形而上学的なこと 【1】庭の小石に寄せて


[2023/7/24]

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前から不思議に思っていたこと

まず、最初の写真(写真1)ですが、我が家の庭に敷いてある小石です。

小石

図1 小石

しゃがみ込んで見ているというような状況です。

写真的に言うと、50mmの、フルサイズカメラでのいわゆる標準レンズで、最短撮影距離の45cmくらい離れた所からのショットです。

実際にはキヤノンのaps-cサイズのカメラでの撮影ですので、フルサイズ換算では80mmのレンズと言うことになります。

撮影場所はどんなところかというと、写真2のように、我が家の庭の気まぐれで選んだ場所です。

庭

図2 庭

こちらはズームレンズの18mmでの撮影です。どうでもいいことですが。

そこでこの記事のテーマですが、「写真1に写っている小石の特定の一つは、一体、どのような経過でその位置にあるのだろうか」、ということです。

考えてきた経過

庭を歩くと、敷いてある小石を踏みつけることになります。その結果、靴の下の小石は位置を変えます。

記録を探ると、庭を整備したのは2006年のことでした。それまでは芝を植えていたのですが、芝が伸びるのと、その間に雑草がはびこるので、その処理の負担に根負けして、芝を取り、ある所には敷石を置き また小石を敷き詰めたのでした。

庭造りは専門の業者に依頼しました。

そのときに、どのような石を敷き詰めるか、という事を業者と打ち合わせて、今あるような感じで小石を敷き詰めることに決めました。

庭園の業者は、取引のある小石を扱う業者から、たとえば20Kg入りの袋を50袋というように発注して、届いた小石を袋からぶちまけて平らにしたのでしょう。

その後、庭を何度も、私の家族が歩き回り、その都度位置をわずかに変えながら、今に至ったのでしょう。

小石を扱う業者は、ここでは砂利業者という事にしましょう。

砂利業者は、具体的には分かりませんが、たとえば採石場で、ダイナマイトで粉砕した石をブルドーザーで取り込み、ダンプカーの荷台におろし、ダンプカーは砂利業者の工場内で石を下ろし、それをたとえば20Kg入りの袋に詰めて、顧客の求めに応じて配送するのでしょう。

これを考えると、ダイナマイトで大岩を粉砕したとき、一つの小石はどのようにして発生したのでしょうか。

大きな岩石がダイナマイトにより粉々になって散らばる、というとき、たとえば、気象条件、湿度、温度、風向と風速とかにより、爆発の様相は変わってくるでしょうし、小石の散らばり方も変わってきます。

一方、"大きな岩石"は、その成り立ちにより、亀裂が入りやすいところができているでしょう。

岩石は、火山岩、堆積岩、変成岩の3種類に分類できるらしいですが、同じ分類の岩石でもその成り立ちはさまざまでしょう。

火山岩であれば、その成分は土地によっていろいろでしょうし、それが溶けた状態からいろいろな条件で冷えて固まったもので、固まり方も様々なはずです。

堆積岩なら、元々の材料が火山岩が崩れた物であったり、生物だったりします。

生物の場合はそれなりの"一生"を終えたのち、長い年月を経て岩石になったのでしょうから、その成り立ちはまさしく複雑としか言いようがないと言えます。なんと言っても、親がいたわけで、さらにその親と、どんどんさかのぼれるわけで、その種の最初の個体まで行き着きます。

その個体が死んでからの岩石になるまでの成り立ちは、大洋や湖の下で堆積岩になった後、地殻変動で地表に表れたのでしょうから、その経過もまた様々でしょう。

変成岩なら、もともと火山岩とか堆積岩が熱や圧力でその材質が変化したので、元々の岩石が何なのか、どのような熱や圧力でその材質がどのように変化したのか、と、複雑さは一段と増します。

時間をさかのぼる―偶然と必然―

このような歴史を、時間をさかのぼって考えてみると、原子レベルでは、地球ができたときまでさかのぼれるのでしょうか。

放射性元素でなければ、地球ができたときから、原子レベルでは変化がないと、私の乏しい知識では思います。

目の前にある小石が、地球ができたときから延々と時間を紡ぎ、ここにあるのです。


疑問がわきます。

この小石がここにあるのは、偶然なのだろうか、必然なのだろうか、と。


砂利業者の場面から見てみると、この小石は20Kg入りのある袋のある位置にあって、ある意味では運ばれるのを待っているかのようです。

庭園業者との売買が決まり、何十袋がトラックに積み込まれ、我が家の庭に下ろされます。

次に、庭園業者は、その袋の一つ一つをとり上げ、庭に撒いていきます。たとえば、五番目の袋を取り出し、庭のある場所に持って行って中身の小石を地面に撒きます。そのときにこの小石は我が家の地面に着地します。

今注目している一つの小石を、この位置に置きたい、とでも言うように撒いた、と見ることも可能です。

その後、私の家族は庭を何度となく歩き回ります。その中のとても小さい割合の足の運びでその小石が踏まれて場所を移動します。まるで、その小石の位置をずらそうとして足をその位置に下ろしたかのように。

時には台風の強い風で、今注目している小石はころっと転がって、回転して1cmほど向きと位置を変えたのかもしれません。

台風は空気の流れですから、空気という流体の働きと地面の相互作用で、またそのときの気温や日光の照射での影響で、その作用が決まります。まるで、その小石を吹いて転がすために、フィリピン沖の太平洋で発生し、何日もかけて発達し、日本列島に近づき、我が家の庭に強い風と雨をもたらしたかと想像することもできます。

そう考えると、いま目の前にある一つの小石は、地球ができ、何億年後に元の岩石となり、その後何億年後の日本列島のこの位置に配置されようと、虎視眈々とねらっていたとも考えられます。

そうなる確率は、とても、とても、とても、とても、とても、小さいのですが、ゼロではありません。

確率がどんなに小さくても、起こる場合があることは、次のケースを考えると理解できます。

トランプの52枚を一列に並べるとします。

トランプは長い間使い込まれたものなら、幾度となくシャッフルされたので、トランプの52枚を一列に並べたときのいわゆる順列は、どれも同じ確率のようにおもえます。

一つ一つの発生確率は1/(52!)で、(52!)という整数値はとても大きなものですから、1/(52!)の確率の現象が現実に起こるとはとても思えません。

(52!)をExcelで計算すると、約8.1*1067 です。この 1067 がどのくらい大きな数かというと、見当がつきません。

しかし、52枚のトランプを実際に並べてみることは簡単で、どのような並びになるのかは予想できませんが、結果として一つのパターンが起こります。

やる前にはその並びが発生する確率は、上に書いた様にもうゼロに近いとしか言いようがないのですが、現実にはどれか一つの並びになるので、とても低い確率の事象が現実に発生するのです。


偶然というのは、単に事象が複雑で、必然的にこうなる、という推定あるいは計算を人間ができない、ということなのか、とも思えます。

人間の考え

ただし、人間の考えることに思いを馳せると、ちょっと分からなくなります。

たとえば、庭にいて、あの木の右に伸びた1本の枝はもう少し短くした方がバランスがとれる、と思って、はさみを手に持ってその木の所まで行って枝を切り詰め、そして戻ってくる、という場面で、木の所までを往復する途中に小石を踏んで、その位置が変わる、という場合、私が木の枝を見てそのバランスについてどのように感じるかということがきっかけですが、そのことは何か他の要因から推定あるいは計算できるのでしょうか。

この記事の結論

このような事は私の頭で考えても、納得がいく答えは出てこないでしょう。でも、ときにはこのような事に思いを巡らすことも悪くはないでしょう。

備考

上記のようなことを考えているときに、スピノザのことが気になり、図書館から何冊か本を借りてきてざっと目を通しましたが、もちろん、何か新しいことが分かったという物ではありません。ただし、全ての物は神の一部の表れである(*1)、という考えは、仏教の教えの一つである「全てのものに仏性がある」(*2))ということに通じるような気がして、これはちょっとおもしろいな、と思いました。

(*1) エチカ 第一部定理15 存在する物はすべて神のうちにある。そしていかなるものも神なしには存在しえないし、また考えられることもない。(下記の(2) p.91から引用)

スピノザについて目を通した(目を通そうとした)本を以下に書いておきます。

(1) 國分功一郎 スピノザ―読む人の肖像 岩波新書(新赤版)1944 2022年10月 第一刷 岩波書店
(2) 下村寅太郎責任編集  世界の名著 25 スピノザ ライプニッツ 昭和44年8月 中央公論社
(3) 佐藤一郎編訳 スピノザ エチカ抄 2018年5月 新装版 みすず書房

(*2) たとえば『涅槃経』の解説書を読むと、「全てのものに仏性がある」ということで、いろいろな考え方があると紹介されています。ここで言う「全てのもの」が動物全般を含むのはもちろんですが、生命のある草木まで含むのか、さらには生命を持たない小石や壁なども仏性を持つのか、意見が分かれるようです。たとえば、親鸞聖人の「草木国土ことごとくみな成仏すととけり」とか、道元禅師の「草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり」などの言葉が紹介されています。ただし、中国と日本ではこうでも、インドでは「有情と無情のいずれにも仏性があるという信仰は中国や日本の人々に浸透したが、「大乗涅槃経』では山川草木には仏性はない、したがって成仏はありえないと説いていた」というように、違いがあります。以上は下記を参照しました。

(1) 田上太秀 『涅槃経』を読む 講談社学術文庫1686 2004年12月 第1刷 講談社 pp.134~144



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