デジャブなのかな、ボウフラのたとえ


[2020/9/2]

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【37】デジャブなのかな、ボウフラのたとえ

ボウフラのたとえ

一つ前の記事で、"水たまりのボウフラ"という表現をしました。

その後、どうもこの表現はどこかにあったのかな、ということが気になってきました。

デジャブなのか、本当にどこかで目にした、または耳にしたのか。


このような奇妙な感覚は、年を追うごとに頻繁に感じるようになってきました。


"水たまりのボウフラ"ですが、ボウフラというものは子供の頃は何度も見ました。それは放っておくとやがて蚊になるので困ります。

対策は、というと、水面に灯油を少々垂らします。そうすると灯油は水面を薄く覆います。ボウフラは呼吸のために、定期的に水面から顔を出します。しかし、油膜があると水面より上に浮き上がれず、呼吸ができなくて死んでしまう、ということでした。

ただし、大人になってからは見た記憶がありません。もう50年くらいは見ていない、ということです。

ボウフラのイメージがどこから来たか

ちょっと長いのですが、最近のできごとを書いておきます。

しばらく前に、我が家が面している狭い道路で都市ガスの配管工事があり、道路を掘り返したところは応急処置的に道路が埋め建てられ、正式な工事は後になります、と言われていました。

いまから一か月半位前に、その正式な工事が行われたのです。しかし、問題が出ました。

梅雨の盛りの時期でしたが、正式な工事をしたところの、ちょうどマンホールが設置されている辺りにいつも水が溜まっているのです。

梅雨とはいえ、その道路のマンホールの周囲だけがいつも水たまりで、そのほかは雨が止めば乾くのです。

私はてっきり、道路のマンホールの周囲だけが低くなって雨水が溜まりやすくなっている、と思っていたのですが、ある日、市の水道局の人が歩いて様子を見ていたので聞いてみると、水道管からの漏水だろうということでした。

その後、また道路を掘り起こして何か工事をして、ふたたび埋め立てられました。

その後、水たまりはできないので、水道管からの漏水、というのは事実だったようです。つまり、ガス管工事の時に水道管を傷つけて漏水が発生した、ということのようです。


本題のボウフラですが、次のようなことがあるのです。

上記の水たまりがずっと続いていたときに、いつの間にかアメンボが発生していたのです。

アメンボなら、どこかに出かけた時に見た池の水面に多数いたのを見つけています。しかし、自宅の周りでは、この10年、20年というオーダーで見た記憶がありません。

アメンボが、いったいどこから来たのか不思議でした。

たしかに、子供の頃は、身の回りのあちこちにアメンボがいました。見慣れた光景でした。


それで、このアメンボからボウフラを連想したのだろうか、という気がしています。

水たまりがずっと残っていると、いつの間にかアメンボが発生して、今回のように改修工事の後に水たまりがなくなってしまうと、当然ながらアメンボの姿を見ることはありません。

後で考えると、つかの間のできごとなんですね。


では、どうしてアメンボではなく、ボウフラなのか。

アメンボは羽があって、どこかに飛んでいけるのです。

ボウフラは水中で暮らし、水が干上がったら死んでしまいます。成虫の蚊になれば飛ぶことができますが、それまでは水中で生きるのです。

この点が現在の人間の生き方に似ているように思われるのです。

地球で、人間は実に狭い範囲で生命を維持しています。ただし月まで行った宇宙飛行士は除きます。これは大変に例外的なケースですから。

地球で一番高い場所はエベレスト山で、高度は8848mです(この値にはいくつかの説はありますが、大きな違いはありません)。

さて、地球の半径は約6400Kmです。

地球の半径を忘れたら、次の様にして求めることができます。1mという長さは地球を球体と見たときの外周を4万Kmと定義したものが最初でした。(現在はこの定義は変わっています。) 外周は直径×3.14と概算できるので、直径は4万Km/3.14、つまり約12,700Km、半径は約6,400Kmです。

ですから、エベレスト山は地球の半径の0.1%程度なのです。地球の半径の1000分の1程度なのです。その程度の高さなのに、空気は地表の1/3ほどしかないのです。

たとえていうなら、リンゴの皮でしょうか。地球をリンゴとすると、その皮1枚くらいのところで地球の生命現象が行われているのです。

ちなみにジェット機が飛ぶ高さは、高度約10,000m位、最高でも12,000m程度と言われています。エペレスト山の1.5倍程度ですから、リンゴの薄皮ということに変わりはありません。

このように考えると、地球の生命現象が続いているのは奇跡的という感慨を覚えます。宇宙レベルで見たら、水たまりのぼうふらよりはかないものです。

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ボウフラのたとえは、子供の頃に見たアメンボとボウフラの記憶が、道路工事でできた水たまりに発生したアメンボから思い起こされたのではないか、と言う気がだんだん強くなってきました。

デジャブというものがもともとあいまいな心理現象なので、今回のボウフラという連想がデジャブである、というものではありませんが、なんとなく、デジャブ的な側面があるような印象を持っています。


デジャブというものは、本来は、「あれっ、今見ている光景は以前に一度見ているような気がする」というものでしょう。

その場合、おそらくは、かつて似たような光景を見た経験が、うっすらと記憶に残っているのでしょう。どのくらい似ているのか、これははっきりしませんね。意識して思い出せるものではありませんから。

将来、何かの特殊な技術で、ある人が見たこと、聞いたことをすべて記録しておき、何かの時点でその内容を(膨大な量でしょうが)検索できるとすると、「あれっ、今見ている光景は以前に一度見ているような気がする」と感じたときに、それと一番近い見聞の記録をさがしあててチェックできたら、何か分るでしょうね。まあ、これはできない事でしょうが。


いずれにしても、私のデジャブ感はますます強くなってきています。


このような考えにふけるのも"コロナ鬱"のためでしょうか。


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