印象的な言葉のフレーズトップ 10 余話 根付けの国


[2019/6/1]

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● 印象的な言葉のフレーズトップ 10 余話 根付けの国

余話

前回の記事で、高村光太郎の「根付の国」という詩が、出版によって先頭の1行が2行に分かれている例がある、ということについて書きました。

正確に言うと、「以前から見ていた本では先頭の1行が、ある本では2行になっている」ことに気づいたというものです。

もっとも1行にすると長くなって、本のサイズの制限から2行にわたることは多いです。しかし、その場合、2行目は字下げすることで前の行が続いていることが分かります。

このあたりについて、もっとも信頼できる出版は何かと考えると、当然「高村光太郎全集」ということになるでしょう。

そのほかには、「日本詩人全集9 高村光太郎(昭和52年6月 七刷)」の付録に「高村光太郎読書案内」の文章((北川太一による)があり、こう書かれています。

詩だけについていえば、尾崎・草野・伊藤・北川共編 『高村光太郎全詩集』(昭和41年、新潮社)が重要である。これは全集の編年体に対し、光太郎が刊行した各詩集の構成を出来る限り生かして、全詩篇を編んだもので、詩を補い、全集の不備を正して信頼出来る。

そこで、全集と前詩集の2冊を調べました。以下ではこの二つをそれぞれ「全集」、「全詩集」と略称します。

1行か2行か

結果をまとめるとこうなりました、と書いて、表にまとめる考えでしたが、結果的に止めました。

2行にしていたのはたった1例だったのです。

それは、雑誌「スバル」の明治44年1月号で、最初に出版されたものです。

ついでですが、その末尾には「(四三、十二月十四日」とあります。詩が作られたのが明治43年12月14日ということでしょう。

各行の最後は、最終行以外は読点「、」、最終行は句点「。」が確認できます。

他の出版物は、私が確認できたのはすべて戦後の出版ですので、間隔がだいぶ開いています。たとえば大正、あるいは昭和でも戦前における出版ではどうだったのか分かりません。

「全集」、「前詩集」の出版に当たっては、文章については十分にチェックされていると思われます。(ただし、他の出版がいい加減と言うことではありません。)

従って、初出のスバルにおける先頭の2行は1行にまとめるのが正しい、という判断がされたのでしょうか。

その可能性を進めると、作者高村光太郎自身が推敲して「1行にまとめるべき」と考えた、というのが一番ありそうです。


作者高村光太郎自身が表現を変えた例が、旺文社文庫の高村光太郎詩集における「根付の国」の"名人三五郎"に関する脚注で解説されています。

三五郎という名の根付作者は見当たらない。昭和四年に出た『現代詩人全集』では周山と改められている。周山は江戸期の著名な作者で根付彫刻再興の祖といわれ、怪奇人物などを得意せした。しかし、それ以後再び三五郎が用いられているのは、作者がその語調を愛したためであろう。

北川太一編 高村光太郎詩集 旺文社文庫 旺文社 昭和49年 第19刷

詩集「道程」

年譜によると、光太郎の最初の詩集「道程」は大正3年(1914年)の発行で、上記スバル誌上に発表した明治44年(1911年)の3年後です。

「道程」の初版でどうなっているかが気になります。

幸いなことに、その復刻版が仕昭和43年に発行されています。

もう一つ幸いなことには、この復刻版がヤフー・オークションに出品されていたのです。こんな偶然は滅多にありません。早速手に入れました。

なお、この復刻版ですが、もう少し後の版ならいくつかオンラインショップなどで見つかりました。

初出のスバルと最初の単行本「道程」を比較する

漢字の字体の違いなどを除くと、次のような違いがあることが分かりました。

表1 「根付の国」初出のスバルと最初の単行本「道程」の比較

項番スバル 「道程」初版 私のコメント
1各行(最終行を除く)の最後には読点「、」を打つ 同、読点「、」を打たない 行末の句読点「、」、「。」はあってもなくても差がないので、削除したものだろう。
2 最終行の最後に句点「。」を打つ 同、句点「。」を打たない 同上
3 「頬骨が出て、」で始まったあと、「名人三五郎…」の直前で改行して2行とする 「名人三五郎…」の所は改行がな左に書いた"2行""は1行にまとまっている 最初の2行を1行にまとめて、いわば、"先頭行で大上段に振りかぶり、最後の行で徹底的に打ちのめす"、という形式にして、この詩が与える衝撃を増加させようとしたものだろう
4 「命の安い」 「命のやすい」として、「安い」をかな表記 「安い」と漢字表記にした方が意味を取りやすい。次の行が4文字になる事を受け、同じ文字数になるのを避けた、という可能性がある。
5 見栄坊な、虚言(うそ)つきな、 「見栄坊な」で行を終り、「虚言(うそ)つきな、」の部分が削除されている 積極的に他人に働きかける「虚言(うそ)つきな、」を削除し、「自分の中で小さくまとまっている立場に満足している」というイメージを強調したものだろう
6 小さく固まって納まり返った 「小さく固まって、納まり返った」と、読点「、」がはさまる この3行前に「自分を知らない、こせこせした」とあり、それは二つの性質を述べている。一方、「小さく固まって納まり返った」はひとつの性質を述べたものである。したがって読点を挿入した意味は見当が付かない。
7 ももんぐわあ ももんがあ 歴史的仮名遣いから現代仮名遣いへの変更。復刻版で変えた、という可能性はないだろうか。
8 小杜父魚(だぼはぜ) だぼはぜ 当字の(または、当字に近い)漢字表記を仮名表記に変更
9 破片(かけら) かけら 同上
10 日付として「四三、十二月十四日」と記載 十二月十六日 (詩は作成年ごとに分類され、根付の国は"1910年"というタイトルの元に「根付の国」を含む3編が収められている。 この表記を見ると、「スバル」に掲載した時の原稿から2日後に、もう書き直していることになる。

項番1、2の句読点の付け方の違いは、大きな意味はないと思われます。

項番3は、表現を変えて、ある効果を期待したものと思われます。最初の出版で2行だった所を1行にまとめることによって、最初の1行を読んだだけで、尋常ではない内容が語られる、という期待が生まれるように感じます。

項番4は、"命の安い"を"命のやすい"としたことで何が違うのか、想像が付きません。"命の安い"の方が意味するところが明確である、と感じます。

項番5は、"虚言(うそ)つきな"というフレーズを削っています。

日本人は"虚言(うそ)つきではない"と考え直した、というのではなく、"虚言(うそ)をつくことさえしない"ということで、次の行の"小さく固まって納まり返った"と調和を取ったのではないでしょうか。

"小さく固まって納まり返った"日本人ですから、"虚言(うそ)をつく"という積極的な行動さえしない、ということなのでしょう。

項番6の読点「、」の有無ですが、「小さく固まって、(また)納まり返った」というのではなく、"小さく固まったまま納まり返った"で、一つのことをいっているように感じます。ですから、私にとっては読点「、」はない方がスムーズに感じられます。

「納まり返った」の"返った"、つまり"返る"は、たとえば"静まり返る"のように、動作の強調、あるいは継続を意味しているものと理解します。"小さく固まってその場所に閉じこもって外に出て行かない"というニュアンスです。

項番7については、参考情報があります。

まず、"ぐわ"ですが、"国語研の窓"第2号 "暮らしに生きることば"という記事で、「元日のガをグヮのように発音する地域があります」として、"国立国語研究所『日本言語地図』第1集(1966年刊)第5図"を引用しています。

それによると、"グヮ"と実際に発音する地域は、九州から沖縄に掛けて、また四国東部、日本海沿岸など、私の予想よりずっと広い範囲に広がっています。

1966年に刊行された文献ですから、調査は1960年初めごろでしょうか。戦後しばらく経過した時点でもまだまだ残っていることになります。

ただ、一つ疑問なのはモモンガという動物は中国からはいってきた動物ではなく日本古来の動物です。

"グヮ"という合拗音は基本的に中国語の音(おん)を表記するときに使うものですから、ちょっと違うのではないか、と思いました。

しかし、日本国語大辞典では、ももんが【鼯鼠】の項で、"「ももんぐゎ」とも表記"とあり、語誌には次のように書かれています。

近世の資料には「ももんが(あ)」の「が」が多く「グヮ」「グハ」と表記されているが、当時、グヮという合拗音は漢語や擬声語にしか用いなくなっていたところから、グヮは、鼯鼠の濁った大きな声を写したものか。

つまり、「グヮという合拗音は擬声語」にも使われていることが分かりました。「グヮ」はモモンガの鳴き声を元にした擬声語からとられた可能性があるということです。

項番8、9の二つは、当字に近い漢字表記をかな表記に改めた、ということで、特別なことはないでしょう。

2日後の改訂版

項番10は大きな意味を持っています。

明治43年12月14日に原稿を書き上げ、それをもとに明治44年1月に雑誌"スバル"に掲載された、のですが、光太郎は原稿を書き上げたその2日後には推敲した、いわば改訂版の原稿を作っており、それが3年後の"道程"に収録されたことになります。

前回の記事で私はこう書きました。

高村光太郎のこの詩は、『頭を絞った』のではなく、『怒りにまかせて書き殴った』感があります。怒りの感情がストレートに出て来ているのです

また同じく前回の記事で、「日本の詩歌」から、次のような文章を引用しました。

感情や思考をむき出しのまま投げつけた

つまり、通常の詩作の態度ではなく、"感情的に言葉を並べた"というイメージです。

このような"感情の爆発"ですから、"推敲"などの対象にはまるでならない、と感じていたのです。

一方、3年後の詩集"道程"の刊行ではあちこち手直しが入っています。

ということは、「さすがの高村光太郎も3年という年月の経過の中で冷静さを取り戻し、じっくりとこの詩をよみ、推敲した」ということか。

と思ったのですが、どうもそうではない。

2日後には書き改めた原稿を作っているのです。

「感情の高ぶるままに言葉を連ねる」と同時に、その一方では、その内容をプロの詩人として冷静に推敲する、という行動を取っているのです。

「感情や思考をむき出しのまま投げつけ」たのではなく、そのような作品を冷静に書き上げた、という側面を認めるべき、という考えに至ります。

「"激情"をぶつけた作品を書いた」、という所でしょうか。

「このような詩を発表したら皆が驚くだろう」、ということを意図した、というところまで可能性は広がります。

"激情"型の作品

「"激情"をぶつけた作品」という点では、"根付の国"と"淫心"が代表的なものとしてあげられるでしょう。

この詩集"道程"では、"根付の国"は最初から3番目の作品で、"淫心"は最後から2番目の作品です。

この詩集は、作成年月順に詩が配列してあります。その最初のグループと最後のグループに、もっとも「"激情"型の作品」が配置されている、ということは、これまた意図した配置なのか、偶然なのか、興味をそそられます。

詩に対する高村光太郎の意識

以下の解説に、光太郎地震の言葉が引用されていて興味深いので取り上げます。

草野心平編 日本詩人全集9 高村光太郎 昭和52年6月七刷 新潮社


「私の詩は詩でないであらう。私はポエジイの為に何の寄与もしてゐない。此の形式でなければどうしても昇華し得ないものが自分の肉体と精神とに欝積して来るので己むを得ず書いてゐる。さうして出来たものを自分では詩と呼んでゐる。」(「小感」)


「私が詩を書くのは実にやむを得ない心的衝動から来るので、一種の電磁力欝積のエネルギー放出に外ならず、実はそれが果して人のいふ詩と同じものであるかどうかさへ今では自己に向つて確言出来ないとも思へる時があります。明治以来の日本に於ける詩の通念といふものを私は殆と踏みにじって来たといへます。」(「詩について語らず」)

「自分の肉体と精神とに欝積して来る」、あるいは「やむを得ない心的衝動」、「一種の電磁力欝積のエネルギー放出に外ならず」など、"言葉をこね回す"のとは正反対の態度が感じられます。

これが彼の詩の"主たる一面"、"正面の姿"でしょう。

しかし、それだけで終わるのではないようです。

詩人である以上、言葉に責任があります。伝わりやすいように表現に工夫をする必要が出てきます。

このような側面は見逃せません。

しかし、なんといっても、上に書いた"主たる一面"が断然優勢なところが高村光太郎の詩のもっとも大きな魅力であると感じます。


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