【4】茨城県常陸太田市 佐竹寺
茨城県常陸太田市にある佐竹寺です。
重要文化財に指定された茨城県の寺院としてはもっとも北にあります。
入口の前にちょっとスペースがあり、車を止めましたが、その隣は防火水槽で当然駐車禁止です。バスはとめられませんね。
この日は他に車はありませんでした。
仁王門が目の前にあり、その奥に本堂が見えます。
入口手前から
仁王門が目の前にあり、その奥に本堂が見えます。
正面からの本堂
渋い、というのでしょうか。地味な感じのたたずまいです。
正面からの本堂2
もう少し近づくと、左右に、崩れた石灯篭でしょうか。
墓参りに来たと思しき方が歩いてきたので伺うと、東日本大震災(具体的には東北地方太平洋沖地震)の時に崩れたものということでした。
お寺の修復には莫大な費用がかかりますので、大変な状況ですね。
【追記】この地震の直前に撮影された写真がネット上にありました。
川本君の「夫婦二人の山歩き」:Y32.常陸太田・歴史の里ウオーク
作者の方にお願いして、当時の写真を掲載させていただく許可をいただきました。ありがとうございました。
撮影は 2011/3/9、地震の二日前です。本当に崩壊直前の撮影です。
これほどまでに崩壊してしまったのかと驚きでした。
さきほどくぐってきた仁王門を振りかえります。
内側からの仁王門
屋根の一部がはがれたり、さらに落下しているものもあります。この事は、後でもう一度触れます。
本堂の正面
中央上部の曲線的な部分が唐破風です。
いや、そんなことよりも、辺り構わずべたべたと張られた千社札。
無残の一言だけです。
あまりに悲しく情けないので、さっと通り過ぎます。
正面右
足元のお地蔵さんがかわいい。
正面左
上の二枚の写真を見ると、正面の左右に花頭窓があり、そのとなりの側面には丸窓があることが分ります。
中西忠さんの極めて充実したホームページ(*1)の解説では、下記の様に書かれています。
伝来した当時の仏教寺院の「窓」はすべて四角い「連子窓(れんじまど)でした。
・・・・「鎌倉時代に「禅宗寺院」が伝来しますと、「禅宗様」の「花頭窓(かとうまど)」が現れます。
・・・・寺院建築の「窓」は「連子窓」と「花頭窓」だけでしたが、「丸窓」が出てまいりました。
とすると、この形は、少なくとも、禅宗寺院の形式が普及した後のものでしょうか。
(*1)中西忠さんのホームページ
木鼻
木鼻です。
前記の中西 忠 さんのホームページでは、下記の様に書かれています。
「大仏様木鼻」には象鼻・獅子鼻・獏鼻などがあり、「禅宗様木鼻」には渦紋・植物紋などがあります。
これは、獏鼻に相当するのでしょうか。
屋根裏の作り
このお寺は、全体的に、部材が細いように感じます。
どっしりした、というのではなく、軽快な、とでもいうのでしょうか。
建築技術が進んで、必要十分な強度が追及されたかもしれません。
写真の右側にみえるのは、海老虹梁(えびこうりょう)でしょう。
彫刻されて彩色が施されているところが部分的に見えます。
裏手から
斗栱(ときょう)の並びと、その間の蓑束(みのづか)が見えます。
屋根のすぐ下の垂木の間隔が、比較的広いと感じました。
この前見た白水の阿弥陀堂では、これよりずっと密です。
垂木の間隔の広い疎垂木(まだらだるき)と間隔のせまい繁垂木(しげだるき)の違いがあると、後になって知りました。
佐竹寺では垂木の断面が五角形です。
垂木の断面と中備の蓑束
尾垂木(斗栱から突き出した部材、佐竹寺にはない)では、断面が四角形が和様、五角形が唐様と言われていますが、
普通の垂木で断面が五角形という事についてはまだ分りません。
また、中備は蓑束。
蓑の様な形の装飾とよくいわれますが、蓑にはみえません。
下記の参考資料(1)では、「蓑束」について、「束の上部に文様彫刻のあるもの」とされています。
その点では、蓑束ということになります。
正面のみにくい千社札はこちらにはまばらです。目立たないと意味がないようです。
裏手から2
正面から見て左側の裳階(もこし)です。
裳階は本堂を囲むように作られています。
雨から母屋を守る、ということでしょうか。
濡れ縁のようなものではなく、土間になっています。
通路としても使うものかしら、と考えました。ちょうど人がひとりゆったりと歩ける幅があります。
法衣を抑えながら、衣擦れの音を立てて、僧侶たちが歩いている様子を想像してしまいます。
正面から見て左側
右端に丸窓、その左に縦格子の連子窓が見えます。
6枚目の写真(「正面右」)とあわせてみると、本堂の室内に連子窓、室外に丸窓があることになります。
このような構造がどういう意味なのかは分りません。
さて、本堂の左手にひっそりと鳥居があります。
鳥居
神仏習合の結果でしょうか。でも、これほど密着しているのは珍しいのではないかと思います。
少し傾いた建物の扉が開いていていたので、中をのぞきました。
ほこら
ほこりをかぶったほこらがあり、その足元に小さな狐の像がたくさん並んでいました。
「見たわね」といった様な顔つきで、にらまれたような気がしました。
裳階の外側の柱(裳階柱)の根元に使われている礎石の形が面白いです。
正面から見て左側の桁の一列分を撮りました。
縦の柱の下に、重量を支えるために礎石を配置しますが、礎石の上面の形に合せて床梁(横柱)を削っています。
礎石とその上の床梁の位置関係がずれないように、ということでしょうか。
母屋の礎石は平たい石で、上部は平面になるように加工されていますが、(写真を追加の予定)
こちらは、自然な形のままです。
床梁の材を、現物合せで、石の形に合せて棟梁が削ったのでしょう。
さて、お寺の敷地の右手に大きな石碑がたっています。
石碑
題字には、「仁王門再建碑」とあります。
日付は昭和十六年ですから、佐竹寺の歴史から見ると、つい最近のことですね。
上部を拡大して、文字が読みやすいように、モノクロに変換し、ネガ表示にしました。
石碑上部の拡大
題字の「仁王門再建碑」の下に、常陸国久慈郡、聖徳太子などの言葉が見えます。
文章を読んでみました。(クリックすると別ウィンドウに全文が表示されます)
間違いがあるかもしれませんが、ご容赦ください。
仁王門のいたんだ屋根ですが、このような状態です。
仁王門のいたんだ屋根_表から
仁王門のいたんだ屋根_裏から
瓦が崩れ落ちたり、位置がずれてしまっていたりと、痛ましい様子が分ります。
(この部分をクローズアップした写真がないので、とりあえず、部分拡大してのせています)
その結果、下の写真の様に、頭上注意の大きな看板が、目立つ位置に置かれています。
頭上注意の看板
お寺全体が瀕死の重症です。
少なくとも、本堂は国指定の重要文化財なので、国の予算で修理する事はできないのでしょうか。
備考1:裳階(もこし)と廂(ひさし) [追記:2013/1/22]
本堂の大きな屋根の下に、本堂を取り囲むように小さな屋根があります。
最初は廂(ひさし)と考えていたのですが、母屋の屋根の下に、別の屋根をしつらえてあり、
どうも裳階(もこし)というのが正しいようで、この部分の文章を修正しました。
目的は、主に母屋を雨から保護する、と言われています。
そのためには土間でいいわけです。
修正前は次のように書いていました。
正面から見て左側の廂(ひさし)です。
廂は本堂を囲むようにあり、四面廂という造りでしょうか。
濡れ縁のようなものではなく、土間になっています。土間廂です。
通路として使うものかしら、と考えました。ちょうど人がひとりゆったりと歩ける幅があります。
法衣を抑えながら、衣擦れの音を立てて、僧侶たちが歩いている様子を想像してしまいます。
【参考資料】主として、以下の資料を参考にさせていただいたいています。
(1)単行本: 図解 文化財の見方―歴史散歩の手引き 人見春雄・野呂肖生・毛利和夫編 山川出版社
新書版のコンパクトな本ですが、図解が詳しいです。私のサイトでは、用語で迷った時は、この記述に従うことを基本にしています。
(2)専門家により、社寺建築の詳しい解説が述べられているサイトです。
日本建築の底流
その中で、佐竹寺についての解説があります。
佐竹寺本堂 茨城県 室町時代後期・江戸時代中期改修
(3)この本文中に触れました。実に多くの寺社の写真が載っています。仏教全般をカバーした、充実したサイトです。
中西忠さんのホームページ
(4)組み物(軒下の部材)について、とても分りやすい説明があります。初心者のわたしには大変ありがたいです。
組み物の各部の名称
【感想】
福島の白水阿弥陀堂の撮影で刺激を受け、茨城県とその周辺の重要文化財の寺院を撮影しようと思い立ちました。
その第一弾となる佐竹寺です。
ですが、この本堂の荒れ方、千社札ですが、それを見て、愕然としました。
こういうひどいことを日本人がするものでしょうか。
その下卑た書体を見ると、たとえば、「年老いた親あるいは我が子の病気の快癒を必死に念じて」、などというものは感じられません。
それと、お寺の荒廃振りです。
本堂と仁王門を急いで修復しなければ。
大修理になります。資金はどうしたら良いのでしょうか。
もう一つ、石碑の碑文です
作られたのが昭和16年で、私が生まれるたった9年前です。
その文章を読むのに一苦労でした。
問題は漢字で、いわゆる旧漢字、特に異体字です。
戦後の国語改革で、現代仮名遣いと当用漢字が制定されました。
当用漢字の制定の意義は、使用すべき漢字の数を制限したもの、と今まで思っていましたが、
字体を一つに定めた、ということも大きいのですね。