創作ことわざ
[2021/2/7]-133日目
自分に甘い、というのは、これはどうしようもない真実です。
そうなるように常にバイアスがかかっているのです。
責めてははいけません。
ただし、そのことを忘れてもいけません。常に意識して、それが原因で大きな間違いを起こすことがないように警戒すべきです。
昔、会社勤めをしていたときに、次のようなことを聞きました。
その会社はマイカー通勤が多く、また交通事故もなかなかなくなりませんでした。
いろいろな取り組みがおこなわれていましたが、その一つに、いわゆる「ヒヤリハット体験談」を集めて公開する、というものがありました。
この種のものはあちこちでやっていることと思います。
もちろん、事故を起こすと、みなのまえで、その詳細な内容を説明しなければなりません。
ちょっと脱線しますが、この説明の中で一番困ることの一つに、ぼんやりしていたことによる事故があります。
ちょっと集中力が切れて漫然と運転していて事故になった、というときに、原因は「ぼんやりしていました」ではすまないのです。
なぜぼんやりしていたのか、ということが追求されるのです。
前の晩に飲み過ぎで睡眠不足だった、などというと、なぜそんなに遅くまで酒を飲んでいたのか、と追求されるのです。
そのようなやりとりが何度もあり、「やはり、クルマを運転するときには運転に集中する、ということが一番ということではないか」というやりとりが何度も繰り返されました。
そのような「ヒヤリハット体験談」の中に、非常に示唆に富むものを今でも覚えています。
ある人が車で出勤の途中に、信号のある交差点で信号無視として切符を切られたのです。
その人の考えでは、信号が青から黄色になったが、「交差点の直前であり、ここで止まろうとしてブレーキを踏むと交差点の中で止まることになり、交通の妨げになる」と判断してそのまま交差点を通り抜けた、というものです。
これは交通の法規で認められている事柄です。
取り締まりの警察官は、「さっきのタイミングでは十分に交差点の手前で止まれるタイミングだったから信号無視に当たる」と言ったとのこと。
それでその人は納得がいかず、後日同じ時間帯にその交差点に出向き、信号が青から黄色に変わるたびにクルマがいつまで通りすぎて、いつ止まるのか、を観察しました。
朝の通勤ラッシュの時間帯なので、信号が青から黄色になるたびに、きわどいタイミングになるクルマが出てきます。
それが警察官立ち会いでやった、と聞いたような記憶がかすかにあるのですが、ずいぶん昔のことなので、一人でチェックしたのかもしれない、とも思われます。
それで、結果は、というと、見ていてこのタイミングではブレーキをかけると交差点の中で止まってしまうからそのまま通過するしかない、と感じた場合でも、かなりの確率でクルマはブレーキをかけて止まり、十分に交差点の手前で止まった、ということがわかった、というのです。
「自分の判断では、交差点の手前で止まれないからそのまま通過する、と判断するときに、その範囲を広く取り過ぎていた」、ということがわかったのです。
今になって思い起こすと、その人はかなり誠実で、かつ物事をきちんと考える人だったから、警察官の判断に納得がいかないと感じると、後で実際に現場にいって検証し、かつ自分の判断に偏りがあることを知り、それを皆の前で説明してくれたのです。
「自省録」の第五巻第一章にこれに似た言葉があります。
君は人間のつとめをするのがいやなのか。自然にかなった君の仕事を果すために馳せ参じないのか。「しかし休息もしなくてはならない。」それは私もそう思う、しかし自然はこのことにも限度をおいた。同様に食べたり飲んだりすることにも限度をおいた。ところが君はその限度を越え、適度を過ごすのだ。しかも(自分がなすべき)行動においてはそうではなく、できるだけのことをしていない。
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神谷美恵子訳 マルクス・アウレーリウス著 自省録 岩波文庫 2007年2月 改版第1刷発行
義務を果たすに当たっては休息が必要だといっておろそかにする、これはわれわれ人間の本性ですね。
いやなことはできるだけ抑えて、楽なことはできるだけ大きく、と考える。
こういうことはしょうがないので、そういう態度をとっていないか、と絶えず気にかける、というのが、せいぜいできることでしょうかね。