有無についての考察


[2020/4/6]

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【29】有無についての考察

有無についてふたたび考える

このサイトの「気まぐれ日記 35 荘子の胡蝶の夢と古今集」と言うところで、「有無についての考え方」について書きました。

その記事について、追記を書き加えた後、少し考えて、もう少し展開ができると感じてきたので、こちらのシリーズ記事として取り上げます。

まず最初の記事で取り上げた内容について、もう一度書いてみます。

表 1 有無の状態表

状態の名前
判定 X Y
有りである Yes No Yes No
無しである No Yes Yes No

これは、「有りか」、「無しか」という判定を想定するイメージで、"Yes"または"No"という判定結果が出るだろうと想定して書いています。

でも、"Yes"または"No"という回答が必ず出るか、というと、そうではないと考えるべきです。

質問を変えて、たとえば、日米のハーフの人に「あなたは日本人ですか」、「あなたは米国人ですか」という質問をしたら、「半分は・・・・」という回答になるかもしれません。

また「あなたは男ですか」、「あなたは女ですか」という問いを考えると、LGBTの人なら、「ノーコメント」と答えるかもしれません。

あるいはLGBTの人の立場を尊重する人なら、「他人に対してそのような質問をしてはいけない」と答えるかもしれません。

更に、質問された人がその言語を理解しない人だったら、単に困った顔をするだけかもしれません。

酒を飲んでいる人に尋ねると、「そんなことより、まあ一杯飲めよ」と酒を勧めてくるかもしれません。

質問への対応のしかたには、現実にはとても沢山のバリエーションがあります。

そこで、次の様な回答の可能性を付け加えます。

・YesとNoの間

・ノーコメントという回答

・回答なし(問いそのものが否定される、または無視される)

これを表に付け加えます。

「質問に対する答え」という環境をもちだしたのは、最初に書いた Yes, No の判別とは違った状況になるだろうと考えるからです。

というのは、最初に書いた Yes, No の判別については、それ以外には考えようがないように思われます。それ以上は展開しようがない。しかし、別のやり方を採ると違った展開が期待できる可能性がある、と、まあそのようなところです。

表 2 有無の状態表 拡張

状態の名前
判定 X Y Z1 Z2 Z3
有りである Yes No Yes No f(Y) NC
無しである No Yes Yes No f(Y) NC

f(Y):Yesの割合(あるいは確率)、NC:ノーコメント、―:答えなし

Z1はどのようなものでしょうか。

たとえば、半分は"有り"で残りの半分は"無し"。"有り"という一面もあり、"無し"という一面もあるという場合です。

「柿の実は赤いか」という問いを考えると、「熟すれば赤いが、その前は黄色だし、もっと前は青いなあ」と考えるでしょう。

では、「熟した柿の実は赤いか」という問いに対しても、「赤いと言えば赤いが血のように真っ赤というのではない。少し茶色に近い」と考えることも可能です。

夢の中で見つけたものについてはどうでしょうか。「夢の中では確かにあったと認識していたが、夢から覚めた今は無い」。これは時間の経過が関係しています。

夢の中ではどうか、といっても、"有り"か"無し"かを論じているのは夢の世界ではないので、「夢の中であったこと」は現(うつつ)の世界では別扱いでしょう。では夢の中ではあったのか、というと、よく分らなくなります。


"有り"、"無し"についてノーコメントと答える、というのはどういう状態でしょうか。皆目見当がつかない、という場合はありそうです。でもこれも回答の一種でしょう。

殺人事件の取り調べで、「おまえが殺したのか」と聞かれた容疑者が、「黙秘権を使います」というのは、少なくとも、聞かれている内容は理解して、その反応として答えないことにした、というものです。

また、わからない、と答えるのもこれでしょうか。"あの世"あるいは"来世"はあるか、と聞かれたら、一部の(または多くの)人は分らないので、わからない、と答えるでしょう。

確かに、"あるか、無いか"という問いに「わからない」という答えはあって当然です。

「分らない」という答えだった場合と、「ノーコメント」という答えだった場合の違いについては、まだ分らないのでここでは区別していません。


"―"と表した"答えなし"はどうでしょうか。何を聞かれたかが分らないので、答えを求められていることも理解できない。

「そんなことより、まあ一杯飲めよ」という反応も、質問自体が拒否されたものであり、これに似ています。

ノーコメントと答えることさえも拒否された、という状態です。

"あるのか"という問いに答えがない。質問が宙にさまよっている、という感じです。

新しい状態Z1、Z2、Z3

Z1、Z2、Z3について考えてみます。

Z1は比較的考えやすいです。Yes、Noの両方の側面がある、ということですね。

この記事を書きながら、何か参考になる本はないか、と探していて、「入門!論理学」という本を見つけて読み出しました。その中に、次の様な文章があります(以下、要約です)

「ここは富士山である」ということについて、それが富士山頂であれは間違いなく正しいし、名古屋においては間違いなく不正である。どはその境界は、となると微妙になる」

なるほどと思いました。富士五湖の観光案内パンフレットに山梨名物の"ほうとう"のおいしい店として河口湖湖畔の○○という店を紹介する文章では、「ここは富士山です」といったらおかしい。でも、ニューヨーク在住の人に日本観光を宣伝するパンフレットのなかで、河口湖湖畔の○○という店を紹介する文章で、「ここは富士山です」といったらおかしくはない。北海道でも京都でも沖縄でもなく富士山ですよ、というニュアンスになるからです。

富士山という定義が曖昧なんですね。

上に書いたハーフの人に対する質問では、「日本人ですか」ではなく、「日本人ですか、日本人ではないですか」という質問の方が判断が明確になると思われますが、そうであっても曖昧さが残るのは、富士山の場合と同様に、日本人であることの定義がはっきりしていないからです。

日本人をどのように定義するか。生れた場所で決める、というのは良い方法のように思われますが、では外国航路の船中で出産したとき、国際線の飛行機の中での出産はどうするのか、を定義しなければなりません。しかも、この場合、外国人夫妻が日本旅行中に妻が急に出産したというケースを除外すべきかどうか、という問題があります。たとえば、容貌がどう見ても西洋人の夫婦が日本滞在行中に妻が出産したという場合、生れた子を日本人としていいかどうか。

両親が共に日本人であること、という血統に基づく定義は問題を複雑にするだけです。両親が日本人であることをどうやって判断するのでしょうか。その両親、つまり祖父母です。では祖父母は、と考えると、この質問は記録がない昔までさかのぼります。ですから、途中で切らざるを得ません。

三代前の先祖から以降の自分の先祖に外国籍の人がいない、ということで代用する、などと言った妥協案になるでしょう。4代前の先祖は外国人であっても良い、とするのですね。

日本人かどうか、ということは曖昧すぎて判断できないので、国籍という手続の問題として処理してしまうのが現実的なのでしょうね。


次にZ2ですが、これでは何らかの回答は出されます。

論語の「未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らん (先進十一の12)」という例が挙げられるでしょう。

「生きるということがどういうことなのか分らないのに、死のことなんかわかるはずがないではないか」といっています。

問いに答えてはくれたのですね、「分らない」と。


Z3は、仏教経典に出て来る"無記"はこれに近いでしょう。

ある修行僧(マールンクヤとされる)が釈迦にいくつかの難問を発したが、釈迦は何も答えなかった(無記)というものです。

その難問とは、世界は時間的に無限か有限か、世界は空間的に無限か有限か、身体と霊魂は同じものか別物か、などです。この問いに対して何も答えなかったというものです。

このような問い(疑問)はマールンクヤに限ったものではなく、当時何人もの人の間でいわれていた、とするものも多いです。(たとえば下記の参考文献2)

なお、その難問の7~10は次のようなものです(表現は変えました)

真理達成者(如来)の死後は、

7.生存する
8.生存しない
9.生存し、かつ生存しない
10.生存するのではなく、かつ生存しないのでもない

これって、上に書いた「有 無 X Y」の四つのケースですね。このようなことにこだわっては駄目だよ、というのが釈迦の教えなのです。その理由は「御前達のような凡人には、宇宙とか如来の死後のようなことは、どんなに考えても死ぬまで分らないから」ということのようです。

これって私が責められている気がしてきました。

「論のための論・・・・それにふける人にとっては確かに興味は尽きないだろう・・・・論争を引き起こし、しかもその論争はどこまでも続く・・・・所詮は知のための知の饗宴にすぎなくて、多くは不毛に終わる」などと書かれています。

釈迦が説くのは戒律を守って行を実践する、ということですから、仏教の道を進む人に対してはそう言うのでしょう。

私は仏道に直接関わってはいないので、ここではさっと通り過ぎましょう。

「人に質問したときの答え」から離れる

Z1、Z2、Z3について、「人に質問したときの答え」ではなく、純粋にそれだけを考えてみます。

Z1についてはいままで色々と例を挙げてきました。あることについてYesであるかNoであるかは、かならずしもどちらか一方に決まる、というものではないのは確かなことです。


Z2は、分らない、という状態は取り込むべきですね。「入門!論理学」に示された例で言うと、「太郎には勇気があった」ということに対し、たしかに、誰かが酔っ払いに絡まれているところを助けた、ということがあれば「勇気があった」といえそうですが、よく考えてみると、たった1例だけで80歳の生涯を終えたなら、「勇気を振るった場面が少ないな。勇気があるとは言えなさそう」と判断することも考えられます。もし5歳で不幸にも死んでしまったなら、「勇気を振るう場面に遭遇しなかった」ということが十分考えられます。それならどちらとも言えない。

なるほど、分らない、というのは、判断材料がない、ということがあるのですね。

上に書いた黙秘権を行使する、という例は、判断材料あるいは判断結果を提示しない、と言うことになるのでしょう。取り調べではそれが認められています。


Z3ですが、昔ちょっとだけ聞いたことがある「哲学における主観主義」というのはこれに近いものだろうか、と想像を巡らします。

たとえば、ものが存在するかどうかは、人が主観として感じるあり方によるもので、主観を超えた客観的な存在というものはあり得ない。

これは、私が勝手に抱いているイメージですので、真偽の程は保証できません。

Z3においては、存在するかどうか質問しても、何の答えもかえってこない。あるいは質問する相手がいなかったら、当然答えもありません。

もっというと、質問する主体さえもないとしたら、当然答えもありません。いわば、絶対的な空(あるいは無)ですね。

地上から人類が絶滅し、他のすべての生物も絶滅し、それでも海洋の水は満ち干きをくりかえし、地球は太陽の回りを回る。アンドロメダ星雲のどこかに、高度に発達した知的生命体があったとすると、あの銀河(我々人類がいた)は"異状なし"と思うのでしょう。そして、この宇宙のすべての生命体が滅亡しても、恒星は進化を辿り、爆発したり、ブラックホールになったりして、そうして、次から次へと変化していく。

テーブルの上にバナナが1本あるときに、わたしがそれを見たら、あるとわかる。手を伸ばして触れれぱわかる。バナナのにおいからもわかる。

私がもう一人の人と二人でテーブルの上のバナナを見ていたとして、となりの人にとっても、それを見たらあるとわかる。手を伸ばして触れれぱわかる。バナナのにおいからもわかる。

となりの人がいなくなったとき、それでも私はバナナがあることが分ります。バナナは隣の人の存在に関わりなく存在し続けます。

隣の人がバナナに対してどのように認識しようと、隣の人がいなくなっても、私にとってバナナの存在は影響を受けません。

わたしがどこかに行ってしまって、あるいは死んでしまった後で、隣の人にとっては、それでもバナナはあり続けるだろうということは、上に書いたことから想像できます。

ということは、どうもバナナは、見ている人がいてもいなくても、それに関係なく存在しているようです。

しかし、別の見方をすると、私がその場を去った後で、もうバナナのことは思い出さないとすると、私にとってバナナはそれ以上何の意味も無いことになっています。もちろん、私が死んだ後では、バナナの存在は"私にとって"意味がありません。と言うより、私が死んだ後は、この宇宙は、この空間および時間は何というものでもない。「この空間および時間は何というものでもない」と思索する主体がそもそも無いのですね。

この問いさえもない、何にもない状態をこの表に加えるべきか、よく分りませんが、ひとまずは入れておくことにしましょう。

もともとこの表は、"有り"か"無し"か、という二つの状態に対して、よく分らないが、もう少し拡張するにはどうするか、という観点で作ったもので、そのおかげで、「"有り"でもあり"無し"でもある」や「"有り"でもなく"無し"でもない」という新しい考えに至り、さらによくわからないZ1、Z2、Z3という新しい考え方に至ったものですから、これからどうなるか、しばらくはおいておこうと思うのです。

というわけで、表2を更に拡張した表3を作ります。

表 3 有無の状態表 拡張2

状態の名前
判定 X Y Z1 Z2 Z3 Z4
有りである Yes No Yes No f(Y) NC (n)
無しである No Yes Yes No f(Y) NC (n)

f(Y):Yesの割合(あるいは確率)、NC:ノーコメント、―:答えなし、(n):問い無し

まとめられず

中途半端になって、手がつけられない状態になってしまいましたので、ひとまずの区切りとします。なにか更に展開できるようになったら、その時に追加の記事を書くつもりです。

参考文献

以下、実際に私が目にした一つの例を参考までに書いておきます。1,2は他にもいろいろのものがあります。

1. 論語 金谷治訳注 岩波文庫 1990年4月 第42刷発行 岩波書店

2. 仏教経典の無記 中村元/三枝充悳 バウッダ[佛教] 2009年12月第1刷発行 講談社学術文庫 講談社 pp.159-162

3. 野矢茂樹著 入門!論理学 2018年5月発行 中公新書 中央公論新社

備考1 中学校の英語のテストの想い出

中学校の確か2年の時の英語のテストで、長文解釈(中学2年なので大した長さではない)の問題が出ました。腑に落ちなくて、今でも憶えているのです。

主人公の Tom に関していろいろなことが述べられていて、設問では、その内容について聞く、というものです。

その設問の中に、"Does Tom like bananas?"というものがありました。「あれ、bananaについてなにか書いてあったかな」と思い、課題文を何度も読み直しましたが、全くありません。これに近いことは、"Tom likes apples."という文くらいです。

バナナとリンゴでは全く関係がありません。そこで私は、「"Does Tom like bananas?"という設問は、問題を作った先生の勘違いで、本当は"Does Tom like apples?"という設問にするはずだったのではないか」と想像を巡らして、答えの欄には「(bananaについては)書いてない」と書き込んだのでした。テストが終わって、どうも腑に落ちないので友人に聞くと、「トムはリンゴが好きなんだから、バナナは好きではないんだよ。だから"No, he doesn't"だ」と答えたのでした。「うっそだぁ」と言う気持ちでした。全く訳がわかりません。後日、答案用紙が返されてそれを見ると、回答欄のところに「バッカモン」と赤ペンで書いてありました。とすると、先生も友人も全く疑問には思わなかったのですね。今でも不思議です。

「リンゴが好きだ」、と言う人はバナナは好きではないのでしょうか。

"Tom likes apples."といったら、「果物の中ではリンゴが特に好きだね。でもほかのほとんどの果物も好きだよ」という場合がほとんどではないでしょうか。仮に、"他の果物については言っていない"というなら、ノーコメントでしか無いはずで、それを聞かれたなら"分らない"としか考えようがないではないですか。

そもそも果物の中でリンゴだけが好きで残りの果物は全部好きでない、などという人がいるでしょうか。ブドウも桃も梨もミカンもイチゴもバナナもパイナップルも好きではない、リンゴだけが好き、なんて想像ができません。まあそのような特異体質の人が居ることを否定はできませんが。それではそのような特異体質の人を念頭にこの問題が作られたのでしょうか。


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