近現代文学つまみ食い 3 高村光太郎 詩集「道程」再訂版


[2019/6/28]

次のページ  前のページ  「近現代文学つまみ食い」のトップページ

詩集「道程」再訂版

詩集「道程」

「印象的な言葉のフレーズトップ 10」から始まったのですが、詩集「道程」に絞って記事を書き続けています。

前回の記事で詩集「道程」改訂版を取り上げましたが、今回は、再訂版に注目し、さらに、改訂版・再訂版を含む三種類の「道程」についてまとめてみようと思います。

なお、最初の「道程」を"改訂版"、"再訂版"と明確に区別したいときには、"初訂版"と書くことにします。

少し先走りますが、一覧表にまとめておきます。

表1 「道程」三種

発行年月 発行名 編集形態 出版社
大正3(1914)年10月 「道程」 自費出版 叙情詩社
昭和15(1940)年11月 「道程」改訂版 三ツ村繁蔵編纂 山雅房
昭和20(1945)年1月 「道程」再訂版鎌田敬止のすすめにより光太郎が編集青磁社

改訂版が出るまで26年もの年月が経過していますが、次の再訂版までは4年2か月しか経過していません。

再訂版の序文を光太郎が書いており、先頭のページに収められていますが、その末尾には、「昭和18年11月/高村光太郎」と記されているのです。

序文には編集の内容が書かれています。「編纂した」と過去形で表現されていますから、実は昭和18年11月には編集作業は終わっていたのです。改訂版の発行から3年しかたっていないのです。

どうも、この再訂版は腑に落ちません。

すこし調べてみました。

「道程」再訂版

例によって、オンラインショップで見つかり、入手しました。

序文ですが、次のようになっています。

鎌田敬止さんのおすすめに従つて、「道程」の再訂版といふものを八雲文庫の一冊として出すことにした。数年前に友人が編纂してくれた「道程」改訂版の中から他の詩集に収録されてゐる詩編を皆削除することにしたので、約半数に減つた。その数だけ「道程」以後の詩篇を追加してほぼ同量のものになるやうに編纂したのである。追加の中には未発表のものもある。
昭和十八年十一月
       高村光太郎

この文章から判断すると、鎌田敬止という人は再訂版発行のおおまかな段取りはしても、詩の取捨選択、配列などの編纂は高村光太郎が自ら行った模様です。

また、「『道程』改訂版の中から他の詩集に収録されてゐる詩編を皆削除することにしたので、約半数に減つた。」とあります。

改訂版発行のあと、この昭和18年11月までに発行された詩集は、「智恵子抄」、「大いなる日に」、「をじさんの詩」の3種類です。

改訂版に収録された詩は、「智恵子抄」とは重複するものがいくつかありますが、「大いなる日に」は戦争詩、「をじさんの詩」は子供向けの詩を集めたもので、改訂版と重複するものはほとんどないのではないか、という疑問が湧きました。

そこで、まず収録された詩を確認すると次のようでした。

表2 「道程」三種に収録された詩の数

「道程」 76
「道程」改訂版 60
「道程」再訂版63

以下では、「道程」をA、改訂版をB、再訂版をCと略称することにします。また、ある詩がこのA,B,Cのどれに含まれるかということを、たとえば"AB-"というように表すことにします。"ABC"であれば3種すべてに抄録されており、"AB-"であれば、再訂版のみ収録されていない、という具合です。

この"ABC"という整理の方法については、備考2に簡単にまとめました。

改訂版の「編纂者の言葉」には、初訂版にある詩から改訂版では除外した詩のリストがあります。数えると43篇です。

私が採用しようとする方法、すなわち"ABC"という表現でいうと、これは"A--"と"A-C"というパターンになります。

そこで、"A--"と"A-C"をチェックすると、"A--"は43件、"A-C"はゼロでした。

つまり、改訂版では初訂版の76篇の詩から43篇が除外され、それらはすべて再訂版で復活していない、ということになります。

改訂版で初訂版の56%の詩が除かれた、というのはずいぶん多いように感じられますが、26年という歳月の経過を考えると妥当とも思えます。

それでは、"AB-"と"-B-"はどうでしょうか。これは、改訂版に収録されたが再訂版で削除されたもの、および改訂版で初めて収録され再訂版では除かれたものです。

結果は、それぞれ、15件、4件でした。内容は、15件中の11件、4件中の3件が「智恵子抄」に収録されたものでした。合計14件です。

再訂版の序文で、「他の詩集に収録されてゐる詩編を皆削除する」とありますので、この14件を除くのは当然です。では残りの5件はどうなのでしょうか。

また、"--C"、すなわち、再訂版で初めて収録されたものは22件でした。

ちなみに"A-C"、つまり初訂版に含まれ、改訂版では除外され、再訂版でふたたび取り入れられたものですが、これはゼロでした。

つまり、19篇を除外して22篇を新たに追加したことになります。

再訂版の序文で、「他の詩集に含まれる詩を削除して約半数になり、それを補う数の詩を追加」とあります。

約半数を削除、ということですが、実際は60篇中の19篇を除いたのです。約1/3です。半数なら30ですからあまりに言い過ぎと思います。

除いた数とほぼ同数を追加した、というのは合っています。

そこで、「序文が書かれた段階ではほぼ半数を入れ替える、ということになっていたが、その後の発行までの1年余の間に見直しがあり、1/3の入れ替えに押さえられた」、という可能性はどうでしょうか。

でも、そうであれば、序文を書き直すのが普通だろうと思います。内容と合っていないのですから。

鎌田敬止と八雲文庫

再訂版の序文に「鎌田敬止」、「八雲文庫」という固有名詞が出てくるのが気になり、調べとみると、意外なことが分かりました。

鎌田敬止が八雲書林という出版社を設立し、昭和19年には八雲書林は青磁社に統合され、それに伴い鎌田敬止は青磁社の編集長に就任したというのです。青磁社とは「道程」再訂版の出版社です。

青磁社はもともとフランス詩を主として刊行しているところで、以前に高村光太郎が翻訳したフランス詩の出版も行ったことがあり、関わりがあった様です。

時間の経過を考えてみると、八雲書林の鎌田敬止から再訂版の話があり、編集が進んでいたときに、八雲書林が青磁社に統合されるということが出てきて、再訂版の出版もずれ込んで、八雲書林が青磁社に統合されたあとで実現した、と予想することができます。

序文までできあがっていたのに、発行はそれから1年2か月後になった、という理由はここにあるようです。

「鎌田敬止」、「八雲文庫」の情報は、「出版・読書メモランダム」というサイトの「古本夜話」というシリーズの記事の「古本夜話393 八雲書林と青磁社」という記事で知りました。また、その一つ前の記事である「古本夜話392 鎌田敬止と矢川澄子『野溝七生子というひと』」によると、八雲書林が青磁社に統合されたのは、当時の新体制運動の一環によるものらしく、その「出版新体制」についても「古本夜話129 田代金宣『出版新体制の話』と昭和十年代後半の出版業界」という記事で触れられています。これらの記事の作者の"OdaMitsuo"様に感謝いたします。

序文が完成したあと、発行まで時間が掛かったことはおおよそ予想がつきました。

つぎに、改訂版から除外されたのはどのようなものかをみておきたいと思います。

改訂版から除外された詩

表3 「道程」改訂版に収録され再訂版で除外された詩

NoABCのタイプ智恵子抄での収録題名
1AB- 失はれたるモナ・リザ
2AB- 地上のモナ・リザ
3AB- (智抄)――に(いやなんです)
4AB- (智抄)或る夜のこころ
5AB- (智抄)おそれ
6AB- (智抄)梟の族
7AB- (智抄)或る宵
8AB- (智抄)郊外の人に
9AB- (智抄)冬の朝のめざめ
10AB- (智抄)人に(遊びぢゃない)
11AB- (智抄)人類の泉
12AB- (智抄)僕等
13AB- 婚姻の栄誦
14AB- 万物と共に踊る
15AB- (智抄)晩餐
16-B- (智抄)樹下の二人
17-B- (智抄)狂奔する牛
18-B- (智抄)
19-B- 珍客

「ほかの詩集に収録された詩は除外する」、という方針は既に確認しました。

「氷上戯技」という詩は改訂版で収録され、再訂版でも収録されており、また詩集「をぢさんの詩」にも含まれます。ただし、「をぢさんの詩」は昭和18(1943)年11月に刊行されており、再訂版の序文の日付が昭和18年11月であることを考えると、時期的に重複する可能性があり、「ほかの詩集に収録された詩は除外する」、という方針に対し、かならずしも矛盾するわけではないと考えられます。

この方針とは別の理由で改訂版の詩が削除されたという例は以下の5篇です。

(a) 失われたるモナ・リザ
(b) 地上のモナ・リザ
(c) 婚姻の栄誦
(d) 万物と共に踊る
(e) 珍客

(a)~(d)の4篇は初訂版、改訂版で収録され、再訂版で外されました。

(e)は改訂版で初めて収録され、再訂版で外されました。

削除すべき理由としては、第一に時代背景ということでしょう。昭和18年といえば、戦局はどんどん厳しくなっています。

"モナ・リザ"が題名に含まれる詩が2篇あります。

でも"モナ・リザ"はイタリアのダ・ビンチの作品で、当時イタリアは同盟国ですから、これを排除する必要はないと思われます。

すでに昭和15(194)年に日独伊三国同盟が結ばれています。

"雨にうたるるカテドラル"はパリのノートルダム大聖堂を歌っていて、また"ロダン"を題名に含む詩も2篇あり、フランスは日本の同盟国ドイツと戦った国であり、こちらの方が遠慮すべきと思うのですが、これら3篇はすべて改訂版・再訂版に収録されています。("-BC"というものです。)

"婚姻の栄誦"は、婚姻、あるいは新郎新婦への賛歌というもので、削除する必要性は感じられません。もっとも"強いて残す"必要がないということもいえるでしょう。

"万物と共に踊る"も同様です。排除する特別な理由は分かりません。

再訂版で初めて収録された詩

ABCのタイプが"--C"のもの、つまり、初めて再訂版で収録された詩は次のようなものです。

なお、"A-C"のタイプはありません。

表4 「道程」再訂版で初めて収録された詩

No ABCのタイプ 智恵子抄での収録題名 作成年月(*)
1 --C 花のひらくやうに 大正6(1917)/1
2 --C 晴れゆく空 大正6(1917)/1/
3 --C 序曲 大正9(1920)/2
4 --C かがやく朝 大正10(1921)/10
5 --C 米久の晩餐 大正11(1922)/1
6 --C 冬の子供 大正11(1922)/12
7 --C 偶作十一 大正12(1923)/6
8 --C 少年を見る 大正14(1925)/5
9 --C 冬の奴 昭和1(1926)/12
10 --C 昭和2(1927)/3
11 --C 偶作八篇 昭和2(1927)/3~10
12 --C 母をおもふ 昭和2(1927)/8
13 --C その年私の十六が来た昭和2(1927)/8~9
14 --C 或る墓銘碑 昭和2(1927)/12
15 --C 冬の言葉 昭和2(1927)/12
16 --C なにがし九段 昭和3(1928)/5
17 --C 何をまだ指さしてゐるのだ昭和3(1928)/9
18 --C 存在 昭和3(1928)/11
19 --C 旅にやんで 昭和3(1928)/12
20 --C その詩 昭和3(1928)/12
21 --C 刃物を研ぐ人 昭和5(1930)/6
22 --C 耳で時報をきく夜 昭和5(1930)/10

(*) 作成年月が不明は場合は発表年月による。

「偶作十一」と「偶作八篇」については特殊です。

「偶作十一」は「とげとげなエピグラム」という短い30篇の詩を集めた中から11篇を抜き出して、「偶作十一」という詩にしたもので、すべて"--C"のタイプです。

「偶作八篇」は次のようにいろいろな詩の部分の寄せ集めです。すべて"--C"のタイプです。

「猛獣篇」時代の「笑」という詩(もともと2行3連の詩)。

「猛獣篇」時代の「エピグラム」の5篇から最後の「詩人」(「エピグラム」は1篇が2行で5篇(それぞれ題名付き))

「猛獣篇」時代の「名所」の2篇からその2篇(「大涌谷」、「草津」)(「名所」の2篇は1篇が4行で2篇(それぞれ題名付き))

「猛獣篇」時代の「偶作十五」の15篇から4篇([彫刻はおそろしい]、「桃の実は」、「くるみの種を」、「ふつとさう思ふときがある」)(「偶作十五」は2行から13行の15篇でそれぞれの題名はなし)

ここでの私の印象は、"ずいぶんと優しい詩をあつめたものだ"ということでした。

怒りや絶望、社会への憤懣といった烈しい感情、その中での一筋の救いの光、男女のエロス、など、光太郎の詩の特徴というものを削り取って、よく言えば"マイルド"、とか"角が取れた"などの言葉が浮かびます。

子供達に安心して読ませることができる、いわば"教科書に最適な詩"が多いのです。

たとえば、「花のひらくやうに」、「晴れゆく空」、「かがやく朝」、「冬の子供」、「少年を見る」、「母をおもふ」などの題名をみるとそのように感じます。

極端な言い方をすると、満ち足りた人生をおくり、いま安らかな生活を送っている老人が、日当たりのいい縁側にすわり、たとえば庭先で飼い犬と戯れているかわいい孫を目を細めて慈しむように見ている、とか、過去の幸せな想い出にふけっている、といった風情です。

たとえばこうです。


   母をおもふ

夜中に目をさましてかぢりついた
あのむつとするふところのなかのお乳

「阿父さんと阿母さんとどつちが好き」と
夕暮れの背中の上でよくきかされたあの路次口

鑿(のみ)で怪我をしたおれのうしろから
切火をうつて学校へ出してくれたあの朝。

酔ひしれて帰つて来たアトリエに
金釘流のあの手紙が待っていた巴里の一夜。

立身出世しないおれをいつまでも信じきり、
自分の一生の望もすてたあの凹んだ眼。

やつとおれのうちの上り段をあがり、
おれの太い腕に抱かれたかつたあの小さなからだ。

さうして今死なうといふときの
あの思ひがけない権威のある変貌。

母を思ひ出すとおれは愚にかへり、
人生の底がぬけて
怖いものがなくなる。
どんな事があらうともみんな
死んだ母が知つてるやうな気がする。


   その年私の十六が来た

自分の笑った声に目を覚まされて
わたしはそつと瞼をあけた。
寒夜のしじまは荘厳以上。
「これ、光(みつ)、目をさませ。」
おぢいさんが私をゆすぶる。
「お前はゆうべも笑つたぞ。」
「何だか夢でをかしいの。」
「魔がつくのだから気を張つてねろ。」
私は不意に怖くなつた。
頭から夜着をかぶつて目をとぢたが
とろりとすると又笑つた。
おぢいさんは闇の中に起き直つて
急急如律令と九字を切つた。
その年私の十六が来た。


たくさんある詩の中にはこのような穏やかな詩があって当然です。

ですが、改訂版を刊行して3年後にわざわざ再訂版として詩の入れ替えをするときに、この種の詩を多く入れた、ということはどういう心境なんだろうか、と思ってしまいます。

「これでは高村光太郎ではないぢゃないか」とふと思いました。

再訂版の意義

この時期の詩集編集のタイミングについてまとめてみます。高村光太郎の関わりの視点から見ますので、序文の日付を元にします。

表5 昭和18年頃の詩集の序文等の作成時期

詩集 序文等の作成時期備考
詩集「道程」改訂版 昭和15(1940)年11月序文なし。「編纂者の言葉」(三ツ村繁蔵)による
詩集「大いなる日に」 昭和17(1942)年3月光太郎の序文。
詩集「をじさんの詩」 昭和18(1943)年5月光太郎の序文。
詩集「道程」再訂版 昭和18(1943)年11月光太郎の序文。ただし刊行はその1年2か月後
詩集「記録」 昭和18(1943)年12月光太郎の序文。

「大いなる日に」と「をじさんの詩」の序文は、出版の経緯とどのような詩を収録したか、という説明が淡々と書かれたものです。全詩集に収録された体裁は1行40字で、前者は3行、後者は11行と長さに違いはありますが、それほどの思い入れは見当たりません。

「道程」再訂版は文庫本で、1行30字で6行となっており、"出版の経緯とどのような詩を収録したか、という説明が淡々と書かれた"という点では前2者と同様です。

しかし、詩集「記録」の序文は、全詩集で見ると、1行40字で13行ともっとも長く、当時の社会情勢と共に光太郎の心情を吐露するかのような表現が目に付きます。

(前略)

「記録」といふ題名は沢田氏が撰び、私が同意したものである。むろん全記録の意味ではない。いはば、大東亜戦争の進展に即して起つた一箇の人間の抑へがたい感動の記録といふ方がいいかもしれない。もつと内面に属する詩であるため、この集に収録せられないばかりか、まだ一度も発表せられてゐいない詩がたくさんある。さういふ生活内面に関する詩は現下の発表期間の絶えて要求しないところであるから、それも当然である。物資労力共に不足の時無理な事は決して為たくない。この詩集とても果して必ず出版せられるかどうかは測りがたい。それほど戦はいま烈しいのである。2年前の大詔奉戴の日を思ひ、今このやうに詩集など編んでゐられることのありがたさを身にしみて感ずる。

(後略)

「もつと内面に属する詩であるため、この集に収録せられないばかりか、まだ一度も発表せられてゐない詩がたくさんある」と書いています。ここに載せた詩のほかに、傾向の異なる詩がある、というのです。この部分は、戦後に書かれた「暗愚小伝」の中の「二律背反」と題された5篇のうち第3編「ロマン ロラン」に書かれた次の一節と対応します。

私には二いろの詩が生れた。
一いろは印刷され、
一いろは印刷されない。
どちらも私はむきに書いた。
暗愚の魂を自らあはれみながら
やつぱりわたしは記録を続けた。

"暗愚"と分かっていて書いた。

「大いなる日に」、「記録」という"戦争協力詩集"を書きながら、自身を"暗愚"と哀れんだ。

昭和18年の頃は、戦争協力詩を作ると、その多くはすぐに新聞、雑誌に掲載されています。「一いろは印刷され」ということです。

"二いろ"というようにはっきり分けてとらえていた。その一方がどんどん表(おもて)に広がっていくと、心の中でバランスがとれません。

「印刷されない」の方の詩は世に出せない。その代わりが再訂版だったのではないだろうか、と私は考えるようになってきました。

"暗愚"ではない"部分"は表(おもて)に出せない。せめて、"暗愚ではない自分"の詩を世に出すために、世に出せる範囲の詩を"高村光太郎詩集"として、すなわち詩集「道程」として出したかった ということだったと思うのです。

この社会情勢で"角が立たない"、"毒にも薬にもならない"詩であっても、"暗愚"ではない、という条件で詩を選択した。

表4には詩の作成年月(それが不明なものは発表年月)があります。大正6(1917)年から昭和5(1930)年です。

「道程」初訂版発行が大正3(1914)年(同年智恵子と結婚)で、智恵子に精神異常の兆候が出てくる昭和6(1931)年8月の間の、貧しくても幸せで充実した時代とぴたり重なります。

上で「過去の幸せな想い出にふけっている」と書きましたが、まさにそのような時代の詩を追加しているのです。

ここに、「道程」再訂版の意義があった、ということだと思います。


戦争協力詩を作る、ということとは別に、もう一つの自分があった、などということを戦後になって書くと"自己弁護"の"言い訳"と受け取られかねません。

しかし、戦中の昭和19(1944)年3月刊行の「記録」という戦争協力詩を集めた詩集の序文に

「全記録の意味ではない」

「もつと内面に属する詩であるため、この集に収録せられないばかりか、まだ一度も発表せられてゐいない詩がたくさんある。」

と書いてあったことで、当時の光太郎の心情を理解することができます。

【備考】

引用・参照した詩集「道程」の3種類は以下です。奥付の表記に従って表記します。

道程 高村光太郎 叙情詩社 大正3年10月

    ただし、昭和43年9月発行の復刻版(名著復刻全集 近代文学館)

高村光太郎詩集 道程 改訂版(三ツ村繁蔵編纂) 山雅房 昭和17年10月第8版 (初版は昭和15年11月)

道程 再訂版 高村光太郎 青磁社 昭和21年1月 第2刷(第1刷は昭和20年1月)

詩の内容、年譜などは次を参照・引用します。本記事では"全詩集"と略称します。

尾崎喜八 草野心平 伊藤信吉 北川太一編 高村光太郎全詩集 新潮社 昭和41年1月

【備考2】詩の整理の手順

今後の参考のために、作業手順を簡単に書いておきます。

高村光太郎全詩集(新潮社)には、すべての詩を、刊行された詩集およびそれに準ずる詩群ごとに分類した目次があります。またすべての詩について作成日に従って時系列にまとめた年表があり、こらをベースにします。ただし、目次では「道程」改訂版、再訂版は無視されていますので、以下のようにしました。

(1)「全詩集」の目次から詩のタイトルをすべて抜き出す。

(ただし今回は再訂版の一番新しい詩が昭和5年の「耳で時報をきく夜」なので、その頃までに限定した)

(2)各詩集(「道程」初訂版、改訂版、再訂版)にまとめられた詩のリストに基づいて、詩集ごとに区別して、対応する詩に"A","B","C"をマークしていく。

"A","B","C"がマークされなかったものは"-"とマークします。

(3)それぞれの詩に対して、年表から、作成日と発表媒体を記録する。

作成日は、詩がつくられた社会的背景を考える時に参考になる。

(4)それぞれの詩に対して、収録状況を"ABC"の様に表す。(どれにも収録されていないものは"---"となる。)

こうしておけば、たとえば初訂版と改訂版に含まれ、再訂版に含まれない詩は"AB-"となり、"ABC"のいろいろなパターンごとに対応する詩を抽出するのはExcelの機能で簡単に行える。


[ページの先頭に戻る]