花の水やりで考える 自然は理想的にできているのではない


[2020/8/5]

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【36】花の水やりで考える 自然は理想的にできているのではない

人間の骨の形状が理想的であること

以前に、何かの話の中で、「人間の体は実によくできている」ということを聞きました。

具体的には、たとえば大腿骨や下腿骨の形状は、適切なサイズで、動作に適した形状を持ち、重量が少なく、強度が高い、という点で理想的な形をしている、ということだったのです。

随分複雑な形をしていますが、両端に関節として回転を支える形状を持ち、求められる強度を、できるだけ軽量で実現している、というものです。

どのように進化してそうなったのか、想像を超えますが、結果的にそうなっていると言われます。

わたしは、それを信じていました。

花の水やり

我が家の花壇やプランターに花を植えています。雨が多い季節以外は水をやらなくてはなりません。花壇に地植えをしたものはある程度は持ちこたえますが、プランターの花は特に暑い季節には毎日の水やりが必要です。

私は面倒くさいということで今まであまり熱心にはやらなかったのですが、定年退職した後ではそうも言ってられず、また最近では少し興味が出てきたので、水やりをよくやるようになってきました。

水をどう掛けるか。妻からは、上から花にかけるのではなく、根元にかけた方が良い、とは聞かされていたのですが、私にはどうにも腑に落ちないという思いがありました。

自然界では水分はほとんどは空から降ってくる雨によってもたらされます。自然界の花はそのような世界で生命をつないできたのだから、雨が降るように水を掛けるのが一番いいはず、という思いでした。

空から降ってくる雨が一番いいはず、つまり、そのような環境に適合するように花は進化してきたはず、という考えです。

ところが、水やりをしていると、どうもそうではないのです。

上から水を掛けると、水滴が花や葉につきます。とくに花についた水は花にとって重く、花がしなだれます。花にとって花についた水は負担が大きいように見えます。

また、"おしべ"や"めしべ"に水がかかりますが、それは好ましいこととは思われません。たとえばおしべについた花粉は水で流れ出てしまうでしょう。また、水がめしべについたままだと、虫が来て受粉を促す、ということにも悪い影響が出るように思えます。

そして、毎日のように観察していると、どうも水は根元に掛けた方が花は元気であるように感じられます。

これはちょっと困った事です。

自然の営みが生き物にとって最適な環境ではないのです。言い方を変えると、少なくとも花は自然の営みが最適になるように、それに合わせて進化してきたものではないということになります。

人間の構造でこまったこと

最近、進化論の本を読みました。

その中で、人間の体の構造には、うまくいってない部分がある、という記述があったのです。

その典型的な例として、男性の生殖器についての記載がありました。

人間は、細胞分裂が始まると、女性として生育していき、途中から男女差をもたらす様な変化が生れて、男性は男性として必要な形態に変化していくのだそうです。

その典型例は女性の卵巣と男性の精巣とされていました。

最初は卵巣と精巣が分化していない形から、いったんは卵巣に近づく方向に変化し、女性は女性としてそのまま変化していきますが、途中から男性は方向転換し、精巣に向かった変化をするようになります。位置はどんどん下がっていき、さらに体外に出るような位置まで移動します。

このとき、つながった管(くだ)はそれを引きずり込むようになるので、変にこんぐらかった形になってしまいます。

どう見ても、完成した理想型とは思えません。

神が人間の体を"完成した理想型"として作った、という考え方があるようですが、とてもそうは見えないのです。まあ、そのような神を信じる人は、「神の意図を人間が知らないだけだ」と理解するのでしょう。

自然界は巧妙にできている

「自然界は巧妙にできている」ということが、いままで私がいだいてきたイメージですが、どうもそうでもない、という考え方がどんどん強くなってきました。

宇宙には、銀河団とか銀河群という銀河系の集まりがあり、その一つの銀河群の中にある"我々の銀河系"の端にわが太陽系があり、その中の一つの惑星である地球に発生した生物の、進化のほんのわずかの過程の様子しか知らないのですから、人間の体の構造が、「どれほど精緻にできている」のか、「どれほど不細工にできてしまった」のかはとても分ることはできないのです。

ですが、私が今まで抱いていたイメージである「自然界は人間が想像できないほど精妙にできている」ということについては大きな疑問符がつくと感じるようになってきました。

行き当たりばったりにいろいろなパターンをやってみたら、いくつかがうまくいって、生命をつなぐことができるようになって今に至った、という印象が強くなってきました。「うまくいって」といっても、なんとかぎりぎりのところで種の絶滅を逃れた、というだけです。

たとえば、彗星や小惑星のかけらが地球に衝突しただけで、地球全体が氷に覆われ、ほとんどの生物が滅亡する、ということが起こりえます。それを回避するには、星のかけらが地球に衝突する前に生物が大いなる進化を遂げて、様々な天文現象を高精度に予測でき、また地球以外に逃れてもそこで生命をつなぐことができるようになっていればいいでしょう。

別の考えでは、この地球の生命が絶たれても、やはりこの宇宙には何の影響もなく、別の銀河に生命体ができているのかも知れず、他に生命体ができなくても、星や銀河はそれぞれの道を進み、やがてどうなってしまうのかわかりませんが、"なるようになる"のでしょう。

新型コロナウィルス

現在(2020年8月)、この地球では新型コロナウィルス(COVID-19)が猛威を振るっています。

2020年8月4日の時点で、全世界での感染者の合計は 1800万人、死者は69万人を超えました。

過去には、ペスト、スペイン風邪、エイズなどでそれぞれ死者が2000万人を超える被害が出ています。

今回の新型コロナウィルスが、感染力が強く、重症化しやすいように突然変異して、人類が滅びることがないとは言い切れません。既にペット感染が報告されていますから、人間だけでなく動物にも広がる可能性も考えられます。


この世界は実によくできている、と感動するのは大きな間違いだったと思います。実際のこの自然界は、とてもはかなく、これから今までと同じことが続いていくということは"綱渡り"的な僥倖でしかない、そしてそれは人間が過ちを犯した罰としてそうなった、というものではなく、「いや、特になんと言うことでもないよ、どうでもいいじゃあないか」という程度のことなのかな、と思われます。

たとえていうなら、雨が降ってできた水たまりに産み付けられたボウフラでしょうか。蚊が水たまりに産み付けた卵がかえってボウフラとなり、脱皮を繰り返してさなぎ(オニボウフラ)から成虫の蚊になります。成虫になれば空中を飛ぶことができ、移動は自由ですが、さなぎまでは水中で過ごすようにできています。生れた水たまりから移動することはできません。

成虫になる前に水たまりが干上がってカラカラになると、ボウフラやそのさなぎは死んでしまいます。そこで、こちらの水たまりのボウフラは運良く成虫の蚊になれたが、あちらの水たまりのボウフラは水が干上がって死滅した、ということになります。干上がった水たまりのボウフラにとっては一大事ですが、我々にとってはどちらになるにしても、どうでもよいことです。我々の世界は、極端に蚊が大発生した、という例外的なケースを除けば、影響を受けません。従って関心を寄せることもありません。

この宇宙の片隅に発生した地球型生命体は、単細胞生物から始まって少しずつ進化を進め、幾多の栄枯盛衰ののち、やがて滅び(*)、そのことを知る何者もなくなり、記録・痕跡が何一つないという状態になるのでしょう。宇宙全体を眺めることができる何物か(水たまりを観察する人間のようなもの)にとって、「そんなことがあったかな」という様な扱いになるのでしょう。

(*)滅び方は色々あり得ます。大規模な地殻変動があって、ムー大陸が海中に没した様な事変がおこるとか、小惑星が衝突した影響で全地球が凍結して生物が絶滅するとか、グローバルな規模の戦争がおこり人間が核兵器を無闇に使って生物が死に絶えるとか、非常にたちの悪い感染症により、あらゆる動物、さらには植物までもが死に絶えるとか、地球の生命体が太陽系以外の場所に移動できる程科学技術が発展する前に太陽が膨張して地球を飲み込むとか(その前に高熱で地球の生物は絶滅するという学説もあります)、などなど。

なるほど、水たまりのボウフラか。

その水たまりの中では、おそらく、ボウフラだけでなく様々な種類の微生物が生れては滅ぶという、それなりの栄枯盛衰があり、最後には干上がって、何の痕跡も残らないのでしょう。


この地球も、宇宙にできた水たまりのようなもの、といえますね。


このような考えにふけるのも"コロナ鬱"のためでしょうか。


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