【6】茨城県水戸市 薬王院


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薬王院文書における本堂再建関係記事の検討

茨城県水戸市にある薬王院です。

他の薬王院と区別するために、吉田山薬王院とよばれることも多いようです。

ちなみに、東京都では高尾山薬王院が有名で、茨城県内では椎尾山薬王院などもあります。

国指定重要文化財に本堂が指定されています。


入口の前に仁王門、その奥に本堂があります。

仁王門

仁王門

仁王像はここからは見えません。

すきまからのぞく、という事は、寺院については基本的にしないことにしていますので、仁王像は撮りません。

仁王門の蟇股

仁王門の蟇股

屋根の下は朱塗りですが、中央の蟇股(かえるまた)は、とても目立つ彩色です。

左右の中備は蓑束の典型的な形をしています。


本堂に向かう手前に四脚門がありました。

四脚門

四脚門

ネットで境内全図を見ることができますが、四脚門としか書かれていないので、固有の名前はないようです。

四脚門の蟇股

四脚門の蟇股

見上げると、非常に大きな蟇股が、そしてその左右に彫刻があります。
右は龍のようです。左の動物は何でしょうか。


さらに進むと、水戸市教育委員会による説明板。

説明板

説明板

1527年に火災で焼失、1529年に江戸通泰の援助により再建、とあります。

すぐに再建されたようですね。

この再建について考えたことはこちらにまとめました


なお、"江戸道泰"は、"江戸通泰"ではないでしょうか。
たとえば、茨城県史料 中世編II (P.292)では江戸通泰の書状が掲載されていますが、
全て"通泰"です。書状の本文に現れています。
ネットで検索すると、"道泰"と書かれたサイトが多数を占めますが、
文章からみて、この説明板から採ったものが多いように思えます。

ただし、"道"の字が使われることは決してないわけではありません。
上記書のP.312では、「大旦那但馬守忠道(江戸)」とあります。
"江戸通泰"の子の"江戸忠通"のことでしょう。


備考:水戸市教育委員会にこの件を連絡したところ、後日電話があり、
「調査した結果、"道"ではなく"通"が正しいので修正します」という事でした。
それにしても、今まで誰にも指摘されなかったのは不思議ですね。


本堂正面前景

本堂正面前景

非常に大きな建物が石畳の先にあります。

本堂正面

本堂正面

桁行き七間、梁間五間の正面七間の全体がこれです。

左右の端の一間には引き戸が、残りの五間には両開きの扉が備わっています。

内部の構造が気になるところです。

本堂正面右

本堂正面右

昭和43年から解体修理がなされたと、上記の説明板に書かれていますから、
大部分は45年くらい前のものでしょう。

本堂軒下

本堂軒下

正面中央之の上部です。

二手先の出物、中備は蓑束。

彩色はなく、装飾も控えめで、落ち着いたたたずまいです。

正面を右から

正面を右から

二段の垂木の先の分厚い軒先が印象的です。

このページの上にのせた「本堂正面前景」の写真でも屋根は随分大きいです。

茅葺型の銅板葺は、本来茅葺だった屋根の保存性を高めるために、その上を銅板で覆った、
というのが普通だと思うのですが、そのように書いてある資料は見つかりませんでした。

右側面

右側面

梁間五間です。

戸が、正面からの最初の一間と中央の一間の二か所にあります。

内部構造が分らないので、どうしてこのような作りになっているのかは分りません。

それぞれ、外陣、内陣に接続している、ということでしょうか。

正面右上部

正面右上部

組物は正面と同じ形状のように見えますが、中備は蓑束といっても、装飾はだいぶ違います。

正面の蓑束は左右に大きく広がっていますが、側面では張り出しは小さく、蓑束の典型的な形です。

また、組物の形は正面と同じで、拳鼻(こぶしばな)も同じです。

貫の端の木鼻と組物の拳鼻は同じようなデザインですね。

組物

組物

木鼻に渦巻きの文様が見られます。禅宗様ですね。

左側面

左側面

右側面と同じです。

縁の下右

縁の下-右

亀腹の盛り上がりがよく見えています。

縁の下中

縁の下-中

縁束の下の礎石は自然石が使われ、母屋の丸い柱は、円形の礎盤を介して、上面が平滑な礎石に連結します。

礎盤と基盤の間は空間ではなく、角材の両端を基盤の外周の形に削ってぴったりとはめ込んであります。
さらに、この角材の下部には、礎石の上面とつながる石材があります。

縁の下左

縁の下-左

亀腹のスロープの部分には、縦方向の格子が、スロープの形にあうように曲線で整形されています。

これは何なんでしょうか。効果の見当がつきません。

けらば

けらば

薬王院で最も印象的なのがこの部分です。

入母屋形式の上部の妻の屋根の端部をけらぱというらしいです。

入母屋式では、上部の切り妻の部分と下部の寄棟の上部を水平に切り取った下側を上下に重ねます。
従って、このようななめらかな曲面は通常はできません。

銅板を葺くときの技法なのでしょうか。

ここは写真として魅力的なところです。
できればあちこち歩き回って、良いアングルを探したかったのですが、
地面が大変ぬかっていて、靴に泥がくっつきます。

靴が汚れるのはどうでもいいのですが、そのあとで泥だらけの靴で歩き回ると、
境内のあちこちに汚い足跡が残りそうで、今回は歩き回るのは遠慮しました。

次回、天気のいいときのお楽しみです。



【感想】

まず、敷地の広いことに驚きました。
たとえば、仁王門から本堂まで100mくらいあります。
回向堂、客殿などの建物の周囲もゆったりとしたスペースがあります。

茨城県には、神社はいくつか広いところがありますが、寺院では少ないのではないでしょうか。

また、重要文化財の本堂ですが、実に頑丈な作り、という印象を受けました。
建築には素人の私にも、これはすごい、と感じます。

柵があって、裏側は見ることができないのはちょっと残念でした。


【追記 2014/10/21】

薬王院のサイトによると、江戸時代の貞享年間に本堂が再建されていて、その際に本堂が南向きから東向きに変えられ、そのほかも大きな改変がなされた、ということが書かれています。以下は上記の薬王院のサイトの「吉田山神宮寺薬王院のあゆみ」の中の「江戸時代」の項目から引用です。

貞享五年(1688)には、酒井藤内、中嶋甚五衛門を奉行とし、橋本源衛門、福生弥左衛門らを大工棟梁として本堂を再建している。この時、南向きであった本堂が東向きに変えられ、床と縁が撤去され、全面土間となり、建物は全く禅宗様の形態に変わった(昭和四三年に着手された薬師堂の修復工事では、貞享時の改変を建立当初の姿に復旧している)。

昭和43年からの解体修理により創建当時の姿に復元されたことは上記の説明板に書かれていますが、本堂の向きは元の南向きに戻ることはなかったようで、現在も東向きです。

この貞享年間の改変については同じ水戸市の仏性寺も同じような事情があり、少しばかり考えてみましたのでご参考まで。


【備考】再建期間について考えてみました。

薬王院のホームページには、1927年の焼失後の再建について、
「享禄二年(1529)8月に棟上げが行われ、翌三年10月8日に入仏式」、とありました。

薬王院のホームページはこちら

本尊を据えた後では、大っぴらに工事をするわけには行かないでしょうから、
享禄三年(1530年)10月8日には完成していたのでしょう。

説明板に「享禄2年(1529年)に再建された」と書いてあるのは、
棟上げが行われた事をもって再建がなった、という判断でしょうか。

それにしても、焼失の3年後には再建工事が完了した、というのは随分早いものと思います。

建物のいたみががひどくなってきたから、そろそろ修理にかかるか、といって始まったものではありません。

火災ですから突然焼失したわけで、再建の準備は何もされていない状態です。
図面などは最初からないのか、あるいは焼けてしまったかもしれません。

これだけの建物を作るには、予算措置、棟梁の選択と依頼交渉、
そして建築の詳細についてのプランニング、また腕のいい宮大工の手配、
膨大な量の材料の手配、などなど

具体的な作業の開始までに1年や2年はかかりそうな気がします。


延暦年間(782~806)に創建されたと書かれています。
ということは、700年以上の昔につくられた。

その間、再建とか修理とかがどのくらいあったのか分りませんが、
700年前の造りが残っているとすると、その後、建築様式は大分変っています。

現実には、今の様な本堂が創建時にできた、という事はないでしょうが、
本堂が最初にいつつくられたのか、についは分りません。

いずれにしても、昔の様式で再建するには、技術が変わってしまっているから、
それに詳しい棟梁や大工を探す必要があります。

多分それは無理でしょうから、再建時の様式でつくるのでしょうね。

そうなると、ゼロから作るのと同じようなことになり、設計が大きな手間になります。
建てる、という事の実作業は、設計のめどが立ったのち、材料を発注、そしてその納入、
そうしてやっと開始できます。

木材についても難しいですね。

木材は、切り出した後で乾燥させる期間が必要です。
火災で焼けたので再建する、といっても、その時にちょうど乾燥した木材が手に入った、
などといううまい話はないでしょう。

もっとも、木材の産地では、日本のどこかで需要があるはずだから、ということで
木材のストックがとってあるのでしょうか。


当時はどのような状況かと調べました。

応仁の乱(1467~1477)が終わり、室町幕府の権威は地に落ち、
日本の各地で、地方領主は勢力拡大に明け暮れ、下剋上、そして戦国時代に突入します。

常陸江戸氏は北に大勢力の佐竹氏と接していて、正面衝突は避けながら、 常陸南部や常陸西部に浸食して行きました。

北条早雲が勢力拡大していった時期と重なります。

薬王院本堂の再建を推進した江戸通泰は1535年に51歳で没しています。

1530年完成当時は、通泰にとって"忙しく活動していた"時期のようです。

再建プロジェクトを具体的に進めたのは誰でしょうか。
江戸氏のブレーンが多数関与したのでしょうか。

江戸氏は資金提供だけで、プロジェクト推進は寺院側(住職・檀信徒)だけでしょうか。

その辺りは見当がつきませんが、いずれにしても、人の手配、物の手配、
そして膨大な量の材料の運搬、等々、
今の様な通信手段、交通・運搬手段が整備されているわけではなく、
連絡するには馬を飛ばして書状を手渡すしかなく、また、
木材の運搬は、近くには大きな川がありませんから、そりに乗せて馬で引いたのでしょうか。

戦乱のさ中にやるのですから、大変な苦労で、
それで、3年で再建をした、というのが驚異的と思えるのです。


薬王院文書というものがあり、手掛かりがあるかと思い調べました。

長くなりましたので、別のページにまとめました。興味のある方はご覧ください。


薬王院文書における本堂再建関係記事の検討



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