創作ことわざ
[2020/10/5]
情報過多という言葉があります。
誰が言い出したのかというと、・・・・それは調べればすぐに分りそうなので、ここでは追求しません。
見かけ上はいろいろな情報が溢れるようにあります。「溢れるようにある」ように表面的には見えます。
しかし、本当に必要な情報はほとんど無いのです。
政権を握った人が国民にとって重要な情報を隠す例は、飽きるほど見ています。
日本に限ったことではありません。すべての国でそのような状態があります。
現在に限ったことではありません。昔からそうなのです。
自分に不利なことは、できるだけ隠そうとします。
日本と韓国との間で、色々と意見の違いが議論されます。
真実はどうだったのか。記録はほとんどが処分されてしまっています。
記録が残っていないので、根拠のある議論ができません。日本がクロだという証拠は乏しいし、シロだという証拠も乏しい。
きちんと記録を残しておいてくれたら、このような混乱は避けられたのに、残念です。
情報が多過ぎると感じる場合、ほとんどは、多くの情報から、正しい情報を選び出すことができない、ということだと思います。
ネット上の情報の多くは、誤っているか、片寄っているか、悪意に満ちているかのどれかです。
そのような多量の"クズ情報"を捨てて、わずかに残る有意義な情報を選別する、ということができないということです。
そこにある問題は、多量の情報を素早く処理する情報処理能力と、有意義な情報を選別するのに必要になる情報の不足です。
情報処理能力は鍛えれば伸びます。しかし、"必要になる情報の不足"はどうにもなりません。
"自分に不利な情報はできるだけ隠す"という人間の本能に逆らうことはできないのです。
だとしたら、少しでも真実が洩れたときに、それを集めて広く公開してしまう。一旦公開したら、情報社会の現在、それは今後消すことができないでしょう。
多量のクズ情報とわずかの真実の情報の集まりの中から、事実を選び出すにはどうしたらいいか。
多量の情報に対しては、分析と総合を繰り返して、少しずつ不要なゴミを捨てていくことです。根気のいる仕事ですね。
その時に基準になる事は、言うならば"原典主義"です。
主義主張に対して、その根拠が示されていなければ信用しない、という態度です。
実は、これだけで、多くのゴミ情報は取り除くことができます。
もちろん、このやり方に限界はあります。何も分っていないときに、ある仮説を立て、それにより多くの事象が合理的に説明でき、ほかと矛盾するところがなければ、その仮説は正しいと結論づけるやり方もあります。
実用上、問題はありません。
しかし、それが有効なのは、何も分らない、何も情報がないときでしょう。
あることに関して多くの情報がある時には、役に立たない情報を捨てることが先決で、そのためには「根拠が示されない主義主張は捨てる」というやり方が効率的だと思います。たとえ、正しい情報をそれで捨てることになっても。
情報はいつも足りません。多くの情報が溢れるようにある、と思うときは、それは「多くの情報のなかからわずかの真実の情報を判別するのに必要な情報が足りない」ということなのです。