海外古典文学 01 翻訳の違いの影響―自省録 その1


[2020/2/25]

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自省録―二つの翻訳

私の手元に、マルクス・アウレリウスの自省録の翻訳本が2種類あります。

鈴木照雄訳の講談社学術文庫本と、神谷美恵子訳の岩波文庫本です。

最初に鈴木照雄訳を読み、しばらくして神谷美恵子訳の本があることを知ってそちらも読みました。

私の場合、本を読んでいて、感動した、あるいは共感を憶えた所に赤の傍線を引くのが普通の読み方です。

本をスキャン入力するときには、このような赤線の所は赤線の部分を無視してスキャン(*)し、pdfファイルに変換した後で赤線部分に対して"しおり"を設定していく、というやり方をとっています。

(*) いま使っているソフトウェアでは、この機能は"カラードロップアウト"という名前がついています。指定した色の部分はないものとしてスキャンするものです。赤線を残さないのは、線があると、それも文字の一部と判断して文字認識を行うために、まるで違った文字として認識されてしまうからです。まあ、この現象は仕方がないと諦めています。

今回、この2冊の自省録をスキャン入力することにしました。

その作業中、ふと、この2種類の本に引いた赤線はどのくらい共通なのだろうか、という疑問が湧いてました。

翻訳文は別人によるものでも原文は共通だから、ほとんど同じ所に赤線を引いているのだろうか。あるいは、翻訳文の違いで、感動した、あるいは共感を憶えた所は違ってくるのだろうか。

鈴木訳と、神谷訳を読んだ時期がどれくらい間隔が開いていたのか、今となってはよく分りませんが、鈴木訳を読んで、それでは次に神谷訳を読んでみよう、と思ったのではなく、鈴木訳を読んで、その後偶然に神谷訳を見つけて読んだ、という記憶はあるので、神谷訳を読んでいるときに鈴木訳の内容を生々しく思い浮かべている、というのとは違うように思われます。

神谷訳を読んでいるとき、鈴木訳の内容は潜在意識の中にはあったにしても、それは意識の片隅に押しやられてあまり影響していないと感じます。

今回、このような背景を踏まえて、赤線を引いた所を比較してみました。

なお、この2冊の翻訳の底本は、鈴木訳は、1987年ライプチッヒで発行されたもの、神谷訳は1925、1916、1908年発行の3冊とされていて、同じものではありませんが、この2種の翻訳文の意味するところはかなりの確度で一致していることが読み取れますから、底本のテキストに大きな違いはないと想像されます。

なお、世界的な名著である自省録に対し、二つの翻訳文を比べて云々する、という事はある種の冒涜ということになるという感もあります。ただし、翻訳文の違いが、結果として読者の感動・共感という事に影響するのであれば、実験として試してみるのも意味がある、というように考えます。

感動・共感した個所の比較の方法

自省録は、全12巻からなり、それぞれの巻の文章は、章と呼ばれる通算番号がついています。この巻と章の分け方は2種の翻訳本でぴったり一致しますので、巻と章を単位として比較することにしました。

たとえば、章の中には1行だけという短いものもあれば、3ページ50行を超える長いものもあります。長い章では、同じ章でも赤線を引いた場所が違っていることもあります。

ですが、章という一つのまとまりにおいて、ある特定の行の内容も、その章全体の主張する内容と調和しているわけで、感動・共感したというのはその行だけでなく、前後の行の内容が影響していると考えた方が良いと思いました。

それで、あくまでも章を単位として比較することにしたわけです。

感動・共感した個所の比較の結果

まず、赤線の個所の数ですが、上記したように章を単位として数えて、鈴木訳で24個所、神谷訳で21個所でした。

24と21というのは私は誤差の範囲内と考えます。

同じような数の個所に赤線を引いていたのです。


それでは、赤線を引いていた所は、共通していたのか、ばらばらだったのか。

結果ですが、共通していたのは8個所でした。

これは予想よりかなり少ないです。

鈴木訳で16個所、神谷訳で13個所が片方だけに赤線が引かれていたのです。

つまり、鈴木訳で感動・共感した16個所については、神谷訳では感動・共感しなかった、ということになります。

逆に、神谷訳で感動・共感した13個所については、鈴木訳では感動・共感しなかったのです。

赤線を引くか引かないか、は、それほど厳密に判断しているのではもちろんありません。ですが、それにしても一致しないところは思ったより多いな、というのが実感です。

感動・共感した個所が共通したところ

感動・共感した個所が共通したところについて、表にまとめてみます。

巻ごとに分けて示します。

表1 感動・共感した個所が共通 第4巻

鈴木訳 神谷訳
4 17 一万年も生き永らえるであろう者のように振る舞うな。〔死の〕運命はすでに迫っている。生きているうちに、それが可能であるうちに、善き者となれ。 あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。
4 19 死後の名声に心乱される者は、以下のことを心に画いてみることをしない者である。すなわち、彼を記憶するすべての者自身もきわめて迅速に死んで行くであろう。そのあと、その人を受け継ぐ者もまた死し、かくして追憶のすべては次々に灯され、そして消えて行きつつ、ついに消え去ってしまう・・・・おまえは今、自然からの贈り物を脇に除けてしまい、他人のことばに執着しているからである。 死後の名声について胸をときめかす人間はつぎのことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え上がっては消え行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにはその記憶全体が消滅してしまうことを・・・・君は現在自然の賜物をないがしろにして時機を逸し、将来他人がいうであろうことに執着しているのだ。
4 33 嘗(かつ)て日々よく使われていた言い回しが今は死語である。まことそのように、嘗(かつ)ては囂(かまびすし)く賞讃されていた人々の名前も今はある意味で死語である・・・・すべては速やかに色槌せ物語めいたものとなってゆく。そして速やかに全き忘却がそれを埋没してしまう。・・・・そもそも永久(とわ)の記憶とはまた何であるか。全き空虚。 昔使われていた表現は今ではもうすたれてしまった。同様に昔大いにうたわれた名前もある意味で今はすたれた・・・・。すべてすみやかに色あせて伝説化し、たちまちまったき忘却に埋没されてしまう・・・・永遠の記憶などということは、いったいなにか。まったく空しいことだ。

この3個所はかなり共通の事を言っています。即ち、「人間の一生は瞬く間に終わってしまい、やがて誰も知らないようになる。だから、生きている今こそ、善き人として正しい人生を歩め」ということでしょう。

訳文としてもおおむね同じような内容です。

ただし、細かく見ると、私にとってわかりやすさ、というものに違いが出ます。

たとえば、第4巻第17章はどちらも3個の文からなっています。

第1文では私は神谷訳の方が頭にすっきり入ってきます。鈴木訳での「一万年も生き永らえるであろう者」に対しては、そんな人間はいないじゃないか、と思ってしまうのです。もちろん、「あたかも一万年も生き永らえるかのように振るまう者」ということでしょうが、ちょっと引っかかる感があります。

第2文は鈴木訳の方がわかりやすい。神谷訳の「不可避のもの」が何なのかよく分りません。鈴木訳の「〔死の〕運命」なら抵抗がありません。ここで、「〔死の〕運命」が意訳なのかどうかは分りません。原文では「不可避のもの」としか言ってないのではないか、という印象を受けます。

第4巻第19章はほぼ同じ内容と言っていいでしょう。一つだけ気になるのは最後のところで、神谷訳の「将来他人がいうであろうこと」に対し、鈴木訳では単に「他人のことば」となっていて、"将来"がありません。意味から言うと、冒頭の「死後の名声」(これは共通)ということから、「将来他人がいうであろうこと」のように"将来においてどう言われるか"を問題にしているので、神谷訳の様に"将来"という言葉があった方がわかりやすいと思います。ただし、原文で"将来"という言葉があったのか、無いのかはわかりません。

私のほんのわずかの英日・日英の翻訳の経験から判断すると、ここでの"将来"という言葉については、全体の文意から"将来"という意味合いを導き出すことができるので、"将来"という言葉を挿入することは、たとえ原文になくても妥当なことと考えます。

第4巻第33章では、ほとんど同じです。もっともここでは、人生の教訓としてもっと大事な事が語られています。今回の記事ではそのことは述べる対象ではないので省略します。残念ですが、別の記事で触れることにします。

表2 感動・共感した個所が共通 第6巻

鈴木訳 神谷訳
6 29 おまえの肉体が音をあげぬ生活において魂の方が音をあげるのは恥ずべきことである。 君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂のほうが先にへこたれるとは恥ずかしいことだ。

ここでもほとんど同じ事が語られます。私にとっては神谷訳の方がすこしですが、わかりやすい表現だと感じますが、それは「魂のほうが先にへこたれる」という部分で、"先に"と言う言葉があることで、意味がより明確になると思うのです。

原文にはこの"先に"という言葉はないのではないか、という感じがします。ただし、文の意味を考えると、"先に"を補うことでよりわかりやすくなっています。

なお、"先に"という言葉を補うことは、意訳と称するほどのことではないでしょう。

表3 感動・共感した個所が共通 第9巻

鈴木訳 神谷訳
9 40 神々は何一つなす力を持たないかその力を持つかである。されば、もしその力を持たねば、何のためにおまえは祈るのか。またもし力があれば、これらのもののどれかが実現せぬことをあるいは実現することを祈るよりも、むしろこれらのものの何をも恐れないこと欲しないこと悲しまないことを恵んでくれるようなぜ神に祈らないのか。というのは、どのみち神々にもし人間を手助けする力があるならば、これらのことに対しても彼らは手助けすることができるからである。・・・・この者は祈って、「彼女と祷を共にしますように」と言う。おまえは、「彼女と祷を共にしたいという欲望を懐きませぬように」と祈る。別の者は言う、「彼から自由の身になれますように」と。おまえは、「自由の身となることを必要としませぬように」と祈る。さらに別の者は言う、「子供を失いませぬように」と。おまえは、「失うことを恐れませぬように」と祈る。総じておまえの祈りを以上のごとき方向に定め、その上でどういうことになるかを見よ。 神々はなにもできないか、それともなにかできるか、そのいずれかだ。もしなにもできないならば、どうして君は祈るのだ。 もしなにかできるならば、これこれのことが起るようにしてくれとか起らないようにしてくれとか祈るよりも、これらの中の何ものをも恐れず、何ものをも欲せず、何ものについても悲しまぬようにして下さいとなぜ祈らないのか。なぜならば、もし彼らが一般に人聞を助けることができるならば、このことについても助けることができるはずなのだ。・・・・ある人はこう祈る。「あの女と一緒に寝ることができますように」と。ところが君はこう祈るのだ、「あの女と一緒に寝る欲望を持たないことができますように」と。他の者は祈る。「あの人聞を厄介払いできますように」と。ところが君は「厄介払いする必要を感じないことができますように」と祈るのだ。もう一人の人間は祈る。「どうか私の子供を失うことのないように」と。ところが君は「失うことを恐れずにいることができますように」と祈るのだ。要するに君の祈りにこういう傾向を与えて、どんなことになるか見ているがいい。
9 42 ひとに親切を施してその上何をおまえは欲するというのか。おまえの「自然」に即して事をなしたことで十分というのでなくその報酬をおまえは求めるのか。あたかも、目がものを見るからといい、足が歩くからといって報酬を求めるように。これらのものは、これこれのある仕事〔を果たす〕ために生じてきたのであり、その仕事をそのものの固有の成り立ちに従って果たすならばその固有のもの〔目的〕を獲得する、そのように人間もまた、ひとに親切を尽くすべく生まれついた者ゆえ、ひとに何か親切なことをするとき彼は自分の成り立ちがそのためのものであることを果たしたのであり彼本来のもの〔目的〕を手にしているのである。 他人の厚顔無恥に腹の立つとき、ただちに自ら問うてみよ、「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか」と。ありえない。それならばありえぬことを求めるな。・・・・眼が見るからといって報いを要求したり、足が歩くからといってこれを要求するのと少しも変りない。なぜならば、あたかもこれらのものが各々その特別の任務のために創られ、その固有の構成に従ってこれを果し、そのことによって自己の本分を全うするように、人間も親切をするように生まれついているのであるから、なにか親切なことをしたときや、その他公益のために人と協力した場合には、彼の創られた目的を果したのであり、自己の本分を全うしたのである。

第9巻第40章では神に何を祈るのか、というテーマです。

「○○が欲しいので、どうか私が手に入りまするように」ではなく、「どうか、○○が欲しいという気持ちが起きないように」あるいは「どうか、○○が手に入らなくても平気になりますように」と考え方(祈る内容)を変えてはどうか、と言っています。

ここにおいても、細部に違いはありますが、どちらも同じように響きます。

この部分は、第42章の冒頭の「他人の厚顔無恥に腹の立つとき、ただちに自ら問うてみよ、『世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか』と。ありえない。それならばありえぬことを求めるな。」という文章にもつながります。

第6巻第42章はおよそ2ページにわたる長い章で、ここでは赤線を引いた個所を中心に抜き出しました。

たとえば、冒頭の「他人の厚顔無恥に腹の立つとき、ただちに自ら問うてみよ、『世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか』」の部分は、神谷訳では赤線を引きましたが、鈴木訳では引いていません。

鈴木訳ではこうです。「おまえがある者の無恥に怒りを覚えるときには、直ちにおまえ自身に尋ねよ、『いったいこの宇宙に無恥な者どもが存在しないことができるか』と。」

神谷訳の方が言葉の流れがスムーズであると感じられます。鈴木訳は表現が堅いという印象です。ですから、鈴木訳を読んだときは赤線を引かず(共感に至らず)、神谷訳を読んだときは赤線を引いたのでしょう。

ですが、この章は長くて、いろいろな事が書かれています。「目がものを見るからといい、足が歩くからといって報酬を求めるようなことは無いではないか」、という所に共感を覚えて、これは両訳に共通して赤線を引いています。

「人間は成すべき事をなせばいいのである」ということは、他にも同じような事が言われていて、たとえばヒンズー教の経典の一つ「バガヴァット・ギーター」で繰り返して解かれる言葉になっています。

表4 感動・共感した個所が共通 第10巻

鈴木訳 神谷訳
10 8 神々の欲するところは人聞から諂(へつら)ってもらうことではなく、すべての理性的なものが自分ら〔神々〕と等しくなることであり、無花果の木が無花果のことを、犬が犬のことを、蜜蜂が蜜蜂のことを、そして人聞が人間のことをなすことである。 神々が望むのはお世辞ではなく、あらゆる理性的動物が彼らに似ることなのである。また無花果が無花果の分を果し、犬が犬の分を果し、蜜蜂が蜜蜂の分を果し、人聞が人間の分を果すことを望むのである。
10 35 健康な眼は見えるものすべてを見、「黄緑色のものだけを見たい」と言うことは許されない。、健康な精神もまた生起するすべてに対する受け入れ態勢ができていなければならぬ・・・・健康な精神もまた生起するすべてに対する受け入れ態勢ができていなければならぬ。「子供が助かりますように」と言い、「自分のなすことは何でも人々が褒めてくれますように」と言う精神は、黄緑色を求める眼であり柔らかいものを求める歯である。 健全な眼は、なんでも見える物を見るべきであって、「私は緑色のものが見たい」などというべきではない。・・・・さらにまた健全な精神もあらゆる出来事にたいして用意がなくてはならない。ところが・・・・「私の子供たちが助かりますように」とか「私がなにをしようとも皆の者に賞讃されますように」などという精神は緑色のものを要求する眼であり、柔らかいものを要求する歯である。

第10巻第8章でも、両訳の違いはわずかです。

細かく言うと、「人聞から諂(へつら)ってもらう」か「お世辞」か、といえば、なんといっても神々のことですから、神谷訳の「お世辞」はあまりに俗っぽく、鈴木訳の「諂(へつら)ってもらう」の方がしっくりきます。

一方、鈴木訳の「無花果の木が無花果のことを(なす)」というところでは、神谷訳の「無花果が無花果の分を果し」における"の分を果し"という表現が生きていて、文意がより明確です。

第10巻第35章では、両訳はかなり近い表現です。

色について、方や"黄緑色"、方や"緑色"と言っているのがおもしろい。ここで何色にするかは、原文において何でも良いところです。

ともかく、ギリシャ語で何色と書いたのですね。それを"黄緑色"と訳すか"緑色"と訳すか、これはどちらでもいいとするしかありません。

そもそも色の境界は曖昧です。たとえば、英語で"blue"とあれば"青色"としておおむね良さそうです。しかし"pink"は難しいです。英語の"pink"がカバーする領域は日本語の"赤色"の一部、それも決して少なくない領域を含みます。英米人が"pink"と表現した色を日本人は、時には"ピンク"、時には"赤"と認識するのです。

それで、もしかすると、原文は"黄緑色"に近い言葉なのかもしれません。しかし、ここでの色名は何でもいいので、"黄緑色"という中間色より"緑色"という原色の方がわかりやすい、と考えることもできます。

感動・共感した個所が共通したところ―まとめ

こうしてみてみると、二つの翻訳書に共通して赤線を引いたところは、細かな点で違いがあるものの、読んだときに受ける印象はおおむね同じです。

原文がどうなっているのか分らないので判断が難しいのですが、私が推測する範囲では、意訳、あるいはその手前の「わかりやすさ優先」の訳文の方が、原文を忠実に翻訳したものより少しだけわかりやすい、と感じます。

また、2種類の翻訳は、互いに、ここはこちらの方がわかりやすい、またここは別の方がわかりやすい、というように、わかりやすさ、という点での優劣が拮抗しているように思われます。

ということは、この二つの翻訳が、意訳、あるいはその手前の「わかりやすさ優先」の訳文を限定的に採用していて、しかしその個所は共通ではない事が多いのです。

おそらくは両翻訳共に、意訳、あるいはその手前の「わかりやすさ優先」という事について、"抑制的"な態度をとっているのだと思われます。原則としては原文に忠実に翻訳し、最小限のところで「わかりやすさを優先」させたのでしょう。


さて、この記事が思いの外長くなったので、「感動・共感した個所が共通していなかったところ」については、次の記事に回します。

参照した資料

鈴木照雄訳 マルクス・アウレリウス著 自省録 講談社学術文庫 2006年2月 第1刷発行
神谷美恵子訳 マルクス・アウレーリウス著 自省録 岩波文庫 2007年2月 改版第1刷発行

備考

神谷美恵子訳では、原著作者のことを「マルクス・アウレーリウス」としていますが、他の多くの例では「マルクス・アウレリウス」と表記しています。私のサイトでは、神谷美恵子訳の書籍名を引用するとき以外は「マルクス・アウレリウス」という表記で統一します。ちなみに、英和辞典を引くと、発音としては、"オーリーリアス"又は"オーリーリャス"のような表記ですが、これは"英語訛り"なのであまり参考にはなりません。[2020/3/19 追記]



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