注目しましょう。

「先生の御注意もあり、編者としても今日的な意味から誤解を蒙ることあるを慮って割愛した」

「先生の御注意」とはどのような内容だったのでしょうか。

「今日的な意味から誤解を蒙ること」とは何でしょうか。

時系列的に整理する

道程改訂版の刊行前後のできごとと詩作の状況をまとめてみました。

表1 道程改訂版の刊行前後のできごとと詩作の状況

和暦 西暦 できごと 詩作数 備考
大正31914 10月 詩集「道程」刊行(自費出版)
昭和6 1931 8月 智恵子分裂症の兆候が出る 9 8月まで6編、9月以降3編
昭和7 1932 7月 智恵子自殺未遂 3 5月まで3編
昭和8 1933 8月 温泉巡りをするが病状は更に悪化 0
昭和9 1934 5月 智恵子九十九里浜に転地(12月末まで) 10月 父光雲没 1 10月 1編(藤島武二画集に題す)
昭和10 1935 2月 智恵子ゼームス坂病院に入院 7 1月 1編(当初は中原綾子詩集の序として書かれた) 4月以降6編
昭和11 1936 12月 光太郎喀血で1か月ほど寝る 3
昭和12 1937 15
昭和13 1938 10月 智恵子没 17 9月まで12編、11月以降5編
昭和14 1939 26
昭和15 1940 5月頃「道程」の改訂始まる 11月 「道程」改訂版刊行 20
昭和16 1941 8月 詩集「智恵子抄」刊行 20
昭和17 1942 4月 詩集「大いなる日に」刊行・芸術院賞受賞(道程改訂版) 32
昭和18 1943 11月 詩集「をじさんの詩」刊行 45
昭和19 1944 3月 詩集「記録」刊行 37
昭和20 1945 1月 詩集「道程」再訂版刊行 4月 アトリエ炎上 5月 花巻 10月 岩手県大田村 22 終戦前13、終戦後9

目を引くのは、智恵子が入院する直前の詩作の少ないことです。

昭和7(1932)年6月から昭和10(1935)年2月までの2年9か月の間、詩作はわずか2編で、それさえも通常の詩作ではなく、知人の著作への序文として書かれたものなのです。

全集第三巻(p.364)には、「藤島武二画集に題す」という詩の原稿に赤鉛筆で「三二年より三四年に至る間智恵子の発病もあり、詩作なし、」というメモがあったということが書かれています。

九十九里浜に転地療養していた約7か月間は光太郎は毎週、薬や食べ物などを届けていたような生活で、またそれから戻ると、ときに暴力的になることもあり、光太郎としては肉体的にも精神的にもそうとう追い詰められていたのでしょう。

昭和10(1935)年2月に知恵子を入院させてからは、詩作の生活が復活します。その年の4月以後6編、翌年は3編ですが、2年後は15編、3年後は10月に智恵子の死を迎えるまで12編を書いています。

翌年が3編と少ないのは、その年の12月に光太郎が喀血で1か月ほど寝た生活をしており、体調が悪かったことが影響している可能性があります。

次に注目されるのは、昭和15(1940)年から詩集が立て続けに刊行されていることです。

その年に詩集「道程改訂版」、1年後には詩集「大いなる日に」、2年後には詩集「をじさんの詩」、3年後には詩集「記録」、4年後には再び詩集「道程」の再訂版と毎年詩集が刊行されます。

この記事の出発点は、「道程」を大正3(1914)年に刊行した後、長い間詩集を刊行していなかったのが、どうして26年が過ぎて、急に「道程改訂版」を刊行する様なことになったのだろうか、というところでした。

真実は、「道程改訂版」を単発的に発行したのではなく、26年のブランクの後、急に毎年詩集を刊行するようになった、ということでした。

なぜ急に詩集を

なぜ光太郎は突然変わったのか。

「道程改訂版」について光太郎が直接に言及した文章は私はまだ知りません。

「道程改訂版」の巻末にある「編纂者の言葉」をふたたび引用します。

高村先生は大正三年十月に「道程」(注は略す)が出版されましてから二十六年間、多方面の待望にもかかはらず、厳として、詩集の出版を拒絶されて来られたのでしたが、幸ひに今日、編著として我々の熱気の列に応えてくださいました。

26年間、詩集の出版を光太郎が拒絶していたのです。それか急に変わった。

「編纂者の言葉」には、光太郎が出版の許可を出してから約6か月の編集作業を経て出版にこぎつけた、と書かれていることから、改訂版を"出版する気になった"のは昭和15(1940)年5月頃と思われます。

智恵子に対する充足感と喪失感

"急に気が変わった"理由として、智恵子の死の影響が考えられますが、私にはいまひとつ合点がいかないのです。

智恵子の死後に書かれた詩で智恵子を書いたものは翌年2月作の「レモン哀歌」で、続いて7月に「亡き人に」を書いています。「レモン哀歌」は智恵子の死の場面を書いたもので、「亡き人に」は死後の一人住まいの状況を書いています。

「亡き人に」の中で、「あなたはまだゐる其処にゐる/あなたは万物となって私に満ちる」と書いています。死によって"智恵子が失われた"ということではないのです。

考えてみると、狂気が現れてから自殺未遂、症状の悪化、3年9か月もの入院の後の死と続き、その間、病状の進行を目の当たりにして、私は光太郎が智恵子の死を現実として受け入れたのだと思います。

死してなお自分と一緒にいつもいる、と感じているのです。

ただし、それだけで簡単に割り切れるものではないのでしょう。詩集「典型」の「暗愚小伝」にある「おそろしい空虚」では次のように歌っています。

智恵子の個体が消えて亡くなり、
智恵子が普遍の存在となって、
いつでもそこに居るにはゐるが、
もう手でつかめず声もきかない。
肉体こそ真である。

この詩の最後の行はこうなっています。

隠亡(おんぼ)と遊んだりした。

このことは有名だったらしく、「日本の詩歌 10 高村光太郎」のこの詩に対する脚注で高見順の言葉が引用されています。

「戦争中のころだが、高村さんが夜な夜な、三河島の居酒屋に現われて、隠亡(おんぼう)と一緒に飲んでいるという話が、私の耳に伝わった。それはおもしろいから、こっそり襲ってみようと私は、一度はそう言ってみたものの、「いや、よそう」と、思いとどまった。嫌人的な高村さんが、ひそかにそうして韜晦(とうかい)しているところを荒すのは、心なき業だと思ったからである」(「典型的明治人」)

では、智恵子に対して、もういない、という喪失感と、どこにでもいつも居る、という充足感のどちらが勝っていたのか。

高村光太郎全集の第十一巻に収められている対談の一つに、奥平秀夫氏との「藝術と生活」があります。そこで智恵子とのことについて次のようにいっているところがあります。

奥平 (先生は奥さんが亡くなった後)ずっとお独りで、洗濯、炊事っていうようなものもご不自由ななかで続けていらっしゃいます。…そういう孤独に先生は耐えていらっしゃる。その孤独をすくっているものは、やはり奥さんというわけでしょうね。「智恵子抄その後」を拝見しまして、「元素智恵子」っていうところで、いつも先生が奥さんとご一緒に在るということを書いていらっしゃる。そのお気持ちでずっと独りでたえていらっしゃるわけでしょうね。

高村 ありゃあ本当ですね。智恵子を思い出すなんのっていうんじゃなくて、体の中にちゃんといるわけですね。その形で居るんじゃない。ちゃんと元素になっているんです。ひょっと何かやろうとすれぱ一緒に働いているわけで、そういうことは僕は本当だと思うんですよ。…

こんな言い方は不遜でしょうが、充足感と喪失感は8対2で充足感が優っていたような気がします。

詩作の推移

好きで、尊敬する作家に対して、数値をこねくり回してあれこれ推測する、ということは本当はしたくないのです、私は。

でも、もう少し知りたいという気持ちも強いのです。

そこで、ちょっとだけ、詩作の数の推移を見てみることにします。

智恵子が亡くなった昭和13年とその翌年の月別の詩作数を調べました。

全集は詩作の日時の順に詩が配列され、かつ巻末の「後記」には詩作の日付、発表媒体が載っているので便利です。また、全詩集は年譜から詩作の日付、発表媒体を知ることができます。

表2 昭和13-14年の詩作数の推移

年月 月別詩作数 累積詩作数
S13/1 1 1
S13/2 0 1
S13/3 1 2
S13/4 3 5
S13/5 1 6
S13/6 1 7
S13/7 1 8
S13/8 2 10
S13/9 2 12
S13/10 0 12
S13/11 1 13
S13/12 4 17
S14/1 1 18
S14/2 2 20
S14/3 1 21
S14/4 2 23
S14/5 0 23
S14/6 4 27
S14/7 3 30
S14/8 1 31
S14/9 3 34
S14/10 2 36
S14/11 3 39
S14/12 4 43

智恵子が亡くなった前後で、詩作の数は変化がありません。

亡くなっても、「そこに居る」という感覚は入院しているときから続いていたのではないか、と思われます。ですから、"死"を乗り越えることができた。

それでは、なぜ詩集の発行が急に起こり、続くようになったのか。

昭和20年に詩集「道程」再訂版が発行されます。

全集第十一巻に「詩集『道程』再訂版序」が収められています。

編集方針について次のように書かれていました。

数年前に友人が編纂してくれた「道程」改訂版のなかから他の詩集に収録されている詩編を皆削除為(す)ることにしたので、約半数に減った。その数だけ「道程」以後の詩編を追加してほぼ同量のものになるように編纂したのである。

既に見たように、「道程」改訂版でも、「道程」から40編を削除し、新しい27編を追加しています。

このような経過を見ると、詩集「道程」は、ある時点で過去の作品から代表的なもの選び直して編集する、という作業を繰り返す、ということがなされているのです。

光太郎にとって詩集「道程」とは、"高村光太郎詩集"という位置づけであったように感じられます。

これと同様の見解がなされているのを"高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ"の中の"「道程」三題・その2/「永瀬清子の詩の世界」"という記事で見つけました。「光太郎にとっては、自分の詩業をまとめたものは、自分の『道程』なんだという考えだと思います。」と書かれています。

そのほかの詩集は、光太郎にとって"それとは分けて"取り扱うべきものだったのではないでしょうか。

自分の生涯に決定的な影響を及ぼした智恵子に関する「智恵子抄」、戦争詩として、昭和17(1942)年2月までの作品をまとめた「大いなる日に」、主として太平洋戦争期の作品をまとめた「記録」、子供向けの詩を集めた「をぢさんの詩」、そして戦後における、いわば贖罪の詩の「典型」と、きれいに分類できます。

詩集「記録」の序は昭和18(1944)年12月に書かれています。そのなかに次のような文章があります。

物資労力共に不足の時無理なことは決して為(し)たくない。この詩集としても果して必ず出版せられるかどうかは測りがたい。それほど戦はいま烈しいのである。

詩集「道程」再訂版の序は、昭和18(1944)年11月に書かれています。詩集「記録」の序とは1か月だけの違いですから、社会情勢に違いはないでしょう。にもかかわらず詩集「道程」再訂版の序では戦局の厳しさについてまったく言及していません。

こういう所を見ると、光太郎にとって、戦争詩とは"自分が詩人として詩を書く"姿勢とは異なる立場を取っていたように感じます。

戦争詩を書くことで日本の社会に積極的に飛び込んでいった人間と、それとは別に、"詩人としての真の自分"を丁寧に守っている別の人間という二重構造を感じます。

ふたたび、なぜ急に詩集を続けて刊行するように変わったのか

上で、「智恵子の死を乗り越えることができた」と書いたのですが、それとはまた別の見方が可能です。

大正3(1914)年10月に詩集「道程」を刊行し、その年の12月には智恵子と結婚します。

智恵子との生活では大いなる充実感を感じ、また智恵子が病んでからは精神的・肉体的に追い詰められ、余裕のない生活を送ります。智恵子の死後、残ったのは、書や彫刻もあるでしょうが、主たるものは詩だったのでしょう。そこで、詩集の編集・刊行に気持ちが傾いていった。

私としては、このようなことではないか、と感じます。

その意味では、智恵子の死が光太郎に詩集の出版に向かうように方向転換を促した、ともいえます。

【備考】

引用・参照元は、特に断らない限り、以下です。

日本の詩歌 10 高村光太郎 中公文庫 中央公論社 昭和49年9月

草野心平編 日本詩人全集9 高村光太郎 新潮社 昭和52年6月 七刷

北川太一編 高村光太郎詩集 旺文社文庫 旺文社 昭和49年 第19刷

高村光太郎全集 第一巻~三巻(詩編)、第十一巻(短歌、俳句、雑纂、対談、散文補遺) 筑摩書房 昭和32年3月、10月、33年2月、33年8月

尾崎喜八 草野心平 伊藤信吉 北川太一編 高村光太郎全詩集 新潮社 昭和41年1月

引用文は、漢字は旧字体を新字体に改め、仮名遣いは引用元に従いましたが、一部不徹底なところがあります。もともと、引用元が、旧字体だったり新字体だったり、また旧仮名遣いのままだったり、新仮名遣いに変えていたりといろいろです。

【備考2】

「道程」改訂版はなぜか注目されないことが少ないです。

たとえば、下記では、「戦時下における高村光太郎」を研究対象にしていますが、その中では、

高村光太郎(明治一六年~昭和三一年)は、存命中に六冊の詩集を残している。
 このうち、大正三年刊『道程』および昭和二五年刊『典型』の二冊を除く四冊、すなわち『智恵子抄』『大いなる日に』『をぢさんの詩』『記録』は戦時下に刊行された詩集である。

として、昭和15年(1940年)刊行の「道程」改訂版は無視され、大正3年(年)刊行の「道程」との違いに関する言及はありません。

土佐朋子 『智恵子抄』から『記録』へ―戦時下における高村光太郎― 東京医科歯科大学教養部研究紀要 第46号 1〜18頁 2016


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