海外古典文学 03 翻訳の違いの影響―自省録 その3 まとめ


[2020/2/29]

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自省録―二つの翻訳 その3 まとめ

引き続き、2種類の「自省録」翻訳本の比較です。

「本を読んだときの感動や共感といったことは、翻訳本によって違いが出るか」、ということについて分析してきました。

今までの比較の結果から、「翻訳本によって違いが出る」という事が明らかになりました。

このことは、前々回の記事で書きました。前回の記事でまとめていまるので、それを次に引用します。

章を単位とした比較で、感動や共感をしたとところに赤線を引いた個所を見ると、鈴木訳で24個所、神谷訳で21個所、そのうち、共通していたのは8個所、鈴木訳のみ赤線が引かれたのは16個所、神谷訳のみ赤線が引かれたのは13個所でした。

一つの翻訳で赤線を引いた個所で、もう一つの翻訳でも赤線を引いた、というケースは少ないのです。

ただし、それぞれの翻訳で赤線を引いた個所の数はそれほどの違いはありません。これは不思議です。

このことは分析が難しいのでここでは取り上げません。

以下では、一つの翻訳のあるところに赤線を引いた所が他の翻訳では赤線が引かれなかった、という状況に注目して、なぜそのような違いが出たのか、という事を考えていくことにします。

なお、その差がどうして出たのか、という判断は微妙なところがあるので、翻訳文の違いをパターン化して定量的に分析する、ということは止め、定性的なに分析にとどめます。

以下では、具体的な翻訳者の名前は明示せず、翻訳A、翻訳Bと呼ぶことにします。

二つの翻訳の違い―翻訳者によって一つの傾向があるということではない

これは非常に重要で、かつ興味が湧くことでした。

たとえば、漢語を使うか、和語を使うか、ということについては、少なくとも、この自省録の二つの翻訳者の場合、特定の傾向はありませんでした。

具体的にいうと、翻訳Aは漢語を多用し、翻訳Bはできるだけ和語で表現する、ということではないということです。ある所では、翻訳Aで漢語を使い翻訳Bでは和語を使う、という例があるかと思うと、すぐ近くで、翻訳Aで和語を使い翻訳Bでは漢語を使うという例が見つかったりします。

その典型的な例が第7巻の第21章と第27章に現れています。第21章では翻訳A/翻訳Bとすると、「忘却」/「忘れ(動詞忘れる)」、第27章では「有りもしないもの」/「存在しないもの」という風になっています。

ですから、どちらの翻訳者も、ここは漢語が良い、ここは和語がよい、という判断をその都度行って、その判断が違っていた、ということなのでしょう。

また、(おそらくは原文にはない)言葉を補ってわかりやすく表現するとか、言葉を補うことは避けて原文に忠実ということを徹底する、という態度でも、二つの翻訳に関して、こちらの翻訳者はこのような傾向がある、という事はないのです。

二つの翻訳の違い―硬い文と柔らかい文

硬い表現と軟らかい表現があります。一般には、漢語を多用すると硬い、和語を多用すると柔らかい文章になるといえるでしょう。

今回見た自省録の二つの翻訳では、おおむね柔らかい文章の方が感動・共感を呼び起こすことが多い傾向にあります。

上に挙げた「あらゆることについての忘却」/「あらゆるものを忘れ」、「有りもしないもの」/「存在しないもの」のような例があります。

後者には特別な問題があります。存在するという意味の"ある"という動詞には否定形がないということです。動詞"ある"の未然形は"あら"ですが、"あらない"とは言いません。「存在しないもの」を動詞"ある"を使って言うことができないのです。動詞"ある"の否定は形容詞"ない"を使いますが、「ないもの」という表現はおかしい。そこで「有りもしないもの」という強調表現が日本語にはあるのでしょう。

ここでは「有りもしないもの」という強い調子の言葉があってこその表現なのでしょう。

もう一つの問題は言い換えが難しいことがあるということです。「存在しないもの」ではなく「存在するもの」だったら、その和語表現はどうなるでしょうか。

「あるもの」では、"存在"という語感が出てきません。"或るもの"というイメージが強くなります。"或る一つのもの"という意味になってしまいます。"そこにあるもの"としても、"存在"という言葉の方が印象が強くなるように思います。

「○○がある」という場合には問題がありません。文字通り、「問題がある」とか、「違いがある、傾向がある」などの表現ができます。

「具体的に何かがある」ということではなく、「存在する」ということを抽象的に表現しようとすると、とたんに難しくなります。「あり・無し」とか、「あるか無いか」というように"無い"という言葉と組み合わせてなんとか表現できる、ということになります。

これについては、翻訳の話ではないので、この位で切り上げます。

二つの翻訳の違い―冷静に述べるより、強い調子

冷静な表現より強い調子の表現の方が印象に残る、という事は、ある意味で当然です。

「彼らの生活はもはや何処にもない」という淡々とした表現よりも、「こういう人びとの生活はその痕跡すら残っていないのだ」というように、"すら・・・・いない"という構文を使うことや、末尾に"のだ"をつかって"迫ってくる"感じを出すということにより、強い表現になります。読者に迫ってくる印象が強まります。

場合によっては、こういう言い方が鼻について嫌みになることもあります。自省録の場合、書いている人がローマ皇帝なので、どんなに偉そうな表現をしても嫌みになりません。「皇帝のくせに、何をエラそうに!」なんて感じる人はいないですね。なんと言っても"哲人皇帝"と言われる人ですから。

二つの翻訳の違い―結論を先に

結論を先に言う。倒置法です。

「御前は見かけないのか。・・・・する様を。」これを通常の語順で言うと、「・・・・する様を御前は見かけないのか。」

前者の方が表現に迫力が増していることが明らかです。

同様に、「○○するのが良い。あたかも・・・・のように。」の方が、「あたかも・・・・のように、○○するのが良い。」よりも表現に迫力があります。

倒置法は話者の意気込みが感じられると言うことなのでしょう。

二つの翻訳の違い―受動態を避ける

「運命の手が織りなしてくれるもの」に対する「紡がれて生起するもの」という対応があります。

前者の能動態の方が強い表現であると感じます。その要因の一つは"何がそうするのか"が能動態では語られ、受動態では語られない、ということだと思われます。

ですから、受動態にすると行為者を隠すことができるのです。極端な言い方をすると、受動態では「(何だか分らない物/者)によって)何かがなされる」と表現するのですから、その違いは明らかです。

二つの翻訳の違い―広い意味を持つ言葉を避ける

たとえば、"褒める"という表現がなされるところがあります。"褒める"というのはあまりに広い意味を持っています。"賞賛する"というのであれば、具体的なイメージを浮かべることができます。"賞賛する"を和語であらわすなら"褒め称える"でしょう。"褒める"は「よくできました。」、"褒め称える"は「よくできました。あなたは偉い。」意味するところは"まったく"といっていいほど違います。

二つの翻訳の違い―場合により比喩を使う

「蜉蝣(かげろう)のごとく儚し」の方が「かりそめにすぎない」より印象が強くなります。

実は「蜉蝣(かげろう)」というものはよく分らない。私ははっきりと実物を見たことがない。

ただし、はかないもののたとえとして"かげろう"が出てくる。だから、"かげろう"が出てきたら"はかないのだな"と思うのです。「いいかい、あのかげろうのたとえだよ」と言われるから、なんとなくおきまりのイメージを呼び起こすのです。

これと似た話があります。「走馬燈のように想い出が駆け巡る」などと言います。私は走馬燈を見たことがありません。"走馬燈のように"という表現からは"いろいろな想い出が次々とよみがえる様子"というようなイメージです。

決まり文句になっていて、そういう約束事なのでしょう。だから、"かげろう"、"走馬燈"といえば、それぞれに対応するイメージを"約束ごと"として思い浮かべるのです。



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