小品いろいろ


[2020/5/22]

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【31】ひどい歌詞 その2

新型コロナウィルスと志村けん―カラスの勝手でしょう

2019年末から2020年にかけて、新型コロナウィルスが猛威を振るっています。(この記事を書いている現在、日本ではようやく納まってきており、いろいろな自粛要請も解除されつつあります。)

世界中で、そして日本でもきわめて多くの感染者が出て、また多数の死者が出ました。

感染は北半球ではピークを迎え、今後は南半球で感染者が増えるのではないか、と心配されています。


2019年末の中国で多くの感染者が出て、それが各国に広がっていったもので、北半球の冬の季節に猛威を振るいました。赤道付近の熱帯地方の諸国でも感染者は少なくないので、夏には納まるだろう、との希望的観測は否定されていますが、どちらかというとやはり寒い季節の方が感染しやすいという傾向はあると見られています。

その点で、これから秋・冬を迎える南半球が心配、という予測が多く出ています。


日本では、感染者の数、死者の数は、欧米の先進国に比べると相対的に考えれば少ない方といえます。

そのなかで、多数の有名人も命を落としました。

コメディアンの「志村けん」もその一人であり、いくつかの追悼番組が放送されました。

「志村けん」は、亡くなってすぐなので、敬称はつけないことにします。

志村けんが歌ったとして、繰り返して追悼番組で紹介されたのが、次の様なフレーズです。

からすなぜなくの。からすのかってでしょ

これは「七つの子」という野口雨情作詞、本居長世作曲の曲の替え歌で、はじまりの歌詞は次のようなものです。

からすなぜなくの、からすはやまに
かわいいななつのこがあるからよ
かわい、かわいとからすはなくの
かわい、かわいとなくんだよ

この冒頭の「からすなぜなくの。からすはやまに」の部分を取り出して、「からすなぜなくの。からすのかってでしょ」と替え歌にしたのです。

実際に子供たちがこのような替え歌を作って歌っていたのを志村けんが取り上げて、テレビ番組で歌って大変人気になったものです。

確かに、カラスにとって、どう鳴こうと「カラスの勝手」であり、なぜ鳴くのか、ということを人間が勝手な憶測で言うのは、これはおかしいと言わざるをえません。

もっとも、童謡ですから、ファンタジーの世界で、いろいろと表現しても問題はないとも言えます。

これはまだいいのです。もっと問題が大きな歌があります。

からすの赤ちゃん

「カラスが鳴く」ということを歌ったうたには、もうひとつ有名な童謡があります。

海沼実作詞・作曲による「からすの赤ちゃん」という曲です。

カラスのことを歌っているのは一番の歌詞で、次のような内容です。

からすの赤ちゃん、なぜなくの
こけこっこのおばさんに
あかいお帽子ほしいよ
あかいお靴もほしいよと
かあかあ、なくのね

「からすの赤ちゃん」ですから、カラスのヒナですね。

カラスのヒナが「赤い帽子が欲しい、赤い靴が欲しい」といって鳴いている、と言うのですね。


これは、童謡だから、ファンダジーだから、といって済ませられるのでしょうか。

私にはカラスを侮辱している、と感じられるのです。


この厳しい自然界の中で生きていかなければならないカラスが、カラスのヒナが、「赤い帽子が欲しい、赤い靴が欲しい」などと甘ったれたことを言うはずが有りません。

カラスのヒナは、声を上げないと親鳥から餌をもらえないから、必死で鳴くのです。もっと正確に言うと、「声を上げないと親鳥から餌をもらえない」と考えて鳴くのではなく、鳴くべき存在だから鳴くのです。

私は何を気にしているのか。

カラスが鳴いているのを聞いて、あるいはその様子を見て、「どうしてだろうか」という単純な疑問が「○○だからかもしれない」という可能性を絡めた想像に変わり、「○○だからに違いない」ときめつける、その考え方を問題にしているのです。

自分がよく分らないことに対して、単純に「○○だからに違いない」ときめつける、その態度を問題だと思うのです。

これは、「下衆(げす)の勘ぐり」というレベルです。


童謡ですから、歌うのは幼児ということが想定されています。

幼児の時に歌って、それでおしまい、ということなのでしょうか。

このような短絡的な判断が頭の片隅にすみつく、ということは無いのでしょうか。

このような事は幼児心理学で取り扱うものかもしれません。私にはそこまでは手が届きません。

最近感じていること

ネットでの書き込みが問題になることがあります。

根拠のない他人の書き込みを、そのまま引用して、そのことが広まってしまうという問題です。

一番問題なのは、他人の書き込みが正しいのか正しくないのか、ということを判断しない、という態度です。

一般には、正しいということが確認できることはまれです。

確認できないことは書いてはいけないのです。

そのことが正しいのか正しくないのか、ということを追求しなければいけないのです。しかしそれが行われていない。

「カラスのヒナが、赤い帽子が欲しい、赤い靴が欲しい、といって鳴いている」のである、としてしまっている。

幼児期に聞いた童謡のこのような態度がすり込まれているのではないか、と心配してしまうのです。

この心配があたっているのか、まだ分りません

私の回りに見聞きすることで、突っ込みがたりないな、と感じることが多々あります。

分らないことは調べる、という態度が希薄だなあ、と感じることが多いです。

ここまでは確認できた、その先のここまでは根拠を元に推測するとこうである、その先は想像ではこうである、というレベル分けが成されていないのです。

「分らないことは調べる」ということは実に手数が掛かると言うことはよく分っています。

根拠となる元データを確認することは実に骨が折れる作業です。それができなかったら、「わからない」ということにしなくてはなりません。

かもしれない

この種の言葉で、私が危険だ、と思う言葉があります。

「かもしれない」

たとえば、「人類は何か一つ重要なことを忘れてしまったのかもしれない」として文章とか言葉を終わることがあります。

なんとなく、イメージだけを表して、余韻を残す、という物です。

これは実に無責任な表現です。


「かもしれない」という表現も問題がない場合があります。

「○○かもしれない、と考えて、別途対策を用意した」などという場合です。


実は私がこのサイトで書いた文章の中にも「かもしれない」が頻発しています。

以前にこれはまずい、と思い直し、「かもしれない」は、極力「○○の可能性がある」という冷静な表現をとるようにしています。

また、「かもしれない」という表現に出会ったら、「かもしれないし、そうではないのかもしれない。どちらなのかわからない」と読み替えるように心掛けています。

上にあげた例で言えば、「人類は何か一つ重要なことを忘れてしまったのかもしれないし、あるいは重要なことは一つも忘れていないので問題無いのかもしれない」という具合です。

"余韻"を残す、などということをさらりと捨てて、冷酷無残に読み替えます。

参考資料

上にあげた曲の歌詞は、以下のサイトを参照し、一部、読みやすさを考慮して漢字の表現等を変更しました。

「なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡」



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