近現代文学つまみ食い 4 夏目漱石の書簡集がおもしろい


[2019/7/10]

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夏目漱石全集

ずっと以前に新書版の漱石全集全巻を買っていました。

「夏目漱石全集」というのは正しくは「漱石全集」です。

買ったのはいつだったかしら、と思って確認してみました。昔は本の扉の隅に鉛筆書きで購入日と書店名を書き込んでいたのです、

第一、二巻は「我が輩は猫である 上 下」で日付は2冊共に1978年12月9日、弘文堂書店と書き込まれています。

第三巻は「坊っちゃん他七篇」で日付は翌年の2月5日。そういえば毎月発行されてその都度買っていた記憶があります。「我が輩は猫である」は上下2冊なので、同じ日に発行されていたのか、それとも私が2冊まとめて買っただけのことなのか、これはよく分かりません。

もう40年以上も昔ですね。大学を卒業して就職したのが1973年、その5年後です。今は定年退職して9年が過ぎました。

弘文堂書店ですね。懐かしい。一時はLPレコードなども置いてありました。国土地理院の五万分の一の地図が揃っていて、よく買いました。駅前にあり、学生の客が多かったためか品(ひん)のない本は少なく、きちんとポリシーを持って商売していた、よい書店でした。

この漱石全集は購入後40年もほったらかしだったんですね。

久しぶりに本を開いたきっかけは、このサイトの記事で、"印象的な(言葉の)フレーズ トップ10"を書いたときに、"我が輩は猫である"のなかに"Archaiomelesidonophrunicherata"という言葉が出てくる、という記事を書いたときに確認のために開いた、というのと、なんとなく「夢十夜」を読み出したことが、私の夢十夜という記事を書くきっかけになった、という二つのできごとです。

「夢十夜」のほうは、これを読んで自分の夢についても書いてみようと思い立ち、書き上げてアップしたのが2019/4/6ですから、実際に読んだのは今年の3月下旬頃でしょう。

"印象的な(言葉の)フレーズ トップ10"の記事のアップが同じ2019/4/6ですから、時期的に見ると、突然「漱石全集」なるものが家にあることを思い出し、短編の作品なら読みやすいだろうと考え、夢十夜を読み出したのが最初だと思います。

書簡集

「夢十夜」は読んだのですが、この巻の他の作品は読みたいという気持ちがさほど湧きませんでした。

その後に、またこのサイトの記事ですが、上で引用した"印象的な(言葉の)フレーズ トップ10"で触れた高村光太郎の詩集「道程」について続編の記事を3回に分けて書いたのですが、その時にいろいろ資料をあさったときに、書簡についてもいくつか読んだことがあり、書簡というものは書いた人の本当の気持ちが出ていてなかなか面白い、ということに気づきました。

というのが、ずいぶんと遠回りしましたが、漱石の書簡集を読み出したきっかけです。そして、今度もとても面白いと感じたのです。

さて、新書版の全集では書簡集一~五(第二十七~三十一巻)と補遺(第三十五巻)の合計6冊に書簡が収められています。補遺ではその半分強のページが書簡です。

補遺に比較的多数の書簡が収められている、ということは、この全集の刊行後にも書簡があちこちで続々と見つかったのでしょう。意外な人が漱石から書簡を受け取っているのでしょうね。


それでは具体的にいくつか見ていきます。

以下、引用は仮名遣いはもとのまま、漢字の字体は旧字体は新字体に統一しました。また漱石自身が書いた文章は太字にしてあります。各文章の先頭の番号はその巻における通算NOで、続いてカッコ内に日付の情報、次の行は書簡の宛先人を書いています。振り仮名はカッコに括って表示しました。

校正に関する指示

漱石の作品の校正について、出版社からの問合せに応えたものと思われるものがいくつかあります。

文章に関する漱石の考え方の一端が分かります。

1912(明治45)年7月28日

   林原(当時岡田)耕三へ

拝復
ふりがなは大体にてよろしく候へども漢字に小生の好加減にふつたものには間違多きかと存候尤も小生のわざわざかう読ませやうといふ気でふつたのもあります。昨夜怖がる抔はどちらでも小生は一向頓着なく候雑もザフでもザウでも構ひ不申候。然し鈴はレイに候。すゞは神社などにあるもの鈴(レイ)は山伏抔のもつものに候。あの場合わざと「レイ」とかなを振り居候。
 ばらせん(銭)御(お)ぜん如仰に候。暖(あた)たかくは暖(あつ)たかくなるべし東京にてはあつたかくと申候。矢張(やつぱ)りは小生わざとやつぱりとふるたる処多し やはりに御直しありても大抵の処は差支なかるべきか
然しある処はやつぱりに願ひ度心地致候
 甚だ我儘な申分ながら自分の言葉の間違は正して貰ひたし。自分の言葉は他に弄くられたくない心持致し候


1912(明治45)年7月28日

   林原(当時岡田)耕三へ[はがき]

校正に付ては今朝申上候通りなれどご参考迄に大体のご注意を致候
(途中略)
 ゆふべ、ゆうべ抔ニテ心配御無用。同じ発音ガデレバ結構也


1912(明治45年7月29日)

   林原(当時岡田)耕三へ[はがき]

○女ツ気のつもり。上品に云へば女気(をんなけ)ならんもしかいふ場合は多からざるべし
○日暮は日暮(ひくれ)なり
○ねづみたけ、だけ 何れにてもよし
○「魚と肉の間位」此時の位は「ぐらゐ」と必ず濁って読む。「この位」「どの位」などいふ時は「くらゐ」といふのが当前なるも。
○「それで好(よ)い」は東京語ならず東京ではいつでも「それで好(い)い」といふ。
(以下略)


1912(大正元)年9月4日

   林原(当時岡田)耕三へ

○ぶち込むなるべし。打(う)ち込むといふ言葉は東京にて使わず。
○市(いつ)さんなり。いちさんと形式づくめに呼ぶのは教育の程度如何に関せず臆劫なり
○「浪漫―」の―はダツシなり。たゞし長すぎる故短くせり
○小器(ぎ)用なり。濁るにきまつたものなり
○端は俗語にては皆はじなり。文章にて「はし」と読む事もあらん。俗語を筆に上すときは先づ「はじ」と言葉を思ひ次に是を漢字にてあらはしたら何と云ふ字が来るだらうと思ひ漸く端といふ字が出て来る順序なり。去れば書いた本人から云へば「端」といふ字脚があつてそれを「はし」にするか「はじ」にするかの問題にあらず。まづ「はじ」といふ音あつて其音を何といふ文字で表現するから「端」になつた迄なり。従つて端といふ字はどうなつてもよき心地す。然し「はじ」は動かしがたき心地す
○先達ての端書の須永は無論敬太郎の間違也。但し「主張した」は切抜帖に訂正して置いた通にてよろし。
 毎々御手数をかけ済みません。校正料は御取りにや遠慮なく御懸合被下度候
  九月四日       金之助
 耕 三 様


漱石の文章の特徴である漢文調が目立ちます。句点(。)がないために文の切れ目がわかりにくいところが散見されます。

「構ひ不申候」は「かまい申さずそうろう」でしょうね。「構ひ不申候」とでも書くところです。

引用の最後にある「遠慮なく御懸合被下度候」は「遠慮なく御懸合(カケアイ)くだされたく候」でしょうか。

漱石の文章に当字が多い事はよくいわれます。

「去れば」はもともとは「然(サ)り」の已然形「然(サ)れ」+接続助詞「ば」とされますが、「然(サ)り」は副詞"さ"にラ変動詞"あり"が付いた言葉ですから、"さあれば"という事でしょう(日本国語大辞典、小学館古語大辞典などによる)。いずれにしても動詞「去る」とは関係ありません。ただし「去れば」と書いてあれば間違いなく「されば」と読まれるでしょうが、語源に忠実に「然れば」とすると「しかれば」、「されば」の二通りの読みが出てきます。

後述の"端"の読みに関するところでも出てきますが、漱石にとってはどう読まれるかが大事で、どの漢字を使うかは二の次、という考えなんですね。

読むときの音(おん)が大事だ、という事を繰り返して書いています。

「暖(あた)たかく」は「暖(あつ)たかく」、「打(う)ち込む」ではなく「ぶち込む」、「市さん」は「いちさん」ではなく「いっさん」、小器用は「こきよう」ではなく「こぎよう」。

「矢張り」は「やっぱり」としていますが、ここではブレがあります。

「矢張(やつぱ)りは小生わざとやつぱりとふるたる処多し やはりに御直しありても大抵の処は差支なかるべきか。然しある処はやつぱりに願ひ度心地致候」。

"やはり"と直しても"大抵は"差し支えない、といいながら「ある処はやつぱりに願ひ度心地致」と丁寧に意見を通します。「"やつぱり"に願いたいという気持ちです」というふうに。でも「ある処は」といわれても、どこがそうなのか判断が付きませんよね。


端は「はじ」であって「はし」ではないと強調しています。さらに端という漢字はどうでも良くて「はじ」とよめればいい、とまで書いています。


実はこの"端"ですが、想い出があります。

私のこのサイトに「前書き・後書きの部屋」があります。その内容はこのサイトを開設するよりずっと前に書き留めておいたものを本にスタートしたのでした。その文章に対して、「本のはじっこ」というタイトルをつけていたのです。

"はじっこ"とは"はじ(端)"に接尾辞の"こ"をつけたものです。"はじ"は"はし"が連濁で"はじ"になったものではありません。単に端の意味で"はじ"と言うことも有ります。

"はじ(端)"は茨城弁だと思っていたのですが、東京弁(または関東弁)だったのですね。なぜ"端"と書いて"はじ"と濁るのかという事をずいぶん丁寧に、念入りに説明しています。その度合いが過ぎて"くどい"というレベルになっています。

私自身はくどい表現は好きなのでなんとも思いませんが、多くの人からは"くどい"といって嫌われそうです。

ですが、この念入りな説明は、漱石が多くの弟子を育てた、ということと表裏一体であるように思われます。弟子に対しても、出版社の社員に対しても同様に、丁寧に説明しています。こういう所が直接に教えを受けた人々から高く評価される基になったのでしょう。

細かなところまで丁寧に、という点では、この引用文の最後の「毎々御手数をかけ済みません。校正料は御取りにや遠慮なく御懸合被下度候」というところによく現れています。まず「御手数をかけ済みません」と謝し、続いて「校正料は御取りにや」と心配し、校正の費用について"遠慮なく請求してください"といっています。

もし私が出版社の編集部員で、言葉遣いの細部での疑問点を漱石に確認して調整する、という担当になってこのような言葉を掛けられたら、たちまち熱烈なファンになってしまうでしょう。

ところで、私は端はハシであって、ハジは茨城方言だと思っていたと書いたのですが、今回改めて辞書を引くと、ハジの扱いについては微妙な違いがあります。

広辞苑第五版では「はじ端」を立項していて「ハシの訛としています。」

新潮国語辞典現代語・古語では「はじ端」を立項せず、「はし端」の項に単に「ハジとも」と補足します。

日本国語大辞典精選版では「はじ端」を立項しつつ「はし(端)を見よ」とし、はし(端)の項では"「はじ」とも"と補足します。

小学館古語大辞典では「はじ端」を立項せず、はし(端)の項では「はじ端」に関する言及はありません。この辞書では東国形などという説明で、東国において変化した形で使われる言葉も収録・解説していますから、歴史的には関東も含めてあくまで「はし(端)」だったのでしょう。

ちなみに新潮国語辞典現代語・古語では「はじっこ[端(っ)こ]」が立項されていました。逆に「はしっこ」は立項されてお折らず、「はじっこ[端(っ)こ]」の項の中に"「ハシッコ」とも"と補足されていました。

日本国語大辞典精選版では"はしっこ【端こ】"が立項され、"「はじっこ」とも"と補足説明があります。ここには文例があり、長塚節の「土」の一説が採られています。「端(ハジ)っ子」という表記です。長塚節ですから茨城弁です。"はしっこ"という文例があるのかどうかは分かりませんでした。

全体的には、「端」を「はじ」と濁るは茨城に限らず、関東くらいの広がりがあるという印象です


最初に引用した書簡は次の言葉で結んであります。
「甚だ我儘な申分ながら自分の言葉の間違は正して貰ひたし。自分の言葉は他に弄くられたくない心持致し候」

作家として当然でしょうが、「私が間違ったところは直してもらいたい、私が意図して書いた部分は変えてもらっては困る」と、これが正直なところでしょうね。ですから出版社としては疑念があれば作者に確認しなければいけません。

漱石はその確認について、対応が実に丁寧で、そのことはとても印象的です。

漱石といえば、神経衰弱や胃潰瘍など病気に苦しんでいますが、これらの書簡の文章を見ると、とても安定して健全な精神で、神経衰弱の様子は全く見られません。

神経衰弱

では神経衰弱をうかがわせるようなものは何かあるのか、というと一つ見つけました。

上にあげた書簡に見られる"安定して健全な精神"というのと真逆なものが感じられるので、ここに引用しておきます。

これはこの新書版漱石全集の補遺に載ったものです。

1903(明治36)年6月4日

   坪井九馬三へ

拝啓大学図書館教職員閲覧室隣室の事務員等高声にて談笑致し静読を妨ぐること少なからず候につき小生自身に館員に面会の上相当の注意を乞ひ候へども一向取り合わざる様子に候間貴下より図書館長に御交渉の上該館の静粛を保つ様御取計被下度右手数ながら御配慮を煩はし度と存候 敬具
                  講師 夏目金之助
  文化大学々長坪井九馬三殿

おおよそは「大学図書館の教職員閲覧室の隣に事務室があり、事務員が声高に談笑してうるさく、読書の妨げになる。当人に面会して注意したが取り合ってくれない。そこで学長から図書館長に対して事務員を静かにさせるように、という事を伝えてもらいたい」と、まあこんな内容です。

句読点を全く入れず、一気に書き上げた、という印象がありますが、この前後の漱石の書簡を見ると同様の書き方をしていますから、これが特別な書き方をしている訳ではありません。

しかしながら、きりきりと緊張しているという印象が伝わります。

ふたたび校正について

最初にあげた書簡は1912年、これは明治45年で、その年に大正と改元されました。

もっと前に校正について書いている書簡があります。

1906(明治39)年8月31日

   高浜清へ

(前略)
 新小説は出たが振仮名の妙痴[奇]林なのには辟易しました。ふりがなは矢張り本人がつけなくては駄目ですね。 (後略)

[奇]という表記は、漱石が書いた原文になく、この全集の編集段階で修正のために"奇"の1文字が挿入された、ということを示すものです。

この年の9月号に草枕が雑誌「新小説」に掲載されています。8月31日であれば、タイミング的にはその頃は振り仮名をどうするか、という初めにあげた書簡に見られるようなやりとりが終わった直後と思われます。

その3日前の8月28日の小宮豊隆宛への手紙の中に、次のような一節があります。

今度は新小説にかいた。九月一日発行のに草枕と題するものあり。是非読んで頂戴。

前の年に「吾輩は猫である」が発表されて、その後「倫敦搭」、翌年に「坊っちゃん」、「草枕」、「二百十日」と発表されています。ですから漱石の初期の作品といえます。

つまり、漱石は初期の段階から振り仮名についての面倒な経験をし続けているという事になります。

メールも電話さえない時代ですから大変だったでしょうね。

と書いたのですが、心配になってきたので調べてみました。

大正元年12月9日頃に夏目家に電話が引かれた、というサライの記事をネットで見つけました。

ですから、「草枕」の時には電話はありませんが、最初に引用した書簡群のすぐ後には電話が引かれた事になります。

電話が書簡に出てくるのは、私が見つけた限りでは、1913(大正2)年2月26日の「山本松之助へ」という書簡の中にある「ご相談の上何とか御都合相願度(電話にてよろしく)」という一節が最初です。

ではその後は校正はもっぱら電話で行い、書簡という形ではしていないのか、ということで調べると、見つかりました。

1913(大正2)年11月12日

   内田栄造へ

原稿につき色々御配慮難有候。御送のうち色鉛筆で区切つた処分らざりし故悉皆通読致し黒インクで直し候。猶気のつきたる処左に申し上置候。
(中略)
(3)一四三の九行に「促(うな)がした」とあり、前には、「促(うなが)した」とわざわざ直しあり、小生はどつちにても差支なし、是も統一ありたし。
(後略)

1913(大正2)年11月12日

   内田栄造へ[はがき]

先刻差上げた注意のうち洩れたものを二つ申添えます。
(1)彼女を(じよ)としたところと(をんな)とした所とありました。
(2)だけ を□(丈の右肩に点)と赤く直してありましたが、あれは□(丈の右肩に点)ではなく丈だらうと思ひます
       十一月十二日夜

最初のものは原稿(あるいはゲラ刷りのようなものかもしれません)の束をやりとりしているので、もともと電話を使う場面ではないのかも知れません。

後のものは、当日の夜になって、前回書き漏らした事を追加したものです。これは翌日朝、電話で伝えても好いのではないか、と思います。まあ、その日のうちに片付けておきたいと思った、という可能性もあります。

実際、校正上の細かな指示を書いている書簡は、上にあげた後でも繰り返されています。ただし出版したはずの作品の数から考えると少ないです。これはよく分かりません。ある程度は電話で済ませて、まとめてチェックするときには手紙やはがきで連絡するという事でしょうか。

電話があったときに不在だった事をわびる内容の書簡があるのは面白いです。

以下はその例です。

1915(大正4)年9月28日

   松本道別へ

拝啓昨夜は電話を御掛下さいまして失礼しました本当をいふと今日は大して差支があるのではありませんが此二三日来客が多かったり外出をしなくてはならなかつたで少し時間が欲しかったのでまあ多少あなたを回避したやうな痕跡があるのです甚だ済みません御勘弁を願ひます、
(以下略)

漱石は電話をよく使っているようです。校正に関する簡単なやりとりなら電話で済ませている可能性は十分にあると感じられました。

備考

本記事の基になった書簡集(補遺にも書簡が収録されているのでそれを含む)は以下の6冊です。本記事に直接的に引用していなくても影響はあったので、その6冊すべてを載せます。すべて新書版です。

漱石全集 第二十七巻 書簡集 一 岩波書店 1980年1月 第4刷

漱石全集 第二十八巻 書簡集 二 岩波書店 1980年1月 第6刷

漱石全集 第二十九巻 書簡集 三 岩波書店 1980年2月 第6刷

漱石全集 第三十巻  書簡集 四 岩波書店 1980年2月 第5刷

漱石全集 第三十一巻 書簡集 五 岩波書店 1980年3月 第5刷

漱石全集 第三十五巻 補遺    岩波書店 1980年5月 第1刷

備考2

引用文は、全集の本文は縦書き(もちろん漱石の手書きの文章も縦書きでしょう)ですが、このサイトでは横書きです。そのため、原文では、文章の前後関係を右・左と書くところは、横書きでは上・下という関係になります。これを直すのも気が引けますので、原文のままと致します。

このような混乱は英文を日本語縦書きで翻訳するときの間違えとして時々見られます。"described above"とあるところを「上述のように」とするとおかしなことで、「右に述べたように」と表現を変える必要があります。


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