小品いろいろ


[2020/5/25]

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【32】唱歌「里の秋」について考える

里の秋

「静かな静かな 里の秋」という歌です。

作詞は斎藤信夫、作曲は海沼実です。

唱歌に分類される歌でしょう。まあ分類はどうでもいいですが。

Youtubeでいくつも歌唱例を聞くことができます。

私が持っているCDは倍賞千恵子のもので、いまのところこれが一番気に入っています。

「静かな静かな」という歌詞なのだから、"静かに"歌うべきなのに、多くの歌唱では元気がいいのです。

場所は"里"ですから、大声を出すところではありません。

さらに、終戦直後の状況で、外地から帰ってくる人、帰れなかった人、さらに行方が分らなくなっている人、など、いろいろな状況があるので、「生きて帰れる」といっても、大きな声で喜びを表現するのは慎まなければならないのです。

倍賞千恵子の歌唱が一番このような状況にふさわしいものと感じます。

声量を抑えて、さらに感情を抑えて、言葉を慈しむように歌っています。

話はかわって

私には叔父がいます。

父は戦争中の話は決してしない人でしたが、親戚などから聞いた話では、叔父はどうも志願兵として軍隊に入ったようです。

最初は満州に行ったようで、防寒用の帽子をかぶった写真を見た記憶があります。

その後、フィリピンに行き、ルソン島で行方不明になったと聞いていました。

中国との戦いが膠着状態になり、一方、太平洋を巡る米国との戦いが次第に厳しくなり、満州からフィリピン戦線に投入されたものと思われます。

行方不明であり、消息は分らない、という状況でしたが、突然、一つの情報が飛び込んできました。

ある人が、フィリピンにいたある無線通信隊の記録をまとめた冊子の中に、叔父の名前がある、と知らせてくれたのです。

父がその関係者の集会に顔を出し、またその冊子を1部持ち帰りました。

その中には、父と同じ姓の人物について記された文章があり、父はその会合でそれが自分の弟であることを確認したのだと思います。

その冊子を読むと、いくつかのことが分りました。

・日本のポツダム宣言受諾により太平洋戦争の終戦(言い換えると日本の敗戦)が決まり、各部隊には通信で連絡がなされた

・全軍人はそれぞれの集結地点に集合して軍備を解き、戦後の処置に服することになった

無線通信隊に所属していたので、このような情報はいち早く得られた、と思ったら、とてもそのような簡単なものではなかったということが、その冊子を読み進めていってわかりました。熱帯のジャングルの中を行動するのであり、無線機が故障する、電池が手に入らない、という状況なのです。電池は、そのような状況を予想して、あらかじめ回路を改造して、手回しの発電機で駆動できるようにしてあった、回路の故障はそれまでにも故障を修理してきた経験を思い起こして、苦労の末ようやく無線通信を聞くことができた、ということなのでした。


そのようなことから、叔父の部隊は、集結地点まで部隊として移動することになったのです。


私は初めてその事情を知りました。

日本の本土では、敗戦であったにしてもとにかく終戦であり、もう爆撃されることはないのです。爆撃で死ぬことはないのです。

しかし、戦地では違っていました。

集結地点まで移動しなければならない。それまでは原則として軍備を解いてはいけないのです。

終戦だから軍備を解いて、白旗を掲げて、あるいは両手を挙げて降服です、ということは許されません。

周囲ではいままで戦闘をしてきたのですから、現地住民が、父を殺された、兄弟を殺された、友人を殺された、という人が、取り囲んでいるのです。終戦だから、さっそくこれからは仲良くしましょう、ということにはならないのです。

とにかく人目を避けて集結地にたどり着かなければなりません。

ルソン島の中央部は山岳地帯で、標高2000m級の山々が連なっています。そのようなところを、道のない樹林や岩場、谷を超えて集結地まで行かなくてはならない。

叔父について、「昨日は姿を見たが、今日は夜になっても姿を見せなかった」、と書かれていたのは9月下旬のことのようです。

というのは、9月24日の記事の後にあるので、その頃でしょう。

ポツダム宣言受諾により終戦が決まってから1か月以上が過ぎているのです。

それ以上の詳しい状況は分りません。


上記の冊子にかろうじて残された叔父の最後の状況を記した文章を下記の"備考"に抜き書きしておきます。


このことが戦争の残酷さをもっとも感じさせてくれました。


「里の秋」に戻る

「里の秋」の歌詞は1番から3番まであり、1、2番は出征した父を心配する妻とその子の気持ちを歌っています。

3番の歌詞は、父か生きて帰ることが分り、父への思いを歌うものです。

さよならさよなら椰子の島
お船にゆられて帰られる
ああ とうさんよ ご無事でと
今夜も母さんと祈ります

「椰子の島」ということから、南方戦線から船で帰還するということが分ります。

「ご無事でと」ということは、既に終戦になっているので、これは日本に帰るまで「ご無事でと」ということでしょう。

帰還船の中で、病気で亡くなった人もいると聞きます。中には帰還船で日本の近くまで来て、富士山を遠くに眺めて、「ああ、生きて帰れた」と安心したところで息を引き取った人もいたということを何かで読んだ記憶があります。

ですから、自宅に着くまで安心できないのです。


では、自宅に着いたから安心なのか、どうしても割り切れません。


戦地では、自分は死の一歩手前まで行った、戦友は命を落とした(敵兵に殺された、あるいは病に倒れた)、そして、自分は敵兵を殺してきた、それが戦争です。


「お船にゆらゆらと揺られて帰ってきた、ああ良かった」、で終わっていいのだろうか、ということなのです。


戦友が殺され、そして自分は敵兵を殺してきた、それが無いことにされている。


この歌の歌詞は3番までですが、4番を作るとすると、いよいよ父が帰ってきて、お祝いをしたところで、「さて、明日からまた田んぼと畑に出るぞ」という場面が目に浮かびます。


ある一面では、「庶民の力強さ」と見ることもできます。


戦場で、殺し殺されてきた人間と、その帰りをひたすら待ち続けてとうとう再会できて喜ぶ家族との思いの落差を思うと、呆然とせずにいられません。


終戦直後の絶望と混乱が入り交じった中で、少しでも将来に希望を持てるように、慰め、はげます、という面は認めると共に、重要であると思いますが、それでも割り切れない思いを吹っ切ることができません。


この曲は、あまり深く考えずに聞くと、しみじみとした情緒が豊かで、とても良い曲だと思いますが、ひとたび内容を考え出すと、実に複雑な思いにとらわれて、正気ではいられないという感覚を憶えます。


備考

 新京以来、司令部の当番兵として、いつもコマネズミのように真面目一途に働きづめていた○○兵長も、衰弱の体で追及していた筈であったが、その夜の野営地に、遂にあの小さい体を見せなかった。兵団の最後の犠牲者となったのである。
 戦いは終って、既に帰還の途が拓かれようとしていたのである。心の中では一様に故郷の山河を、家族との再会を描えていたに違いないのであった。どんなにか帰りたかったであろう。どんなにか口惜しかったであろう。運命というにも、あまりにも惨い配□ではなかっただろうか。

「運命の中に ―元比島派遣第二航空通信団の記録」 p.97 (ガリ版刷りの冊子で奥付のような物はありません)

旧字体を新字体に変えたところがあります。印刷不明瞭のため読み取れなかった文字は"□"に置き換えました。人名は○○としました。なお、"新京"とは当時の満州国の首都で、現在の長春です。

参考資料

上にあげた曲の歌詞は、以下のサイトを参照し、一部、読みやすさを考慮して漢字の表現等を変更しました。

「なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡」



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