日本語のあれこれ日記【52】

夏目漱石の書簡集がおもしろい その4

[2019/10/23]


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世の中にすきな人は段々なくなります

前回の記事に引き続き、漱石の書簡です。

いままで、漱石の書簡を色々と読んできました。

この書簡集は本当に大変な作品です。漱石は作品を書くつもりではもちろんありませんが、結果として作品として残ったと私は考えます。

一つ一つは短いので、適当に一つ選んで読み出します。すると、たいていの場合、それに関する別の書簡を読みたくなります。

同じ頃に、この外にはどんなことを書いていたのか、とか、その宛先の人物に対しては外にどのような手紙を書いているのか、とか。

あるいは、この手紙ではこんなに優しい/厳しい書き方をしているが、確か前にも似たような事かあったな、など。

また、この手紙には続きがありそうだ、とページをめくってみたり、など。

今回は、今まで読んだ中でもっとも衝撃的な書簡です。

私は、一度読んだ瞬間に、忘れられなくなりました。

漱石が実際にどのような内容を書いたのかが分るように、ということで全文を載せます。

1928(大正3)年3月29日

   津田亀次郎へ

まだ修禪(ママ)寺に御逗留ですか 私はあなたが居なくなつて淋しい氣がします面白い絵を澤山かいて来て見せて下さい金があつてからだが自由ならば私も絵の具箱をかついで修善寺へ出掛たいと思ひます 私は四月十日頃から又小説を書く筈です 私は馬鹿に生れたせゐか世の中の人間がみんないやに見えます夫から下らない不楡快な事があると夫が五日も六日も不楡快で押して行きます、丸で梅雨の天氣が晴れないのと同じ事です自分でも厭な性分だと思ひます

あなたの兄さんが百合を送つて呉れました夫から書画帖を寄こされました、呉れたのが何か書けといふ意味かと思つて聞き合せたら呉れたんぢやないのです、さうかと云つてみんな書けといふのでもないのです、私は其儘預かつて置きます

世の中にすきな人は段々なくなります、さうして天と地と草と木が美しく見えてきます、ことに此頃の春の光は甚だ好いのです、私は夫をたよりに生きてゐます
    三月二十九日        漱  石
  津田青楓様
「皿と鉢を買ひました。もつと色々なものを買ひたい。藝術品も天地と同じ楽みがあります」

最初に宛名として「津田亀次郎」とありますが、画家である津田青楓の本名です。

本文のところを読みやすく、かつ私流の読みを加えて書き直してみます。

まだ修善寺に御逗留ですか。私はあなたが居なくなって淋しい気がします。面白い絵を沢山かいて来て見せて下さい。金があってからだが自由ならば私も絵の具箱をかついで修善寺へ出掛たいと思います。私は四月十日頃から又小説を書くはずです。私は馬鹿に生れたせいか世の中の人間がみんないやに見えます。それから下らない不愉快な事があるとそれが五日も六日も不愉快で押して行きます。まるで梅雨の天気が晴れないのと同じ事です。自分でもいやな性分だと思います。

あなたの兄さんが百合を送ってくれました。それから書画帖を寄こされました。くれたのが何か書けという意味かと思って聞き合せたらくれたんじゃないのです。そうかといってみんな書けというのでもないのです。私はそのまま預かっておきます。

世の中にすきな人は段々なくなります。さうして天と地と草と木が美しく見えてきます。ことにこの頃の春の光ははなはだ好いのです。私はそれをたよりに生きています。

書き直した、といっても、句読点を調整したのと、仮名遣いを現代仮名遣いにしたこと、漢字を現代の書体にし、または仮名書きにした、というだけです。

書簡集の始めのころの書簡は漢文調ですが、この頃になると口語調で現代の文章とほとんど同じです。

「四月十日頃から又小説を書くはずです」とあります。この手紙の次に収録された手紙で次のようにかいています。

今度は短篇をいくつか書いて見たいと思ひます、その一つ一つには違つた名をつけて行く積ですが豫告の必要用(ママ)上全體の題が御入用かとも存じます故それを「こゝろ」と致して置きます。

ということから、小説「心」をさしています。

小説「心」は大正3年4月20日に連載を開始しています。「四月十日頃から又小説を書くはずです」と書いているのは、おそらく漱石が書き始めるのが4月10日頃という事なのでしょう。

実際、4月10日付けの津田青楓宛の手紙では、「小説ももう書き始めなければなりません」と書いています。

世の中にすきな人は段々なくなります

あえて、手紙の中身について触れるのを避けています。でもそろそろ触れなくてはならないでしょう。

「世の中にすきな人は段々なくなります。さうして天と地と草と木が美しく見えてきます。ことにこの頃の春の光ははなはだ好いのです。私はそれをたよりに生きています。」

「なんという告白だろう」と、ため息が出ます。

漱石と自然が一体になって光り輝いている感があります。

漱石のまわりだけが浄土のようです。快いものに囲まれてこころ安らかに生きているという印象です。

透明感とか、澄み切った心境という印象です。

でも、それだけではないようです。

「私はそれをたよりに生きています」と書いていますから、心細いところがあるのでしょう。

その心細さの点から考えると、「天と地と草と木が美しく見えてきます。ことにこの頃の春の光ははなはだ好いのです」というところは、"満ち足りた気分"ではなく、"満ち足りないがゆえの願望"、というふうにも思えてきます。

生きていくことの不安のなかで、ほのかな望みを見つけ、それを頼りに"何とか"生きている、という事ですね。

このとき、漱石は47歳。一方の津田青楓は13歳年下の34歳でした。

漱石は絵にもだいぶ打ち込み、その師が津田青楓でした。津田青楓は画家によくある事ですが経済的には苦しく、漱石は絵を買ったり、知人に勧めたりと援助する面がありました。

漱石にとって津田青楓は、絵については師であり、逆に生活を助けるという面もある、非常に密な関係にあったように思われます。そのようなことから、この手紙のように、心の奥底からの告白ができたのではないかと思われます。

漱石にとって津田青楓はどのような存在だったのか、鏡子夫人の「漱石の思い出」の中で触れている個所があります。

油絵が描いてみたくなったとみえて、絵の具箱を買って参りまして、何かと写生をしておりました。(中略)相談相手は津田青楓さんで、いっしょに静物なんぞをやったりしてましたが、どうもこの油絵ばかりは素人目にもいかにもまずく、自分でも窮屈だったらしく、とうとう物にならずじまいで、ろくろく絵の具を使わないうちにやめてしまいました。性が会わないとでも言うものでございましょう。
 津田さんとは以前からの知り合いだったのですが、自分が絵に熱中しましてからというものは、ことのほか親しくもし、縮刷版の装丁などもほとんど津田さんの手を煩わすようになっておりました。また絵の上とだけではなく、あのぬうっとしておられる無口なところなどが好きでもあったでしょう。

夏目鏡子述・松岡譲筆録 漱石の思い出 文春文庫 文藝春秋社 1994年7月  pp.352-353

本当に気に入っていた数少ない内の一人だったのですね。

さて、前回の記事で、武者小路実篤への手紙について書きました。その書き方には少し遠慮があり、距離感を感じます。

今回の津田青楓の手紙はごく親しいひとに対する密着感を感じます。ちょうど、漱石の初期の書簡集に見られた正岡子規に対する親密さに近い者です。

但し、子規の存在はあまりに近(ちか)しいもので、そのため冗談を言ったり、急に深刻な話題をとりあげたり、自由自在という感じでしたが、津田青楓に対しては、もう少しきちんとした着こなしで接しているようです。

備考

(1) 本記事の基になった書簡集(補遺を含む)については前の記事に書きましたので、ここでは省略します。

(2) 書簡集で、文字の書き間違いなどの疑問があるところを特に修正しないときは"(原)"と表記してありますが、ここではこのサイトで今までしてきたように"(ママ)"としました。


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