海外古典文学 02 翻訳の違いの影響―自省録 その2


[2020/2/28]

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自省録―二つの翻訳 その2

引き続き、2種類の「自省録」翻訳本の比較です。

感動・共感した所に赤線を引いているので、そのような個所についての比較で、前記事では、その2冊の翻訳本で共通の巻・章に赤線が引かれているところを取り上げました。

本記事では、片方の翻訳本にだけ赤線が引かれたケースについて分析します。

なお、ここで取り上げる2種類の翻訳本については、前記事と同じ条件です。

赤線を引いた個所ですが、前記事の繰り返しになりますが、再確認しておきます。

章を単位とした比較で、鈴木訳で24個所、神谷訳で21個所、そのうち、共通していたのは8個所、鈴木訳のみ赤線が引かれたのは16個所、神谷訳のみ赤線が引かれたのは13個所でした。

感動・共感した個所の比較の結果 共通していない所について

前記事同様に、巻ごとに表形式でまとめます。片方だけに赤線が引かれた所においては、比較のために、その個所のもう一つの翻訳文を並べて表示します。

両者を区別するために、赤線を引いた側のセルの背景色を変え、またモノクロ表示・印刷を考慮して先頭に"◎"を挿入しました。

感動・共感した個所の比較の結果 共通していない所について 第3巻

表1 感動・共感した個所が共通しないところ 第3巻

鈴木訳 神谷訳
3 1 されば、生の歩みを速めねばならぬ。それは刻一刻死へと近づきつつあるがゆえのみではない。事物の省察と本質探求の働きが死に先立って停止してしまうからである。 ◎我々は急がなくてはならない、それは単に時々刻々死に近づくからだけではなく、物事にたいする洞察力や注意力が死ぬ前にすでに働かなくなってくるからである。
3 16 自分に紡がれて生起するものを愛し歓迎する ◎自分のために運命の手が織りなしてくれるものをことごとく愛し歓迎することである

第3巻第1章では、両訳の違いは明らかで、赤線を引いた方の神谷訳の翻訳文はわかりやすく言い換えてあり、鈴木訳の翻訳文は硬い事がわかります。たとえば文語体が目立ったり、漢語が多用されていたりしています。

「我々は急がなくてはならない」に対する「されば、生の歩みを速めねばならぬ」という文章では、「急ぐ」という言葉に対して「生の歩みを速める」という表現になっています。

実は、神谷訳の"急ぐ"という言葉はとても抽象的で、「一体何をどう急ぐのか」ということが曖昧です。これに対し鈴木訳の「されば、生の歩みを速めねばならぬ」とあれば、「人生の歩みを速める」ということだと分ります。でも神谷訳でも、次に続く「時々刻々死に近づく」という言葉から"急ぐ"とは「人生の歩みを急ぐ」ということだとすぐ分るのです。

また、「・・・・からだけではなく」に対する「ゆえのみではない」、「物事にたいする洞察力や注意力」に対する「事物の省察と本質探求の働き」などでも、神谷訳の軟らかい表現と鈴木訳の硬い表現という違いが見られます。"物事(ものごと)"はいわゆる大和言葉、"事物(じぶつ)"は漢語で、両者から受ける印象はかなり違ってきます。

第3巻第16章では、神谷訳の「運命の手が織りなしてくれるもの」に対する鈴木訳の「紡がれて生起するもの」では、前者には"運命の手"という"主語"が補われていて、表現しようとしている事が明快です。

一般に、文章の書き方に関して、受け身の文は避けた方が良い、という事が言われることがあります。この部分はその好例です。"紡がれて"と表現することによって、何が紡ぐのか、を明らかにしない、それが表現の深みにつながるかも知れませんが、曖昧さをもたらすことにもなります。

一方で、"運命の手"という事をあからさまに言ったら文章が台無しだ、という考え方もあるでしょう。私は、ここにおいては、「あからさまに言わずに読者の想像にゆだねる」、というより、少なくとも"わかりやすい"という点では、「はっきり述べて読者に伝える」表現の方が好ましいと感じます。

感動・共感した個所の比較の結果 共通していない所について 第4巻

表2 感動・共感した個所が共通しないところ 第4巻

鈴木訳 神谷訳
4 3 ◎憩いの場所にと、人々は田園や海浜や山地を求める。すべてそうしたことは、欲するときにおまえは自己の内に憩えるのに、この上なく知恵のないばかげたことである。今からはかの心内の小田園に退くことを忘れるな。そして何にもまして悩まず憤せず精神の自由な者となり、諸事万般を男子として一個の人間として、市民として、死すべき者として眺めよ。 おまえの目にするものすべては、変化するかしないうちに早存在しなくなる。 人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習癖がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。であるからこれからは、君自身の内なるこの小さな土地に隠退することをおぼえよ。何よりもまず気を散らさぬこと、緊張しすぎぬこと、自由であること。そして男性として、人間として、市民として、死すべき存在として物事を見よ。すべて君の見るところのものは瞬く聞に変化して存在しなくなるであろうということ。
4 6 ◎おまえも彼もまこと束の間のうちにこの世を去ってしまうであろうということ。僅かしたらおまえらの名は残りもしないであろう きわめてわずかな時間の中に、君もあの人間も死んでしまい、その後間もなく君たちの名前すらあとに残らないであろうということを。
4 20 ◎いったいどれが、褒められるがゆえに美しく、非難されるがゆえに台無しにされるというのか これらのものの中のなにがいったい賞められるから美しく、非難されるから悪くなるであろうか
4 32 あの彼らの生活はもはや何処にもない。こんどはトラヤヌス帝の治世に目を移してみよ。またしてもすべて同じものである。かの生活も死滅してしまった。 ◎ところがこういう人びとの生活はその痕跡すら残っていないのだ。つぎにトラヤーヌスの時代に移ってみよ。そこでもなにからなにまで同じことだ。その生活もまた逝ってしまった
4 35 ◎すべては蜉蝣(かげろう)のごとく儚し(はかなし)。追憶する側もされる側も。 すべてかりそめにすぎない。おぼえる者もおぼえられる者も。
4 37 すでにおまえはこの世を去って行く時になっているであろう。なのに、おまえは未だ単純率直でなく、不惑静心なく、外より害を受けぬかと猪疑することから解放されず、すべての人に心優しくあることもなく、賢明とは専ら正しきをなすことにありとすることもしない。 ◎間もなく君は死んでしまう。それなのに君はまだ単純でもなく、平静でもなく、外的な事柄によって害を受けまいかという疑惑から解放されてもおらず、あらゆる人にたいして善意をいだいているわけでもなく、知恵はただ正しい行動をなすにありと考えることもしていないのだ。
4 42 ◎変化のうちにあるものにとって、悪しきものは何一つない。ちょうど変化よりして存在するにいたるものに善きものはまた何もないように。 変化することは物事にとって悪いことではない。同様に変化の結果として存続することは物事にとって善いことではない。
4 45 後続するものは先行するものに緊密に結びついて継起するのである。なぜなら、それはばらばらに分離したものの一種の枚挙、それも専ら外からがっちりと強制された性格の枚挙といったものではなく、十分な根拠づけをもっ連結である。そして存在する諸物が一大調和をなしつつ配置されているごとく、生起するものもまた単なる継承でなく賛嘆すべきある種の近親性を顕示しているのである。 ◎後に続いて来るものは前に来たものとつねに密接な関係を持っている。なぜならばこれは単にものを別々に取り上げて数えあげ、それがただ不可避的な順序を持っているにすぎないというような場合とは異なり、そこには合理的な連絡があるのである。そしてあたかもすべての存在が調和をもって組み合わされているように、すべて生起する事柄は単なる継続ではなくある驚くべき親和性を現わしているのである。
4 48 永からぬこの時を「自然」に即して生き通し、あたかもオリーヴの実が熟すれば、自分を苧んでくれた〔母なる〕大地を賛え自分を分を生育してくれた幹に感謝しつつ大地に落ちるごとく、心穏かにその時を終えることである。 ◎このほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。あたかもよく熟れたオリーヴの実が、自分を産んだ地を賓めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝をささげながら落ちて行くように。
4 50 ◎来し方には悠久の時の深淵を、また行く手の彼方にはまた別の無限の時を望見せよ 君のうしろに永遠の時の淵が口を開けているのを見よ、また前にももう一つの無限のあるのを。

第4巻では、赤線を引いた所が一致しない所が10個所もありました。


第4巻第3章では、鈴木訳の「憩いの場所にと」という言葉が効果を出しています。これに続く「自己の内に憩えるのに」というフレーズに合点がいきます。神谷訳ではそれが無いので、「人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める」と言っても、なぜ引きこもろうとするのかさっぱり分らりません。"引きこもり"という最近の社会問題なども頭によぎって混乱する。「自分自身の内にひきこもることができる」という表現でますます混乱します。確かに神谷訳ではその後に「自分自身の魂の中に」というフレーズがあり、心のことか、とようやく気づくのですが。

さらに、鈴木訳では「男子として一個の人間として、市民として」とあるのに対し、「男性として、人間として、市民として」とあります。"男子"と"男性"とはどう違うのでしょうか。私はここでは"男子"にすべきと思います。"男子一生の仕事"、"男子の本懐"などの表現があります。"男性"ではちょっとニュアンスが違ってくると感じます。男性と言えば人類の半数を占める、性別が男というイメージですが、"男子"と言えば一個の独立した"まともな男"というイメージが浮かびます。

このように私が感じるイメージというのは、今まで使われてきた文例・語り言葉の集合から得られたもので、このように考える人は少ないのかも知れず、あるいは今後はますます減っていくのかも知れません。

しかし、とにかく現在の私が感じた事はそういうことなのです。


第4巻第6章では、なぜ神谷訳に感動・共感を感じなかったのか、ちょっと分りません。強いて言えば、"束の間のうちに"という表現に対する"きわめてわずかな時間の中に"という冗長気味な表現に共感する気持ちが薄れたのかな、と感じます。これなどは、文章の書き方において形容詞・副詞はできるだけ省く、という原則の一例となるでしょう。

第4巻20章でも、なぜ神谷訳に感動・共感を感じなかったのか、ちょっと分りません。これも強いて言えば、「褒められるがゆえに美しく」、「非難されるがゆえに」という表現に対する「賞められるから」、「非難されるから」という平易な表現がやや物足りな買ったのかな、と感じます。「ゆえに」と強調したところが良かったと言うことですね。ただし鈴木訳の「台無しにされる」という表現ははしっくり来ません。神谷訳の「悪くなる」もそうですが。


第4巻32章でも、両訳の違いはわずかです。神谷訳の「いないのだ」、「ことだ」という言葉遣いは強く迫ってくる感が、現在このような訳文の比較をしている状況でも感じます。鈴木訳の「ない」、「ものである」という冷静な文体には迫ってくる感がやや薄い。でもそれだけでは片方だけ赤線を引いたという理由としては不足していますね。

もちろん、わたしという読み手の心情のゆれ、ばらつきなども影響しているのでしょう。


第4巻35章では、鈴木訳における「すべては蜉蝣(かげろう)のごとく儚し(はかなし)。追憶する側もされる側も」という文章に対して、赤線を引いた上に、「方丈記につながる」と書き込んでいます。方丈記の冒頭ですね。

「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぷうたかたは、かつ消えかつ結びて、ひさしくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

川瀬一馬校注現代語訳 鴨長明 方丈記 講談社文庫 講談社 昭和50年11月第35刷発行 による

方丈記には、「"追憶する側も"はかない」、ということについての言及はありませんが、全体として共通点を感じます。

神谷訳の「かりそめにすぎない」という、ある種の冷静な表現に対しても鈴木訳では「蜉蝣のごとく儚し」と表現しています。「蜉蝣のごとく」という比喩は原文にはないのではないかと思われますが、この位強調してちょうど良いのではないでしょうか。

また、鈴木訳で"追憶"という言葉も効果的です。時代が過ぎて、過去になった人びとについて語っているのですから、"おぼえる"という現在も含む言葉より、過去のことであることがはっきりする"追憶"の方がこの状態に適していると思います。


第4巻37章では、神谷訳の冒頭の「間もなく君は死んでしまう。それなのに君はまだ」とたたみかける表現に圧倒されます。また、末尾の「していないのだ」といういいかたは、「まったくおまえは何をしているのだ、本当に情けない」という"責める"様な調子を感じます。これに心を動かされたのでしょう。

これに対し、鈴木訳では「まったくおまえは困ったものだねえ」と諦めたような印象を受けます。冷静と言えそうなのですが、印象としては弱くなります。


第4巻42章では、鈴木訳では「変化することはよいことだ」というニュアンスが感じられます。一方、神谷訳では「悪いことではない」と、やや消極的な表現になっていると感じます。このあたりが赤線を引いたか引かなかったかの違いに現れてきたのかな、と思います。しかし、それほど違うわけではありません。

第2文に至っては、どちらの訳文でも、その意味するところが理解できません。


第4巻45章では、神谷訳に対して、赤線を引いた上で、「仏教の因縁の考えと同じ」で書き込んでいました。訳文の「すべて生起する事柄は単なる継続ではなくある驚くべき親和性を現わしているのである」という所がそれを代表しているように感じます。鈴木訳では「生起するものもまた単なる継承でなく賛嘆すべきある種の近親性を顕示しているのである」ですが、ここで引っかかるのが"賛嘆"という言葉です。仏教の世界になってしまいますが、法華宗では法華経を賛嘆する、という表現が頻繁に出てきます。それに抵抗する気持ちが私にはあり、ここでの"賛嘆"という個所にいわば反感を感じるようなところがあったのかも知れません。

今読み返してみると、「後続するものは先行するものに緊密に結びついて継起するのである」という鈴木訳は、「後に続いて来るものは前に来たものとつねに密接な関係を持っている」という神谷訳と、わかりやすさの点で変わりはないですね。


第4巻48章では、文章の構成に違いがあります。神谷訳では「このほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。」で第1文を終え、第2文で「あたかも・・・・行くように」としているのに対し、鈴木訳では、全体を一つの文とし、「永からぬこの時を『自然』に即して生き通し、・・・・を終えることである」としています。これは長すぎます。

細かく言うと、神谷訳の「自分を産んだ地を」と鈴木訳の「自分を孕んでくれた〔母なる〕大地を」では、両者を融合させた「自分を産んでくれた大地を」がいいかな、などと思ったりします。"自分を○○してくれた"と書いた方が感謝の気持ちが伝わります。単に"地"というより"〔母なる〕大地"の方が良い。大地は"孕んてくれた"だけではなく"育ててくれた"はずです。

また鈴木訳では「孕んでくれた〔母なる〕大地、自分を生育してくれた幹」と言っていますが、神谷訳では「自分を産んだ地、自分をみのらせた樹」です。まず"幹"なのか、"樹"なのか。"幹"といってしまうと、それでは根は、枝は、葉はなにも貢献していないのか、と思ってしまいます。もっとも、樹というとその実も含んでしまうのでしょうが。

原文がどうなっているのかが分らないので、あまり細かなところを追求するのは無理というものですね。


第4巻50章では、鈴木訳では「来し方には・・・・また行く手の彼方には」とあり、神谷訳では「君のうしろに・・・・また前にも」とあります。

ここは過去と未来の両方に無限の時間がある、という事だろうと思いますので、神谷訳の様に"前後"という表現では時間軸のイメージがはっきりしない印象があります。"前後"では、どちらかというと空間的な広がりをイメージしてしまうのです。

ここに書かれたことは、私も以前に考えたことがあります。私の一生の時間を一本の数直線で表すと仮定します。まず現在というのが原点にあり、最初にその近辺を、たとえば過去と未来のいずれも1年くらいのレンジを眺めます。もう少し視界を広げ、過去・未来のそれぞれ20年位を眺めます。更に視界を広げて過去・未来それぞれ50年とすると、未来の50年先には私は生きていません。過去の50年先には私はまだ青年期です。さらに過去・未来のそれぞれ100年位を眺めると、過去の100年先には私は存在していません。眺めるレンジを500年、1000年、2000年、10,000年というようにどんどん広げていくと、結局、現在を中心としたわずかのあいだだけ私が存在して、それ以外は、私の存在はまったくの空虚といっていいほどであることが分ります。

空間的に見ても同様であることは、さらに簡単に理解できます。宇宙のほんの一点しか関係していないのですから。

これと同じようなことが、自省録のいくつかのところで語られます。(以下の引用は神谷訳による)

たとえば第6巻56章ではこうです。「アジア、ヨーロッパは宇宙の片隅。すべての大洋は宇宙の中の一滴。アトースの山は宇宙の中の小さな土塊。現在の時はことごとく永遠の中の一点。あらゆるものは小さく、変りやすく、消滅しつつある。」

また第8巻21章ではこうです。「人生は短い。褒める者にとっても褒められる者にとっても、記憶する者にとっても記憶される者にとっても。しかもすべてこの地域のこの小さな片隅でのこと。・・・・また地球全体は一点にすぎない。」

感動・共感した個所の比較の結果 共通していない所について 第5巻

表3 感動・共感した個所が共通しないところ 第5巻

鈴木訳 神谷訳
5 1 ◎おまえは見かけないか。ささやかな植物、小雀、蟻、蜘妹、蜜蜂がそれぞれ自分のことをなし、己に割り当てられた分宇宙の構成に貢献する様を。・・・・「自然」はまたその限度を与え、食べること飲むことの限度も与えているのである。にもかかわらずおまえは十分以上に突っ走るというのか。ところが実践行動においては、もはやそのようにせず「出来る限度内で」としている。 小さな草木や小鳥や蟻や蜘昧や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自己の分を果して宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。・・・・自然はこのことにも限度をおいた。同様に食べたり飲んだりすることにも限度をおいた。ところが君はその限度を越え、適度を過ごすのだ。しかも行動においてはそうではなく、できるだけのことをしていない。
5 17 ◎不可能事を追い求めることは狂気の沙汰である。だが、かかる行動を愚劣な人聞がとらぬということは不可能なことである。 不可能事を追い求めるのは狂気の沙汰である。ところが悪人がこのようなことをしないのは不可能なのである。

第5巻第1章では、鈴木訳に赤線を引いていますが、そこに次のように書き込みを加えていました。

「前半は、BHAGAVAD-GITAの『損得を忘れ、善悪から離れ、成すべき事を成せ』に通じる。

改めて調べ直すと、私の書き込みの様な表現そのままの記述は、私が持っている2種類の翻訳書(*)にはありませんでした。

(*) 末尾の「参照した資料」を参照のこと。

比較的近いのはBHAGAVAD-GITAの次のようなところしょうか。以下、上村勝彦訳です。

第2章38:苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専心せよ。そうすれば罪悪を得ることもない。

第2章48:アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。

第2章50:知性をそなえた人は、この世で、善業と悪業を共に捨てる。それ故、ヨーガを修めよ。ヨーガは諸行為における巧妙さである。

第3章19:それ故、執着することなく、常に、成すべき行為を遂行せよ。実に、執着なしに行為を行えば、人は最高の存在に達する。

BHAGAVAD-GITAの第2章38で「戦いに専心せよ」と言っているのは、戦士であるアルジュナが戦場に臨んで、同じ一族同士の戦いであることに疑問を持ち、戦うことをためらっているのに対して、クリシュナが励まし導く、という状況だからです。ですから、結局は「成すべき事を成せ」という一言に尽きるのだろうと思ったのです。

「損得を忘れ、善悪から離れ」という書き込みは、当時の私の心境から出てきたもののようです。昔、私が勤めていた企業が海外で問題を起こし、国際的な非難を浴びたことがありました。その時に会社幹部は、「損得より善悪」というスローガンを言い出したのです。なるほど、損得を考える前に、善悪を考えよ、ですね。善悪の点で問題が無いときのみ損得で行動を判断する。

しかし、BHAGAVAD-GITAは、すべての執着や価値判断から離れて行動せよ、と解きます。「これは得するからやる、これは損するからやらない」、という事だけでなく、「これは善であるからやる、これは悪だからやらない」、という判断さえも否定されるのです。

すべての執着や価値判断をすてて、なすべき事をなす。これをまさしく実践しているのが、昆虫などの様々な生き物でしょう。「小さな草木や小鳥や蟻や蜘昧や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自己の分を果して」という所に結びつくのです。たとえば、蟻が巣をつくり、蜘蛛が蜘蛛の巣を張るという行為において、そこに損得勘定もなく、善悪の判断もなく、ただおのれがなすべき事をしている。

ここにおいて、ローマの英知とインドの英知が同一点に到達した、という印象を受けてしまうのです。

しかし、人間の場合は様々ですよね。戦士であるアルジュナは戦士であることを止めることができるのです。「戦士としてやるべきこと」と、「戦士でない立場でやるべき事」はまったく違ってきます。ですから、「戦士でいるべき」か「戦士であることを止めるべき」かの判断が必要になってくる。

残念ながら、蟻が巣を作るとき、蜘蛛が蜘蛛の巣を張るときの心境がどういうものなのか、私にはまったく分りません。ただ想像できるのは、蟻や蜘蛛の行動は「すべての執着や価値判断から離れてなすべきことをなせ」ということにきわめて近い立場にあるような気がします。


長々とBHAGAVAD-GITAと絡めて書いてしまいました。

結局、我々が本を読んで感動・共感するとき、そのの背景には、読む人のその瞬間における心情が影響してきます。ですから、時を置いて2種類の翻訳本を読むとき、感動・共感のしかたは違ったものになるのはもちろん、全く同じ作品を同じ人が繰り返して読む場合でさえ、違った印象を受けることになります。


第5巻第17章では、神谷訳の第2文で"悪人が"といっているのは明らかにおかしい。趣旨が伝わってきません。善人・悪人という問題ではありません。鈴木訳の"愚劣な人聞が"というとよく分ります。

感動・共感した個所の比較の結果 共通していない所について 第6巻

表4 感動・共感した個所が共通しないところ 第6巻

鈴木訳 神谷訳
6 2 ◎おまえがなすべきことをなすに当たり、寒さに凍えてかそれとも暖まってのことか、居睡りをしてかそれとも十分寝足りてのことか、またひとから悪し様に言われてかそれとも良く言われてのことか、さらには死につつあるのかそれともそれとは何か別のことをしていてのことか、ということで違いを作るな。われわれが死ぬというその行為も人生の行為の一つであるから。ならばその際にあっても「現に自分の手もとにあることを立派に処理す」れば、もって足りる。 君が自分の義務を果すにあたって寒かろうと熱かろうと意に介すな。また眠かろうと眠りが足りていようと、人から悪くいわれようと賞められようと、まさに死に瀕していようとほかのことをしていようとかまうな。なぜなら死ぬということもまた人生の行為の一つである。それゆえにこのことにおいてもやはり「現在やっていることをよくやること」で足りるのである。
6 11 おまえの心がおまえを取り巻く環境によっていやおうなく、言うなれば惑乱のなかに投げ込まれるばあいには、速やかにおまえ自身のなかに帰り、必要以上におまえ〔本来〕のリズムから逸脱することをやめよ ◎周囲の事情のために強いられて、いわばまったく度を失ってしまったときには、大急ぎで自分の内にたちもどり、必要以上節度から離れていないようにせよ
6 15 諸物のうちあるものは生成を急ぎ、またあるものは生成の完了を急ぐ。生成のうちにあるもののなかには、はや消滅し去るものもある ◎ある物は急いで生起しようとし、ある物は急いで消減しようとし、生じ来ったものも部分的にはもう消え失せてしまった
6 48 ◎おまえの心を愉しいものにしようと思うなら、共に生きる人々の長所を想え 君が自分に楽しい思いをさせてやりたいと思うときには、君と一緒に生活している人びとの長所を考えてみるがよい

第6巻第2章では、鈴木訳に「→BHAGAVAD-GITA」という書き込みがあります。しかし、今回この二つの訳文を読んでみると違いが感じられません。

鈴木訳を読んでいたときに、ちょうどBHAGAVAD-GITAも読んでいて、何か共通点がありそうな所に強く反応したものではないかと思います。


6巻第11章は、神谷訳の方が明らかに文章がスムーズでわかりやすいです。ただし、そうであっても、この部分が特に感動・共感を引き起こすとは感じられません。


第6巻第15章では、神谷訳において赤線を引いた上で「⇒龍樹の論法に似ている」とコメントを書き込んでいます。

「生起しようとし・・・・消減しようとし・・・・生じ来った」という表現から、龍樹が中論で展開した「運動の否定」の話を想起したのでしょう。

龍樹はインド哲学者で、「大乗仏教の思想を確固たるものにした」(中村元 龍樹)と言われています。

「運動の否定」とは、龍樹が著した「中論」に説かれていることで、「未だ去らないものは去らない、既に去ってしまったものは去らない、去りつつあるものは去らない」と3回否定するものです。

「未だ去らないものは(まだ)去らない、とすれば第一の部分は理解できます。「既に去ってしまったものは(今後はもう)去らない」と考えればこれも理解できます。「去りつつあるものは去らない」とはどういうことか。私がどこかで読んだ説明では、"去りつつあるもの"とは、ある"物"が"去りつつある"という属性を持っていることを示していて、ここでいう"物"は"去りつつある"という属性と分けて見ている、つまり「"去りつつある"という属性を取り除いた後に残るもの」、という考え方である、ということでした。なるほどと思わないこともありませんが、その"物"は"去りつつある"という本質的な属性を持っているので、その属性を取り除くなどという議論しても無理だ、と感じます。

まあ、このような抽象的な、難しい話に私が口をはさむ余地はありませんが。

竜樹は何でも否定するのです。「君がどんなことをいっても、私はそれを否定する事ができる」と言ったというエピソードが残っているそうです。だったら、私なら「『どんなことでも否定する事は可能である』ということを否定して見せてくれ」、と言いたい所ですね。

神谷訳を読んでいたときは、ちょうど、龍樹の本も読んでいて、でもさっぱり分らない、という状況だったのだと思います。


第6巻第48章では、鈴木訳の「おまえの心を愉しいものにしようと思う」という表現が、神谷訳の「君が自分に楽しい思いをさせてやりたいと思う」より表現がスムーズな感じがします。しかし、この部分が特に感動・共感を引き起こすところとも共思えません。

感動・共感した個所の比較の結果 共通していない所について 第7巻

表5 感動・共感した個所が共通しないところ 第7巻

鈴木訳 神谷訳
7 21 あらゆることについての忘却は間近にある。おまえに対する万人の忘却もまた間近にある ◎遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう。
7 27 ◎有りもしないものをすでに有るものと考えず、現に有るもののうちから最も素晴らしいものを選び出し、それに対しこう想ってみることだ。ーーもしこれがなかったら自分はどんなに探し求めることであろうか、と。 存在しないものを、すでに存在するものと考えるな。それよりも現存するものの中からもっとも有難いものを数えあげ、もしこれがなかったら、どんなにこれを追い求めたであろうかということを、これに関して忘れぬようにせよ。
7 36 ◎「善きことをなしながら他方悪し様に言われるは王者のこと」。 〔アンティステネースから〕「善事をなして悪くいわれるのは王者らしいことだ。」
7 54 現在の状況には敬神の念もて満足し、現に生きている人々には正義に則って接し、現前しつつある表象には把握しえぬものがそこに滑り込まぬよう工夫に精を出す。以上のことはいずこの場所いずこの時にあってもおまえに委ねられているところである。 ◎至るところ、至る時において君にできることは、現在自分の身に起っている事柄にたいして敬慶な満足の念をいだき、現在周囲にいる人びとにたいして正義にかなった振舞いをなし、現在考えていることに全注意を注ぎ、充分把握されていないものはいっさいそこに忍び込む余地のないようにすることである。

第7巻第21章での違いは、おそらく言葉の選び方の違いでしょう。鈴木訳における「忘却」に対し、神谷訳では「忘れる」という動詞を使っています。同様に"万人"に対して、"あらゆるもの"という表現です。ですから、「万人の忘却もまた間近にある」と「あらゆるものは君を忘れてしまうであろう」では、受ける印象、具体的に言うと"迫力"が違います。後者の方が強いのです。


第7巻第27章は、面白いことに、第7巻第21章で述べた関係性が逆転しています。鈴木訳の「有りもしないもの」というように"有る"という動詞を使っているのに対し、神谷訳では「存在しないもの」というように"存在"という言葉を使っています。

また、後半部では、鈴木訳が「こう想ってみることだ。―もしこれがなかったら自分はどんなに探し求めることであろうか、と。」に対し、神谷訳では「もしこれがなかったら、どんなにこれを追い求めたであろうかということを、これに関して忘れぬようにせよ。」です。鈴木訳では「動詞+目的語」というパターンで、神谷訳では「目的語+動詞」で、後者が本来の日本語のパターンです。

「動詞+目的語」に似たことで、懐かしい想い出があります。芥川龍之介の「蜜柑」の一節に次のような所があります。

私は思わず息をのんだ。そうして刹那に一切を了解した。・・・・のである

これについて高校の時の教師が、英語の"I realized that...."という構文を日本文の中で採用したものだ、といっていた、という記憶があります。

このエピソードをどうして憶えているかというと、たまたま芥川龍之介の作品集を読んでこの"蜜柑"も読み、芥川龍之介もこのような純粋な、ほのぼのとした作品を書くんだ、と強く印象づけられたのです。そのすぐ後で、授業で教師が、「芥川龍之介が書いた作品でひとつだけ心温まるほのぼのとした小説があるが、だれか知っているか」と聞くので、私か手を上げて、"蜜柑という小説です"と答えたところ、「おう、知っていたのか」と驚かれた、という記憶があるからです。高校時代に教師に褒められたのはたぶんこのときだけだったよう様な気がします。

英語の構文をまねしたのかどうかは分りませんが、「・・・・のである、という事を"刹那に一切を了解した"」とすると、"・・・・"の部分が長い場合は特に分りにくい物になってしまいます。


第7巻第36章は、格言めいたことで、しかもとても共感できます。共感と言っても、自分もそう思っていた、というものではなく、なるほど、そういうものか、と感心する、というものです。「善い事をしても悪く言われる―それが王者ってもんだ。あきらめるしかないよ」と慰め励ますというところではないでしょうか。これが神谷訳で共感に結びつかないのは、「王者らしいことだ」という、一種冷静な表現であるのと、さらに"王者らしい"のとはちょっと違うのではないか、と思うのです。「王者としては、悪く言われても、それは仕方が無い、と受け入れるべき」ということであって、「王者としては当然」というニュアンスではないと思うので、ちょっと反感を感じます。


第7巻第54章は、構文として見ると、上記の第7巻第27章の後半部について書いた事と共通しています。鈴木訳では「(a)・・・・し、(b)・・・・し、(c)・・・・を出す。以上のことは・・・・である。」という構文であるのに対し、神谷訳では、「君にできることは、(a)・・・・をいだき、(b)・・・・をなし、(c)・・・・に注意を注ぎ、(d)・・・・のないようにすることである」という対応です。つまり、鈴木訳が「目的節+動詞」、神谷訳が「動詞+目的節」というものです。ただし、目的節の中の項目が前者は3、後者は4と、項目数が違います。そして、(a)と(b)のそれぞれは内容がおおむね対応しますが、残りは前者の(c)が後者の(c)と(d)に対応する、というようには読み取れません。

神谷訳が優れているのは、「至るところ、至る時において君にできることは」と書き出すことにより、今から何を言うのか、ということが最初から示される事です。鈴木訳ではそれが最後になるので、色々と並べ立てたことが一体何なのかがなかなか知らされないのです。

その結果、神谷訳においては感動・共感ということで赤線が引かれ、鈴木訳ではそうならなかったのでしょう。


感動・共感した個所の比較の結果 共通していない所について 第8巻

表6 感動・共感した個所が共通しないところ 第8巻

鈴木訳 神谷訳
8 21 ◎命短きものである、賞賛する者もされる者も、記憶する者もされる者も 人生は短い。褒める者にとっても褒められる者にとっても、記憶する者にとっても記憶される者にとっても
8 25 ◎その類いの人々。すべては蜉蝣にも似て儚く、とうの昔死んでしまった。ある人々は束の間さえ記憶に残らず、ある人々は昔の物語のなかに姿を変えてしまった。いや、その物語からさえ消え去って行った人々もある。 その他同様の辛棟な人びと。すべてはかなく、とうの昔に逝ってしまった。ある者は束の間も記憶に残らず、ある者は伝説化し、ある者はすでに伝説からも消え失せてしまった

第8巻第21章は、すでに何度も繰り返されてきたことです。鈴木訳が「賞賛する者もされる者も」、神谷訳が「褒める者にとっても褒められる者にとっても」という違いで、鈴木訳の方が短く引き締まった印象があります。ただし、それほどの違いとも思えません。ただし、"賞賛する"、"褒める"という言葉の違いは無視できないと思います。"褒める"というのはちょっと変な印象を受けます。"褒め讃える"ならいいのですが。


第8巻第25章でも、両訳にそれほどの違いがあるとは思えません。上記の第8巻第21章以上に違いが少ないと思います。神谷訳に赤線を引かなかったのは、すでに何度も読んでいるからということだろうと思います。ほとんど違いはありません。

感動・共感した個所の比較の結果 共通していない所について 第9巻

表7 感動・共感した個所が共通しないところ 第9巻

鈴木訳 神谷訳
9 3 ◎死を蔑ろにせず、死もまた「自然」の欲するものの一つと考えて、それに対し温かい心を持て 死を軽蔑するな。これもまた自然の欲するものの一つであるから歓迎せよ
9 33 ◎おまえの目にするものはすべてこの上なく速やかに消滅するであろう。そしてその消滅を看取る者自身もまたこの上なく速やかに消滅し去るであろう。かくしてこの上なき長寿を全うして死する者も天寿を待たずに夭折する者と同じことになるであろう。 すべて君の見ているものはまもなく消滅してしまい、その消滅するところを見ている人間自身もまもなく消滅してしまう。きわめて高齢に達して死ぬ者も結局は夭折した者と同じことになってしまうであろう。

第9巻第3章では、神谷訳の「死を軽蔑するな」が引っかかります。"軽蔑"はおかしいです。"敬遠するな"とか"遠ざけるな"などと言うことでしょう。その文の最後は"温かい心を持て"は分りますが、"歓迎せよ"は言い過ぎのように思います。「冷たくして遠ざけるなとか、あるいは忌避するようなことはするな」ということでしょう。死の来訪は喜んで迎えるものではないと思います。

このような事で神谷訳では共感できなかったのだと思います。


第9巻第33章では、鈴木訳の"言葉が過ぎた"ところが引っかかります。たとえば「消滅を看取る」は神谷訳では単に「見ている」です。これで十分です。鈴木訳の「この上なき長寿」も"そこまでではないでしょう"と感じます。"この上なき"と言うと、人間の最高齢チャンピオンの様なことになってしまいます。神谷訳の"きわめて高齢に達して"で十分です。「天寿にを待たずに夭折する」もおかしい。天寿に達するのは長寿の中でもわずかな、例外的な人です。天寿と夭折の間には随分大きな開きがあります。

ここでは、神谷訳では赤線を引いて記憶にとどめることに意味はありますが、鈴木訳ではそのようにはなりません。

感動・共感した個所の比較の結果 共通していない所について 第10巻

表8 感動・共感した個所が共通しないところ 第10巻

鈴木訳 神谷訳
10 16 もはや、善き人とはいかなるものかを討論するのはきっぱりやめよ。そうでなく、〔実際に〕そのような人間であること。 ◎善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ。

第10巻第16章では、神谷訳の「・・・・になったらどうだ」という言葉に強く印象づけられます。「そうだそうだ」と言いたくなります。「もういい加減で切り上げて」もいいですね。

恐らく原文では、神谷訳の「・・・・になったらどうだ」のところは、鈴木訳の「そのような人間であること」というような表現なのだと想像します。そうであっても、「・・・・になったらどうだ」という言い方に、ある意味では拡大解釈して、言い換えると意訳してもらいたいと思います。ここは絶対に神谷訳を採りたいと思います。

感動・共感した個所の比較の結果 共通していない所について 第12巻

表9 感動・共感した個所が共通しないところ 第12巻

鈴木訳 神谷訳
12 15 それとも、提灯の光は消されるまで照らして輝きを失うことはないのに、それにもかかわらず、真理や正義や節制はおまえの死に先立って消えてしまうというのか。 ◎豆ランプの光は、それが消えるまでは輝き、その明るさを失わない。それなのに君の内なる真理と正義と節制とは、君よりも先に消えてなくなってしまうのであろうか。
12 28 ◎「何処に神々を見、あるいは何処からその存在を納得するに至ったからといって、その ように神々を崇め敬うのか」と尋ねる人々に対して〔の私の答え〕第一に、神々は視覚にも見えるものである。第二に、とはいえ、自分の魂を私は肉眼で見たことはない。が、それにもかかわらず私は尊重する。まこと、神々もそれと同様であって、彼らの力の顕現をそのつど体験することからして私は神々の存在を納得し畏敬の念を捧げるのである 「君がそんなに神々を敬うのは、どこかで彼らを見たからなのか。それともなにかの方法で彼らの存在を確かめでもしたのか」と尋ねる人びとに。第一に、彼らはこの眼にも見える(*)。第二に、私は自分の魂を見たことはないが、それでもこれを尊ぶ。神々についても同様、私は彼らの力をことごとにはっきりと認め、そのことから彼らの存在を確信し、彼らを畏れるのである。(*)天体のことと注にある

第12巻第15章では、神谷訳の「それなのに君の内なる真理と正義と節制とは」というところで、"君の内なる"という言葉が入っていることで、随分印象が強く、またわかりやすくなります。鈴木訳の「それにもかかわらず、真理や正義や節制は」では、"真理や正義や節制"が一般的なものと理解されますから、一人の死に先立って、この世の中の"真理や正義や節制"がどうして消えることがあるというのか、と疑問を持ってしまいます。鈴木訳だけ読んだ場合、この文章の解釈には苦しみます。

実は、鈴木訳の方には、第12巻第15章の冒頭のところに注があり、それを読むと、底本ではこの15章は、章番号の"15"をカッコに入れてあり、文章はその前の14章から直結したものになっている、ということが書かれています。そこで第14章から読んでみると、"おまえ"という言葉が繰り返されていて、たしかに"おまえ"という一人の人間について語っているということが感じられます。注では「訳文ではカッコを除き、15章を改行した」と書いてありますが、そうやって第15章を第14章から独立させるなら、第15章では「それにもかかわらず、おまえの真理や正義や節制は」というように"おまえの"という言葉を書き加えて欲しいと思います。


第12巻第15章では、今読み直してみると、むしろ神谷訳の方がしっくりきます。更に、「彼らはこの眼にも見える」と言うように神々が私には見える、と書いてあるところは当然ながら疑問を感じます。神谷訳ではここに注を入れて、「天体のこと」としています。「天体のこと」といわれてもまだ納得はいかないのですが、考えるきっかけになります。

文章も神谷訳の方がスムーズに読めます。

鈴木訳に赤線をひいて感動・共感の目印にしたのに対し、神谷訳にはそうしなかった、ということは、今となっては不可解です。


この記事があまりに長くなってしまったので、前回と今回の記事のまとめは、次の記事に書きます。

参照した資料

鈴木照雄訳 マルクス・アウレリウス著 自省録 講談社学術文庫 2006年2月 第1刷発行
神谷美恵子訳 マルクス・アウレーリウス著 自省録 岩波文庫 2007年2月 改版第1刷発行
植村勝彦訳 バガヴァッド・ギーター 岩波文庫 岩波書店 2003年4月 第12刷発行
鎧 淳一訳 バガヴァッド・ギーター 講談社学術文庫 講談社 2008年3月 第1刷発行
中村 元 龍樹 講談社学術文庫 講談社 2003年3月 第4刷発行



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