【6-2】茨城県水戸市 薬王院文書における薬王院本堂再建関係記事の検討


薬王院の写真のページに戻る

茨城県水戸市にある薬王院です。

写真のページに書いたように、本堂が全焼したとき、約3年で再建された、と書かれています。

余りに早いのではないか、と感じたことがきっかけとなり、薬王院文書を調査しました。


素人のにわか勉強ですので、誤り等は御容赦願います。


なお、再建の時期は、大永7年から享禄3年で西暦1527~1530年の戦国時代にあたります。


薬王院文書は「茨城県史料」に系統的に収録されています。
また、「新編常陸国誌」にも収録されています。


編集年度の新しい「茨城県史料」を元に、「新編常陸国誌」も参照しました。


薬王院文書で、本堂の再建工事の経緯について情報が得られそうなのは、「茨城県史料」では4件でした。

50 江戸通泰掟写

51 江戸通泰掟写

54 江戸通泰書状写

121 薬王院御堂御柱立吉日覚写

上記の最初の番号は、「茨城県史料」の薬王院文書中の通し番号です。

このほかにいくつか再建工事に関する文書がありますが、単なる備品のリストの
メモなので今回は対象外とします。

上記の51と121の文書は「新編常陸国誌」にも収録されているので参照しました。


以下、各文書の概要を以下に述べ、詳細な内容は別ウィンドウに表示することにします。


50 江戸通泰掟写

詳細内容はこちらです。(クリックすると別ウィンドウに全文が表示されます)

五〇  江戸通泰掟冩

    なお〳〵申入候

わざとふミして申候、

仍ひふつの御事をくち〳〵ニはん〳〵ニ御さうたんくちおしく御さ候こと、

御やうたいをうけたまハり候へハ、ちきニおかミ申したるとうせんの事

一 こん日御さうゑいせん二百貫文しんなう申へき事、

  御さうゑいニおいてハミちやすに御まかせあるへく候

一 こまたうすなハち御たうニ御さ候事

一 十二とう一夜一日も御けたいあるましき事

一 むかしよりのきやうしせんほう御ふさたあるましき事

一 きやくそう一夜一日も御とめあるへからす候事

一 へつたうさまミとのきねんニ御さうゑいのあいた、御いてあるましき事、

  かたく申さため候

一 こん日より御さいくう御ゆたんあるへからす候事、此てう〳〵

  御しつねんあるましく候、

かしく

    六月十二日 むまの日

             ミちやす(花押影)

  よしたさんへ          たし□

        まいる


きちんと読めるわけではもちろんありませんが、
私なりに理解した範囲で、要約すると以下の様になります。

なお、この書状は、当時の水戸地方を支配していた江戸氏の当主江戸通泰(みちやす)が吉田山薬王院に送った書状です。


・造営銭200貫文を寄進します。

・造営においては、私江戸通泰にお任せください。

・十二灯など従来行ってきた仏事はいままでどおり続けていただきたい。

・薬王院別当様に於いては、造営中は決して出歩かないようにしていただきたい。

・6月12日うまの日


重要な点がいくつかあります。

(1)6月12日は、本堂焼失の翌日である。

(2)造営は私江戸通泰が全面的に支援すると宣言している。

(3)当主が出す書状は、通常は祐筆(書記の役人)が漢文調で書くのが普通だが、かなを多用している


本堂が全焼してしまったのだから大変な騒ぎになっていたでしょう。
その中で、その翌日、このような具体的な内容の書状を送っているのです。

そして、「御造営においては通泰におまかせあれ」といっています。

江戸通泰が薬王院に寄せる気持ちの強い事を強く感じます。

(3)のかなを多用、というのは、通泰の自筆と考えてよいのではないでしょうか。

時間の余裕がなかったのでしょう。


江戸通泰が薬王院に寄せる強い気持ちの根源は、次の文書のところで書きますが、
江戸氏が支配する範囲で最大の勢力を持つ大寺の薬王院を、自分の勢力下に置きたい、
という願いにあったのではないでしょうか。私の想像の域を超えませんが。


51 江戸通泰掟写

詳細内容はこちらです。(クリックすると別ウィンドウに全文が表示されます)

検討内容を、経過をたどってもう少し詳細に記録したものはこちらです。(クリックすると別ウィンドウに全文が表示されます)

五一 江戸通泰掟冩

    猶々令申候、急度指圖被相定、重而市際可蒙仰候、自今已後之儀

    可被相任候、通泰於子〻孫〻此條違背不可申候よし存迄に候

就藥師堂御再興御懇切之尊書、先以目出畏入奉存候、然者今般改而

萬疋之地寄進可申之由、先日已來两三度申宣候處、頻御辞退之上、

兎も角も任尊意候、此上御所望之儀候哉、奉得其意候、通義被申定

候條〻之事

一 寺家之内竹木一本一枝も不可切事

一 寺家之内下人男女共誰も不可召仕事

    重而通泰申定候事

一 寺家之中傳馬・飛脚借不可申之事

一 堀・壁之普請等之用所不可申之事

一 御堂之事、堅七間仁可被相定候、向後之再興、上葺之義大途思召

候哉、無御餘義候、雖然我〻名代致相續候ハん者、爭可奉存別心

候哉、拙子仁可被相任候、爲後日如斯候條、御同意所仰候、恐〻

敬白

                   但馬守(江戸)

大永七年丁亥  六月廿三日         通泰(花押影)

       吉田寺別當

            尊答


先の50の文書のところで書きましたが、通常は書状というものは、
このような漢文調で書くもののようです。

私の理解できる範囲で、読みやすいように書き変えてみました。


江戸通泰掟写し

なおなお申せしむ

きっと指図相定められ、重ねて子細仰せらるべく候

自今以後の儀相任せらるべく候

通泰子々孫々において此の條違背申しべからざり候よし存ずまでに候

ここまでは、いわば追伸という部分(追而書き(おってがき)と言います)で、ここからが本文です。

藥師堂の御再興について懇切の尊書、まずもってめでたくかしこみいり存じ奉り候

しかれども今般改めて万疋の地を寄進申すべきの由、先日以来両三度のべ申し候ところ、
しきりに御辞退の上は、とにもかくにも尊意に任せ候

此の上御所望の儀候や、其の意得奉り候

通義申し定めらる條々の事(は以下の通り)

寺家の内、竹木一本一枝も切るべからざること

寺家の下人男女とも誰も召し使わざる事

重ねて通泰が申し定めし候事

寺家の中伝馬・飛脚借りは申すべからざるの事(または借りはこれを申すべからざる事)

堀・壁の普請等の用所は申すべからざるの事(または用所はこれを申すべからざる事)

御堂の事、竪七間に相定めらるべく候

向後の再興、上葺(うわぶき)の義大途思召し候や、余義なく候、

しかりといえども、我々名代を相続致しそうろはんは、いかでか別心を存じ奉るべきや

拙子に相任せらるべく候

後日のために斯くのごとき候條、御同意おおすところに候


理解できないところは多々ありますが、見当がつき、重要と思われる事は以下です。

(1)薬師堂(焼失した本堂)の再建について手紙をいただき、ありがたく思います。

(2)寄進について、二度三度と申し入れしましたが辞退されるとのこと、とにかくそちらの御意向に任せます。

(3)先代当主通義(これは法名、江戸通雅のこと)が薬王院に対して二カ条の誓約をしました。

(4)其の上で私通泰は二カ条の誓約を付け加えます。

(5)本堂の大きさは桁行き(正面の幅)を七間としてください


本堂再建について、薬王院から通泰に書状が届いたので、その返答のようです。

通泰が寄進を申し出たのに薬王院は辞退しています。

結局、3年後に本堂の再建工事が完了していることから、

資金は通泰が提供したのでしょう。

でも、薬王院は資金提供の申し出を簡単には受けなかった。

先の50の文書で、
「薬王院別当様に於いては、造営中は決して出歩かないようにしていただきたい」
という文があります。

これは、出歩いて、資金を江戸家以外に求めようとしてはなりません、
ということなのかな、と思ったりします。今のところ、この解釈以外には思い付きません。

薬王院は通泰からの有利な申し入れを受けたくないと思っている。


次は、三番目の文書です。

54 江戸通泰書状写

詳細内容はこちらです。(クリックすると別ウィンドウに全文が表示されます)

五四 江戸通泰書状冩

謹上 吉田別當      江戸

      御同宿中   藤原通泰

    追啓

    後日之義、翻寶印、以神名可申定候、爰元之義不可有御疑心候、

    重而恐〻

急度啓進、抑今般於吉田山不慮之儀、單其様御不運、於通泰も不吉

之由存、迷惑何事欤可過之候哉、然者就之御出歩御十分至極候、雖

然彼仁無覺悟無余義候之上、任□意身命不覃相助候、不私題目候間、

御門徒中へ有御披露、於其上早〻御帰寺可畏入候、何様依彼御返答

中途へ可罷出候、先以使如此申宣候、恐〻敬白

      十月九日          藤原通泰(花押影)

謹上  吉田別當御同宿中


私の理解できる範囲で、読みやすいように書き変えてみました。


後日の義、宝印を翻(ひるがえ)し、神名をもって申し定むべく候

ここもとの義、御疑心あるべからず候

重ねて恐々

きっと啓進

そもそも今般の吉田山における不慮の事、ひとえにそのさま御不運、

通泰に於いても不吉の由に存ず、迷惑何事かこれに過ぐべく候か

然ればこれについての出歩きは十分しごくに候

しかれども、かの仁に覚悟なく余義なく候の上は、貴意に任せ、身命に及ばず相助け候

わたくしせざる題目に候間、御門徒中へ御披露あれ、

其の上に於いては、早々の御帰寺おそれ入るべきに候

いかさまのかの御返答に依りては、中途へ罷り出づべく候

まずもって、かくのごとく申しのべせしめ候、

謹上  吉田別當御同宿中


初めの3行は追而書(おってがき)と呼ばれるもので、いわゆる追伸の部分です。

書状の最初に書くのがしきたりで、そのために、あらかじめ何行か空けて本文を書き出し、
本文を書き終わった後に、最初の空いたところに追伸を書き加えるものです。

「宝印を翻(ひるがえ)し、神名をもって申し定む」とは、要するに、神にかけて誓います、
また、「御疑心あるべからず」、つまり、私の誓いについてお疑いなさるな、ということです。

通泰が薬王院に対して、なんとか説得しようとしているように感じます。


その後に、火災に対してでしょう、「不慮」、「不運」、「迷惑」と言葉が並びます。

これは、本堂を焼いた火災の原因は失火の類にあるように感じられます。
つまり、戦(いくさ)で火を掛けられたのではない。

野火の延焼、隣家からの類焼、寺内の失火などでしょう。

具体的に何なのかは分りませんが。

「御門徒中へ御披露あれ」というのは、この書状に書かれた通泰からの薬王院への
支援内容を寺内の皆々にも伝えていただきたい、ということでしょう。つまり、通泰からの
支援の申し出に対し、薬王院別当は他の寺内の人々には知らせず、拒否する態度でいる、
と怪しんでいるようです。

早々の御帰寺、というところを見ると、別当は寺からどこかに出かけているようです。

「寺を出るな」とか、「早く寺に戻れ」と盛んに言っています。
いまひとつ状況が分りませんが、通泰は、別当が寺の外で行動していることが不満なののでしょう。


4番目、最後の文書は、本堂再建の経過を薬王院が記したメモ書きです。

本堂再建工事の大まかな進捗状況が分ります。

121 薬王院御堂御柱立吉日覚写

詳細内容はこちらです。(クリックすると別ウィンドウに全文が表示されます)

一二一 薬王院御堂柱立吉日覺寫

御堂御柱立之吉日之事

  十月八日 日ようしつしゅく

  太永八年戊子九月吉日

大永七年丁亥年六月十一日夜焼亡云

同年ノ七月一日水曜十八日葵巳△木取始木道(巧匠)召置

同年十二月十二日乙卯日てうな(釿の)始

大永八年戊子年小屋入

同年十月八日丙子柱立

是マテ苻中△豐後△大工

苻中△江戸依御不和大輪△上より

野口治部少輔大工ニテ

亨禄二年己丑年八月九日壬申棟上

亨禄三年庚刁年十月八日丁丑刁時入佛


時系列的に本堂再建のイペントの日付が記録されています。

「御堂御柱立之吉日之事」は、御堂(本堂)の柱立ての事、と題名を記しています。

次の「十月八日 日ようしつしゅ」で、柱立ては10月8日と分ります。
「日ようしつしゅ」は、宿曜占星術での室宿でしょう。戦国時代に盛んだったようです。
もっとも、具体的なことは私には分りません。

次の「太(大)永八年戊子九月吉日」は柱立ての日付と合いません。

想像すると、10月8日の柱立てを控えて、今までの経過を記録しようとした、
それが9月の何日かで、其の日は特別なイベントがないので何日かは書かずに吉日とした、
というところではないでしょうか。

その後、イベントがあるたびに、この覚書に書き足していったものと思います。

整理してみました。


大永7年(1527年) 6月11日  本堂焼失

大永7年(1527年) 7月 1日  材木発注・棟梁の選任

大永7年(1527年)12月12日  ちょうな始め

大永8年(1528年)??月??日  小屋入り

大永8年(1528年)10月 8日  柱立て

          この日、棟梁が前嶋豊後守から野口治部少輔に交代

亨禄2年(1529年) 8月 9日  棟上

亨禄3年(1530年)10月 8日  入仏式


大永8年(1528年)10月 8日に柱立てとありますが、
大永8年(1528年)8月20日に亨禄に改元しています。
従って、柱立ては、亨禄元年(1528年)10月 8日と書くべきです。

改元した年は元年とは言わず、旧名を使う習慣があったのでしょうか。
それとも、柱立ての日の時点までは大永と記録してきたので、 大永と書いた方が分りやすいと考えたたのでしょうか。


焼失から3年4カ月で完成しています。

時間経過をたどってみましょう。

(1) 本堂焼失後、約20日で棟梁を選任しています。
  この間に必要なことは、再建することの確認、再建計画の概要、予算の確保、棟梁の選択等々
  6月23日には、桁行きを7間にすべきと通泰から書状が送られています。また、この間、通泰から
  寄進について二度三度と申し込みがありました。

  大いにあり得ますね。

(2)12月12日がちょうな始めです。いよいよ材木の加工が始まります。
  ということは、発注した材木が納入され始め、ある程度乾燥してきたのでしょう。

(3)「小屋入りまたは木屋入り」は何のことか分りません。

(4)柱立てが大永8年(1528年)10月8日です。材木加工開始から約10カ月。
  これは結構時間がかかった。ただし、柱を建てるには、組み付ける柱、桁、梁、
  そして柱の下の礎石などの全ての加工が終っている必要があります。
  主要な柱は円柱に加工します。また多くの切り欠き、ほぞ穴が必要です。

(5)亨禄2年(1529年)8月9日棟上げとなります。柱立て後10カ月です。
  この期間は結構長い様だが、寺院の場合、造りが複雑なため、このくらいになるのだろうか。

  組物はこの段階で作り終えているのか、棟上げ後に行うのかは分かりません。

(6)亨禄3年(1530年)10月8日入仏式。つまり、本尊を安置して工事はひとまずこれで終わり。
  棟上げ後には屋根を葺くという大仕事があり、1年2カ月という期間はおかしくない。


このように見てみると、最初に、3年という再建期間は短すぎる、と感じましたが、 今ではおかしくないように思えてきました。

まず、再建工事の取り掛かりが予想以上に早い。

火災による焼失から20日くらいで、棟梁を選任し、材木の発注が始まっていて、
その間、迷ったり悩んだりした様子がありません。
通泰が強力にリードしたためでしょう。

材木の加工が5か月後には始まる。これも非常に速い。

まず、材木の運搬です。

私は、戦国時代という言葉から、年中戦火が絶えず、その僅かの隙間をぬって材木を
運搬する、というイメージを浮かべていたのです。
でも調べてみると、戦闘があった場所と時間は限られていたようです。

戦闘に参加する兵の数は数十人くらいの場合が多く、すぐに決着がつくようです。
従って、材木の運搬が極端に困難、ということはなかったのかもしれません。

次に材木の乾燥です。

ネットで検索すると、現在の工法では、材木の乾燥のために1年ほどかかるようです。
当時の産業構造では、ある程度乾燥した材木が常時用意されていたのでしょうか。
戦国時代で、あちこちで戦闘が絶え間なかったため、建築資材の需要も多く、
あちこちにストックがあったのかもしれません。

でも、以上のように考えても、"かなり早い"という印象は変わりません。

神社・仏閣、そして城を建築する環境が、この時代においては、私が想像する以上に
整っていた様な気もします。

少なくとも、城の建築には長い期間をかけることはできないでしょうから。


それから10カ月後に柱立て、さらに10カ月後に棟上げ。
この辺りの建築作業の内容はよく分りませんので、この期間の長さについては判断できません。

棟上げの段階では、まだ骨組みだけで、屋根も戸も板壁もない状態です。その後14カ月後に
工事完了して入仏式、というのは決して長くはないでしょう。短いともいえません。


ということで、再建に3年、というのは、トータルに考えると、おかしいことではない、
と思い直しました。


偶然でしょうが、佐竹寺も同じく3年で再建されています。

天文12年(1543年)に本堂を焼失し、天文15年(1546年)に場所を変えて再建されました。
こちらも佐竹義昭の強力な支援があってのことでした。


【感想】

薬王院の本堂再建の期間が3年だったという事がどうなのかを知りたくて、薬王院文書を読むという、
無謀なことを始めたのですが、時代背景も含めて少しずつイメージがつかめてきて、良い経験でした。

でもまあ、文献調査というものは時間がかかるものだなあ、というのが正直なところです。

素人のにわか勉強の限界を思い知った、貴重な経験でした。

いままで書いてきたなかに、どれだけ間違いがあるだろうか、と考えると、怖い気もします。

細部の間違いはともかく、基本的なところでとんでもない大きな間違いをしているかもしれません。

でも、「間違ってもいいからどんどん使うのが上達の早道」、と、特に外国語の習得について
よく言われているので、今回は大胆に行くことにしました。

まだまだ調べるべき事はたくさんありますが、もともとは写真を撮って残すということから始まった
ことなので、この辺で打ち切ることにします。


皆様に、間違いの指摘やら、関係情報などをいただければ幸いに存じます。



[ページの先頭に戻る]