日本語のあれこれ日記【54】

千万人といえども

[2022/6/14] 追記[2022/6/27]


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孟子の言葉

自反而縮雖千萬人吾往矣

あまりにも有名な孟子の言葉です。

日本語における読みは、おおむね「自ら顧みてなおくんば、千万人ともいえども我行かん」です。

文字の意味として一番わかりにくいのは、「縮」でしょう。

いつものように、漢和辞典として「全訳漢辞海」に当たると、動詞の意味ではいわゆる「縮む」ですが、形容詞の意味として「まっすぐなさま。正しい。」という意味が出てきます。

また「反」は、同じ漢和辞典を見ると、「裏返す」、「向きを変える」などの意味のほかに、「反省する。かえりみる。」という意味が出ています。

自分の今までの言動を、過去にさかのぼって考える、ということからきているのでしょうか。

ですから、言葉の意味としては、「自分の事を反省して正しいと思うなら、たとえ相手が"千万人"いても自分の信じる道を進む」ということにひとまずはしておきます。

千万人

さて、"千万人"です。

最初に結論ですが、これは「一千万人ではない」ということをこれから書いていきます。

というのは、ネットを見てみると、"一千万人"としている記事がいくつか見つかるのです。

漢文では、"千万人"とは、一万人の千倍の人のことではありません。

今回、いくつかの孟子の解説書を見ましたが、この点は明快さが不十分です。

また、ネット上の記事で目立つのは、原典での記述通りに"千万人"と書いている場合です。

漢文で"千万人"というところを、日本語訳として"千万人"と訳したのでは、日本語の表現としては不親切ではないでしょうか。

なぜなら、日本語で"千万人"は1000万人と解釈するのが普通だからです。

ただし、同じ漢字を使う国同士なので、どうしても原文にある"千万"という文字から離れにくいという感覚はあるでしょう。

それなら、わたしなら「(相手が)千人であろうと、一万人であろうと」というような表現にしようと思いますね。

記載の例――解説書

以下では、"千万人"の部分だけを抜き出しました。

中国古典文学大系 第三巻 論語・孟子・荀子・礼記

たとい相手が千人万人あろうとも

鑑賞 中国の古典 第三巻 孟子・墨子

敵が千人万人あろうとも

"千人万人"という表現は共通しています。少なくとも、"千万人"という表現はありませんね。


たとえば、「子供が4人か5人集まっていた」というとき、「シゴニン」という言い方をします。これは「四五人」という書き方になりますが、「45人(ヨンジュウゴニン)」ということではありません。

"千万人"は、「"千人"とか"万人"(というくらいの大勢)」という意味です。

記載の例――漢和辞典

漢辞海

千万…(1)数や量の非常に多いこと。(2)この上もない。はなはだしい。(3)状態がさまざまなこと。差が大きいこと。(4)多くの人々。大衆。(5)くれぐれも。きっと。必ず。(6)[否定文に用いて]決して。断じて。

「自反而縮雖千万人吾往」("自"の項の熟語欄にある)…自分で反省してみて正しい場合には、たとえ相手が千人万人いようとも、自分はおそれずに立ち向かって行くだろう。

漢字源

千万…(1)数や量が非常に多いこと。(2)状態や場合がいろいろさまざまであること。(3)どのような場合でも。必ず。きっと。(4)このうえもなく。非常に。

雖千万人吾往…自ら反省して正しければ、どれほど多くの人が自分に反対しても、自分の信念を曲げないですすんでいく。

なぜか、熟語の見出しには「自反而縮」の部分がなく、意味の説明文にはその部分が含まれています。"自"の項では熟語として"自反"をあげ、「自反而縮雖千万人吾往」の文をのせますが、ここには訳文、解説文はありません。

中国の古典の文章では、"千万"が1000万を意味することがないのでしょう。

そもそも、1000万という大きな数が必要な場合は、漢文、つまり中国古典の世界では考えられません。せいぜい、大きな数を言うときに比喩として使うくらいでしょう。比喩ならら「白髪三千丈」とかありますね。

一万でさえ「十分に大きな数」としてとらえられています。

万有(万有引力の法則)、万一(まんいち)、万象(森羅万象)など、とても大きい数、あるいは"全て"という意味になります。

一つだけ付け加えると、万里の長城は中国の数え方で1万里に近いとされています。これとて、長い期間にわたって、少しずつ長くしていったもので、ちょうど1万里の長さになるようにしたという訳ではないでしょう。

どのような傾向があるか

いろいろな資料を眺めると、中国古典作品の"千万人"に対する日本語の説明には、一つの傾向があるように思われてきました。

◎国語辞典では、主に、訳語、解説文において、千万人、あるいは千万の人、というように、"千万人"、またはこれに類する表現を採用する。

◎漢字辞典、中国古典作品の訳書では、"千人万人"あるいは"多くの人"という表現をとり、"千万人"という表現はとらない。

以下、具体的にその部分を取り上げます。

資料の名称はここでは短縮して表し、正式な名称は備考に示します。

【"千万人"の表現を使う】

■日本国語大辞典…千万人の反対者があっても
■新潮国語辞典 現代語・古語…千万人もの多勢の反対があっても(追記 を参照のこと)
■広辞苑…千万人の反対者があっても

【"千万人"の表現を使わない】

■中国古典文学大系…相手が千人万人あろうとも
■鑑賞 中国の古典…敵が千人万人あろうとも
■大漢語林…千人万人の相手でも
■漢辞海…相手が千人万人いようとも
■漢字源…どれほど多くの人が自分に反対しても

【"千万人"の表現を使うが例外的】

■大字源…千万の反対者があっても
■諸橋大漢和辞典…千万人の反対者があっても

ここで、"例外的"としたのは、この二つでは、熟語"千万"について、「千と万」。あるいは「数が多い」という説明をのせ、一千万という数値の意味は示していないのです。

ですから、この孟子の言葉において"千万人"と表現していても、その"千万"の意味としては、「千や万という大きな数」をさしているわけです。

国語辞典の編集者の感じ方では、"千万"には1000万という意味を含めてないと思われます。しかし、そうであっても、読者は"千万"という表記に対しては、まず"1000万"という数をイメージするでしょう。

これはなぜかというと、十、二十、百、二百、千、二千、一万、二万、というように、千以下では、十、百、千に対しては"一"を省略する習慣があるからです。

千を超えると、一億、一兆、のように、"一"をつけます。

一方、「一億、十億、百億、千億」というように並べて書くと、"一千億ではなく千億"でも違和感は少ないような印象があります。

ところが、「一万、十万、百万、千万」と書くと、"千万"について違和感が強くなるような気がします。

"千万"については、"迷惑千万"、"失礼千万"のような熟語があって、この場合のヨミは"センバン"ですが、"千万"は数値ではない意味で見慣れているいうことがあるのかもしれません。

あるいは、"千"と"(一)万"は比較的近い数値であるということが影響している可能性も考えられます。"十"や"百"は"(一)万"とはだいぶかけ離れた数値なので、印象は異なる、という考え方です。

いずれにしても、日本語では、"千"が不安定のようです。

一十万、一百万とはけっして言わないのですが、一千万は普通で、むしろ千万という表現はちょっとひっかかります。一方、千円は普通に使いますが、一千円というと、丁寧あるいは「くどい」印象があります。

一千万という解釈

これまでは、"千万"に対して、"一千万"という解釈をしていない場合を取り上げてきました。

では、"一千万"という解釈をしている例があるか、というと、ありました。

国語辞典では、"千万"について、"一千万"という意味を含めている例があります。

日本国語大辞典では、"千万"について、「万の千倍。一千万。転じてひじょうに数が多いこと。(以下略)」、また"千万人"に対しては、「一千万の人。ひじょうに多くの人。」と説明しています。ただし、例文では、"一千万"という具体的な数値を意味したものは書かれていません。

現代国語例解辞典では、「万の一000倍。転じて、非常に数量が多いこと」という説明です。ここでは「千万人といえども吾(われ)往(ゆ)かん」の言葉をあげ、「多くの困難があろうと」というように、思い切って広い意味を採用しています。

岩波新漢語辞典では、"千万"について、「一千万。転じて非常に多い数」としています。この辞書は漢字辞典ではなく、国語辞典に分類するのが適切です。

それにしても、「一千万が転じて非常に多い数」という説明は正しくないと思います。"千"とか"(一)万"が既に大きな数であると考えられているのです。

国語辞典としては、(1)一千万、(2)千とか一万とかの大きな数、(3)(千とか一万とかの数とは関係なく、単に)大きな数あるいは限りなく多いこと、の三つの意味を載せるべきではないでしょうか。 )

国語辞典でも、"一千万"という解釈をのせていないものもあります。

新潮国語辞典 現代語・古語では、「非常に数の多いこと」という説明のみで、"一千万"とか"千万などという具体的な数値は出てきません。(追記1 を参照のこと)

ただし、熟語の見出しとして「――(千万)人といへども吾(ワ)れ往(ゆ)かん」をあげ、「(自ら反省して正しければ))千万人もの多勢の反対があっても、少しも恐れずに一人で信ずる道に進もう、の意」と説明しています。どうしても"千万人"がでてくるのですね。


"千万"について、"一千万"という具体的な数値の意味で使うことがあるのだろうか、と考えてみました。

次はどうでしょうか。いずれも、内容が正しい訳ではなく、表現だけに注目してください。

「銀河系には、含まれる恒星の数が百万、千万という小型のものもあれば、十億、百億という大型なものもある」

「アフリカ大陸では、このとき初めて千万人規模の人口を持つ国家が誕生した」

いずれも、「非常に多い」という意味ではなく、10倍のスケールの場合での「百万と一億の間の数」というものです。

概数ですね。「999万9999に1を加えた一千万」ではありません。

やはり"一千万"という意味は外せません。

まとめ

このようなことを考えると、日本語で"千万"という表現は、曖昧さを避けるという点で使わない方が良いのではないかと思われます。

"1000万"に対しては"一千万"、"千とか一万というような大きな数"は、そのまま書くか、「どれほど多くても」などの表現をとるのです。

この記事を書いたきっかけ

「自ら顧みてなおくんば、千万人ともいえども我行かん」という言葉をネットで検索したときに、この言葉が吉田松陰の言葉として紹介されていたので、「それは孟子に出てくる言葉ではないか」と疑問に感じたことがそもそものきっかけです。

その後、「元総理の安倍晋三衆議院議員のホームページに『自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかん』という言葉が紹介されているが、それは誤った解釈である」という、元総理のかつての教師であった人からの記事を見つけたことです。

"一千万人"はないだろうとすぐに思ったのです

なお、ここでいう「かつての教師」の指摘は、"一千万人"という部分ではなく、もっと高い次元での批判です。誤解がないように書いておきます。

それで、安倍晋三元総理のホームページですが、衆議院議員第4区を軸にしたもののようで、選挙を考慮したものと見受けられます。

その中の「発言語録」と題されたなかに「政治信条」と言う項目があり、2007年05月25日の日付で4本の記事があり、その一つが、「自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかん」と表示されています。

本当に"一千万人"ですね。どうしたのでしょうか。

「(平成)十九年二月五日・参院予算委員会」と書かれており、国会での発言のようです。次の様な文章です。

村田清風もまた吉田松陰も孟子の言葉をよく引用されたわけでありますが、自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかんと、この自分がやっていることは間違いないだろうかと、このように何回も自省しながら、間違いないという確信を得たら、これはもう断固として信念を持って前に進んでいく、そのことが今こそ私は求められているのではないかと、このように考えております。

二人の郷土の先人の名前を出して、やっちゃいましたね。

村田清風とこの言葉の関係はまだ分かっていませんが、吉田松陰についてはいろいろな記事がネット上で見つかります。

言葉としては「自ら顧みてなおくんば、千万人といえども・・・・」で、その説明文に"一千万人"という言葉が使われているものがありました。

「一千万人といえどもわれゆかん」とは、この説明文から読みとしての文章の中に持ち込まれた言葉である可能性は考えられます。

備考 1 参照した資料

藤堂明保・福島中郎 中国古典文学大系 第3巻 論語・孟子・荀子・礼記 平凡社 昭和46年7月 第3版 p.136

島森哲男 浅野裕一 鑑賞 中国の古典 第3巻 孟子・墨子 角川書店 1989年9月 初版 p.83

新村出編 広辞苑 岩波書店 2018年1月 第7版 

鎌田正 米山寅太郎 大漢語林 大修館書店 平成4年4月 初版

上田万年・岡田正之・飯島忠夫・栄田猛猪共編 講談社 新大字典  1993年3月 第一刷

山口明穂 竹田晃編 岩波新漢語辞典 岩波書店 1994年1月 第一刷

尾崎雄二 都留春雄 西岡弘 山田勝美 山田俊雄編 大字源 角川書店 1992年3月 再版

諸橋轍次著 大漢和辞典 縮寫版 巻二 大修館書店 

上記以外は、本記事の末尾の「参考文献・辞書等の共通引用元情報について」のリンク先を参照願います。

追記 新潮国語辞典―現代語・古語―について[2022/6/27]

この記事をアップした後になって、本棚に「新潮国語辞典―現代語・古語―」の第二版があることに気づきました。

一応内容を確認しておこうかと見たところ、ちょっと見過ごせないな、という印象を受けました。

第二版は確かに以前に入手していました。現に、この記事の末尾に「参考文献・辞書等の共通引用元情報について」と書いてリンクを張っていて、そのリンク先に次のような表記があるのです。

新潮国語辞典―現代語・古語― 第二版 山田俊雄・築島裕・小林芳規・白藤禮幸編 新潮社 平成7年11月 [2017/7追加]

約5年前にこの第二版について登録してあるのです。

なぜ忘れていたかというと、この辞書はまだスキャン入力してなくて、書籍のままの状態なのです。

私の場合、辞書などのいわゆる "reference" の資料はスキャン入力してデジタル情報として内容を確認しています。それで、本のままのものについては意識が薄れていたのでした。

前置きが長くなりました。この辞書の旧版・新版の「千万」の項について、書かれていることを比較してみます。

旧版

千万…非常に数の多いこと。

――人といへども吾(ワ)れ往(ユ)かん…(自ら反省して正しければ)千万人もの多勢の反対があっても、少しも恐れずに一人で信ずる道に進もう、の意。

新版

千万…(一)千と万。非常に数の多いこと。せんばん。(二)一万の千倍。

――人(ニン)といえども吾(ワ)れ往(ユ)かん…(自ら反省して正しければ)千人万人もの多勢の反対があっても、少しも恐れずに一人で信ずる道に進もう。

新版では、「数が多い」という意味に対して「千と万」という、いわば言葉の成り立ちの情報を加え、また、1000万という具体的な数値を独立した意味として取り上げています。

説明がさらに明快になり、また意味の範囲を広げています。

また、「千万人といえども吾往かん」の説明においては、"千万人"という曖昧な表現を改めて、「千人万人もの多勢の」という、私が適切と考える表現になっています。

この項目は、今回の第二版で細かな見直しがなされたものと思われます。

残念なのは、語義"1000万"について用例がないことです。このような小型辞書で用例を豊富に取り上げるのは難しいのも事実で、それなら、日本国語大辞典でその用例を取り上げてほしいものです。

私が思いついた文例を上に二つあげましたが、まったくもって物足りません。

現代の代表的な国語辞典と私が思う四種に対して、"千万"の項の説明を比較のためにまとめておきます。四種とは、日国(日本国語大辞典第二版)、大辞林(第四版)、大辞泉(第二版)、広辞苑(第七版)で、それぞれの最新版です。

日国…万の千倍。転じてひじょうに数量が多いこと。

大辞林…(1)万の千倍の数。(2)非常に数の多いこと。

大辞泉…万の千倍。転じて非常に数の多いこと。

広辞苑…万の千倍。非常に大きい数。

日本国語大辞典と大辞泉の「万の千倍。転じて非常に数が多いこと」というような表現は間違いと言って良いでしょう。「万の千倍」といったならばそれは"1000万"ということになります。"1000万"が転じて"多数"になったのではありません。"千や万"という表現で"多数"の意味を持たせたもので、"1000万"という語義は"多数"という意味とは別物です。

"転じて"という表現をするなら、"千や一万、転じて非常に数が多いこと"ということになります。

出典について書いておきます(広辞苑は既出)

日本国語大辞典 第二版第八巻 小学館 2001年8月 第2版

松村明・三省堂編集所編 大辞林 三省堂 2019年9月 第4版

松村明監修 小学館大辞泉編集部編 大辞泉 小学館 2012年11月 第2版


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